村上春樹 - 海辺のカフカ #002

「村上春樹、読んだことある?」

読んだことはなかった。もちろん名前くらいは知っている。本のタイトルも数作は言える。頭にいくつか思い浮かべてみるが、もしかしたら村上龍の作品が混じってしまったかもしれない。

「面白いから読んでみて」とスミレは二冊の本をぼくの前に差し出した。『海辺のカフカ』というタイトルだった。上下巻。けっこう分厚い。もともとぼくは他人から何かを勧められるのが苦手だ。断りにくいし、選り好みが激しい自分に合う可能性はほとんどゼロに近かった。しかし、推薦者がスミレなら、ぼくが密かに思いを寄せている相手なら話は別だった。

その日から寝る前に読書をする習慣ができた。はじめて体感する村上春樹の世界は少し難解だったが、それでも毎日少しずつ読み進めた。ときどきスミレにメールで進捗を報告した。全部を読み終え、スミレに感想を伝えるその日が来るのが待ち遠しかった。

下巻を4割ほど読み進めたある日、スミレがまもなく実家に帰ることを知った。前々からなんとなくは聞いていた話だけど、まさかこんな急に決まるなんて。帰るまえに会って、本を返して、別れを惜しんで……、惜しんで……、惜しんで……、惜しんで、どうしたいんだろう。

けっきょく会えずじまいのまま、スミレは旅立っていった。「本はあげるね」という内容のメールがスミレから届いた。どうしてもっと早く読まなかったんだろうと後悔した。ぼくはふつうの内容の文章をメールで返した。どこからどう読んでもふつうの文章。相手が拍子抜けしてしまうくらいのふつうの文章。別れにはまったく似つかわしくないふつうの文章。行間に思いを込めないように細心の注意を払って入力したふつうの文章。

その夜は時間を忘れて『海辺のカフカ』をただただ読み続けた。

最後のページを読み終え、本を閉じたとき、外はすでに明るみ始めていた。時間は6時を過ぎたところだ。読書で徹夜をしたのははじめてのことだった。ぼくは外に出て、まだ朝もやの残る街中をあてもなく歩いた。少しまえまでスミレがいた、この街を。

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