見出し画像

生成系AIが生み出したモノの価値とは

昨今、生成系AIがブームですが、ご多分に漏れず自分も色々触ってみて思うところがあったので、忘れないうちに書いておこうかなと

↑にも画像があるけど、これMidjourney先生が生み出したものです
プロンプト的には全然難しくないもので、以下を入力して生成されたもの

aurora in iceland, Reykjavík

以前、アイスランドに行ったときにオーロラの写真を頑張って撮影してみたことがあって、それとどれくらい違うもんかと比べてみようと思って生成してみた

その結果がこれ

Midjourney版アイスランドのオーロラ

いやーキレイよね。よく見るとガビってるけど、まあキレイ
こんなオーロラ見てみたかったわ。

で、実際にアイスランドで四苦八苦して撮影したオーロラ

アイスランドで実際に撮影したオーロラ

自然相手に素人が撮影をするもんだから、クオリティはまああんまり良くないですわな。
ただ、こうやって画像を生成してみて見比べて感じたことが結構重要な気がしていて、これを書こうと思ったわけ。

Midjourneyで生成されたオーロラの画像は自分にとってどういう意味を持つのか?

結論;なんの意味も価値もない

パソコンとかスマホとかデバイスの中でこういう画像が生成できるようになったのは本当にすごいと思う。だけど、なんかよく分からんけどそれっぽいキレイな画像ができた、という事実でしかなくそれ以上でもそれ以下でもない。

それに比べて、自分で撮影したオーロラに関して言うと、たしかに写真のクオリティとしては高くないかもしれない。でも、あの寒い暗闇の中でどうやったらオーロラをキレイに撮影できるのかと試行錯誤した体験が、あの写真と共にあって、自分の中の大事な思い出として残っている。
それに、オーロラって肉眼ではあんなパキって見えなくて緑色のぼんやりしたのが見えてんなーぐらいでしかなかったけど、長時間露光して後から見ると初めてこれぐらいの写真ができあがるということも分かったことが自分の体験としては非常に貴重な体験をした

そう考えると、もはや機械的にアウトプットされたものだけではなく、自分で撮影した写真も含めてデータ自体にはあまり意味も価値も無くて、それを生み出すためにどのような体験、経験をしたかが最も重要なのかを改めて気付かされた今日この頃。

そう思ってからは自分自身としては、プロンプトを打って生み出されたデータには価値を全く感じられなくなってしまった。
ただ、唯一価値がありそうなのは、プレゼンとかWEBとか「こういう感じの画像が入れたい」って時にいい感じのが見つからず、探していた時間とか素材を購入するお金とかを考えなくて良い(自分で作ってしまうのが一番早くて安い)というところぐらいかなぁ。

これは、あくまでも自分自身のN=1の意見でしかないかもしれないが、そういうところに落ち着いた次第。

これに限らず、モノからコトへ(ていうか、自分はこの表現はなんかシックリ来なくて嫌い)みたいな言葉が流行って久しいけど、こういったところからもやっぱり体験価値というところにどんどん世の中の価値の比重が高まっていくんじゃないかなぁということを感じた

でも、こういう新しいツールで遊ぶのは楽しいから、しばらくは色々遊んでみて、気づいたことがあったらまた何か書いてみようかな

ばいちゃ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?