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言語心理分析を「伝える」ことの難しさを感じている・・・


■2つの言葉から何がわかる?


ちょうどスタートした言語心理学講座。
の、2回目は病院送り(言い方)のため次回に持ち越し。
自宅送り(言い方!)となってから専用のグループでクイズ形式的なものを出している。例えばこの2つ。ちょっと考えてみてほしい。

「(私は)直感に優れている」
「(私は)直感力がある、高い」
と言う人は何を告白している?

そしてこちら。

(この年齢になっても)「まだまだ女として見られたい」

短い言葉から背景を読み取るわけだけど「これが根本にある答え」を誰もが感覚的にはつかんでいるだろう?と思って割と簡単な設問として出した。クイズ的なものなので。

それでこんな答えが返ってきた。

【直感の方の回答例】

・思考力が低い、苦手。考えずに行動する。

・直感という一つの力に注目してすぐれている劣っているという捉え方をしますということを告白している。さらに言えるのは、そういった一つの力が高いことで満足したり、一つの力が高い自分だと限定して自分のことを捉えていて、だからこそ、その力だけで自分をいかす人で、他の力は鍛えなくていいですよと思っている。

【女として〜の回答例】

・女性として自信がない。女性として見られていないというコンプレックス。年齢を重ねてなお、女性らしさを保つことに対しての・・・何でしょうか・・・焦りやこわさのようなもの?

・年齢があがるということを否定的にとらえている。自分がどう見られるかという視点を持っていて、自意識過剰


いや、そうなんだよ。合ってる。正解。なんだけど、
そうかぁ〜そうきたか〜・・・これどう説明したらいいんだ?と現在伝え方が迷走中


■まず答え→説明を 「直感」


心理読み取るわけなんんだが、心理を読み取るにはその後ろにある構造の読み取りが必要。これが物事をややこしくさせている気がする。
とりあえず答えと説明を。

まずは直感の方から。

「(私は)直感に優れている」
「(私は)直感力がある、高い」
と言う人は何を告白している?

答えは【雑な人】

これは単語を変えてみるとよくわかる。
例えば、

「(私は)運動に優れている」
「思考力がある」
「恋愛が得意」

または

「俺、仕事できる」
「私、料理得意」

も同じような意味で、これの何がどうなのか?というと、何ひとつ具体的なことを説明していないということがわかる。

サッカーのフォワードやっている人は
「サッカーが得意。攻めるポジションなので点を取ること。とりわけ裏に抜けることに自信がある」
というようなことを言うはず。ここまで具体的に言うかは状況によるけど、少なくとも「運動が得意」とは絶対に言わない。

宇宙物理学を職にしている人はどんなに頭が良くても「思考力がある」と言わないし、異性が尽きない人は「恋愛が得意」とは言わない。
何と言うかは限定し切れないけど、そういう発言をしないというのはわかるか?

優秀な営業マンは「仕事ができる」という雑な言い方をしないし
和食の料理人は「料理が得意」とは決して言わない。
言う必要がある時は、もっと具体性のある細部の何かを言う。

つまり「直感力がある」と自称する人は、雑な発言をするということは直感を使うとき・普段から雑な性格が垣間見え、ということは直感が大して得意ではないと告白していることになる。


■「女として見られたい」の方は?


(この年齢になっても)「まだまだ女として見られたい」

この答えは「自分が望まない現実を自分で作る人」
心理というより構造。でも構造から心理が生まれ、そこから発言が生まれる。

こちらは「なぜそう『言わなければならないハメ』になっているのか?」と考える。

文脈から、女として見られていないこと、それは昨日今日始まったことではないことがわかる。結婚しているかどうかは分かれるが、概ねこの発言は結婚している人に見られやすい。今回は結婚している前提で説明を進める。

結婚生活が長くて旦那さんが女として見てくれない。そうなって年単位の時間が経過していることがわかる。数ヶ月単位なら「最近〜〜」「どうにかしたい」という心理になるので、かなり長い期間そうなっているはず。

結婚生活をしている人が「長い期間女として見られない」と言っているのだとしたら、まずは旦那さんのことを指し、場合によっては他の男性からも・・・というニュアンスを含む。
「女として〜」という発言が出るのは、イコール「以前は女として見られていた」ということを含む。これまでの人生でそう見られたことがないなら、『まだ』女として見られたいとは言わない。

このことから
「女として見られる時期」
→「女として見られない時期」
→「やっぱり見てほしい」

という順番があることがわかる。

それで「女として見られない時期」は誰がそうしたのか?ということに疑問が出る。答えは決まっていて自分しかいない。
旦那が女として見てくれなくなったとしても、物理的に女として見られる自分の維持はできる。であれば、他の男性に向かう気がないとしても、誰かはどこかで女として見ているはずで、その場合「どうでもいい男には女として見られるけど、肝心の旦那が見てくれない」『振り向かせたい』というニュアンスの発言になる。

このことから、家事や育児なり、女であることを別の何かの理由でストップして→当然女として見られなくなった可能性が濃厚だとわかる。
そのまま「もう一度女として見てほしい」と【思わない】人がいるのに、この発言をする人は「いやいや見てほしい」と思っている。
時間が経ってからもそう思うなら、本心はそもそも女性性を大事にする自分だとか、そこを満たしたい気持ちが強い自分だったのに、その他の別の理由をやらなければならないなどと優先(家事とか育児であることが一般的には多い)して自分を打ち捨てた、ということがわかる。

説明長いので、シンプルに言うと
女として見られることが大事なのに、ずっと疎かにしてきたからこと「見られたい!」とわざわざ言わないといけないハメになっているということ。



という解説さえすれば、あとは自力でわかるよ・・・・・ね?
たくさんケーススタディすればわかるかな・・・。困った🤔


2回目が伸びたことによって、言語心理学プログラムまだ募集間に合います。
初回は誰でも覗けるので、今からでも興味ある人は申し込みどうぞ。
2回目は次の土曜です。


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