不適切の表象が不適切な行動になる時代に生まれて 〜ツイフェミ批判①〜

あるツイフェミがRTしていたこのツイート、端的に言って頂けない。

「誘拐なんて犯罪なんだし、こういうふうに犯罪を匂わすのは良くないでしょ!」
という反応が予想される。

僕は、そのような反応、ひいては、このツイートが異常だなんて思わない。
不適切な物の表象を不適切とすること。
犯罪の表象を犯罪とすること。
むしろ、こうした言説は世界的なもののように思える。

だが、それでもやはり、そういった言説は頂けない。
何故か、を説明する材料にもなってくれるのが、
このツイートの連続ツイート(同投稿者による返信ツイート)である。

この男オタクたちは「世の中にはネタにしていいことと悪いことがある」って親に教わらなかったのだろうか。
https://twitter.com/lije_bailey/status/1018188231353950208?s=20

とこれを見せられても問題ないと思う人、寧ろもっともだと思う人が多いだろう。

批判その①;規範性の観点から
しかし、その多いということを、常に立ち止まって考えるべきだ。
多い、一般的、規範的ということにこそ、問題がある。
なぜなら多いもの、一般的なものによって、問題というのは現代に蔓延っているのだから。

ツイフェミは、思うにそういったところがある。
男/女の二項対立を一般化し、一般的な女性差別から女性解放を訴えようとする。

だが、フェミニズムは最早そのようなものではない。
男/女だけではない様々な規範的な性の権力関係を解消しようと努めること。
性にかぎらず、あらゆる規範的な権力関係を解放しようとすること。
これこそ第三次・ポストフェミニズムの理想ではないのか。

前引用に戻るが、曰く「ネタにしていいことと悪いこと」の線引きがあるそうだ。
しかしこれこそ規範の押し付けではないのか。
そこに持ち出されるのが親、というのもまた規範性を示してしまっている。
この連続ツイートの問題点はこの規範性なのだ。

「でも、誘拐は違法な罪だから、規範とかいう問題じゃない!」

批判その②;違法性の観点から
このタイプの非難は、痴漢の表象などにも見られる。
まず第一に、法律というのも無根拠なただの規範にすぎない。
たとえ法律であっても、そこには信じがたい権力関係が刷り込まれていることは珍しくない。
寧ろあらゆる解放・平等運動は、法の改定・制定を求めてきたのである。
フェミニストも従って、法律を根拠にすることはよろしくないのだ。

ツイフェミがフェミニストでないと僕が主張する根拠もここにある。
ツイフェミはその他日本人(ネトウヨも含め)に漏れなく、実に法遵守的な節がある。
一方では不条理な社会法制を非難しておいて(尤もこの主張は正しい)、
言説には法規範を根拠にするというのは通らない。
あらゆる法は、規範として疑われなければいけない。

規範的でないもの、規範性から振り落とされ、不自由な人たちを救うため、規範性を疑う、というのが、広義のフェミニズム・解放運動である。

「いやいや、違法とか規範が問題なんじゃなくて、被害者がいることが問題。そういう表象は、加害者を刺激し被害者を増やすし、被害者も不快になる。」

批判その③;表象と被害の関連性

上記の理念が、ツイフェミのこういったツイートのもとにあると思われる。
実はこれは特異な主張ではなく、例えば児ポ法などはこの理念に則っている。
違法な、あるいは違法行為をもたらす表象を禁ずるということ。
この児ポ法はワールドワイドな法律であり、それをツイフェミが主張するのはもっともだ。

だが前述したように、あらゆる法律は疑わねばいけない。

⑴:違法な表象が、違法行為を助長する環境を作り上げる点で問題であるという主張。
この主張もツイフェミによく見られる。
もちろん誘拐という言葉を見て、作品を見て刺激され、実際に行動に及んでしまう人間がいないとは言い切れない。

しかし、そんなことをいったらあらゆる作品、テロが絡むSF小説だったり、スパイアクション映画なども同様ではないか!
実際スパイものに影響を受けた犯罪は時たまニュースになる。

あらゆる違法な表象を規制する社会は、恐るべき管理権力社会だ。
ましてや、表象だけによって起こる犯罪は存在しない、
経済的な理由、職場環境、自然環境、あらゆる要因が重なって犯罪は起こるのである。
違法な表象を消しただけで違法行為が消えるというは大きな思い上がりだ!

むしろ表象における違法行為は、成し遂げられない欲望を適切な形で処理できる道具でもあるはずだ。
むしろその全面的な禁止は、違法行為を助長する可能性だってある。

⑵:被害者の心情を配慮すべきという主張。
これは、適切なゾーニングがなされていれば全く問題ではないだろう。
公共放送や、公共空間に、敢えて不快にさせるような表象を送り込むのは問題だ。

しかし、ある程度のゾーニングがなされているにも関わらず、それを全般的に規制するというのはそれこそ規範性を押し付ける行為である。
ゾーニングの程度の問題は難しい(また別に議論したい)が、本ツイートが問題にしている「ハイエース」は全く問題がないだろう。何しろオタク間だけで使われ、隠語化もなされているのだから。

柴田英理氏の言葉を借りるなら「お気持ちブルドーザー」的な主張だといってよい。
「荒れた道路」と「勝手に工事しようとするブルドーザー」
どちらに問題があるかは自明である。

最後に

さて、ここまでいかに本ツイートに問題があるか、ひいてはツイフェミに問題があるかを議論してきた。しかしまず、このツイフェミという呼称が、少々粗暴な呼び方であることは否めない。Twitterにいるフェミニストにも、きちんとフェミニズムの歴史を受け活動されている人たちは沢山いる。僕がツイフェミと呼んだのは、「きちんとしていない」フェミニストだと僕が感じる人たちだということは断っておきたい。加えてツイフェミの主張が全面的に間違っているとも思わない。男性優位の社会構造の変革の必要性には異論がない。しかしやはりツイフェミたちは「足りない」、がゆえに責められるべきである。何が足りないかといえば、三次・ポストフェミニズム的な普遍的な平等という観点である。ツイフェミの観点は、シス・ヘテロ女性だけに傾きすぎているし、規範性への批判の意識も足りない。
だが規範性への意識が足りない、むしろ強まっているのが現代世界である気がする。それゆえ、真に批判すべきは、この現代世界の規範性なのだ。
特に批判したいのが、表象と行動を結びつけるような言説だ。
完全に自由な行動は、確かに社会を崩壊させてしまうのだし、現に社会と契約したもとで、それを一部放棄している、せざるをえないことは間違いない。
だが表象とは、その社会といったものの中で、人類が自由さを発揮し、発展の原動力にしたものだろう。
ポストモダン、現代はその社会の側の不自由さを解消しようとする時代だったはず。それなのに、元来自由さを担保していたはずの表象を不自由にしようというのは、退行であってあってはならない。
むしろこの現代世界の状況は、行動が自由になりすぎてしまった自国民を、違う方法で制限しようとする国家の新たな公理なのかもしれない。
その中で、表象を制限しようとする価値観を批判し、全ての人の自由と快適さを確保すること。

その取っ掛かりとしても、僕はツイフェミを批判する。






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