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「がきデカ」の山上たつひこ氏と「ぼのぼの」のいがらしみきお氏による漫画原作を「桐島、部活やめるってよ」の吉田大八監督が実写映画化したとのことで、この組み合わせだけでもそうとうですし、観ない理由を探すだけアホらしいので素直に観に行って来ました。凶悪犯罪を犯した元受刑者を過疎化の進む地方都市に移住させるという国家事業。その受け入れ先の漁村を舞台に描くヒューマン・サスペンス・ドラマ「羊の木」です。

と、まぁ、原作の時点で既に面白そうなんですが僕は未読でした。(というか、この映画の情報を得るまで存在自体知らなかったです。2011年から「イブニング」で始まって、2014年には文化庁メディア芸術祭マンガ部門の優秀賞を受賞してるそうです。)しかし、山上たつひこ、いがらしみきお両氏の作品はもちろん知ってますし、お二人共ギャグ漫画出身でありながら、人間の本質をえぐる様なシリアスで強烈な作品も多く、そういうのもいくつか読んでいたので、この原作が両氏のそっちサイドを集結した物であり、そういう世界観が吉田大八監督の資質に合ってるだろうなというくらいまでは分かるわけです。だから、個人的には、それをそのまま「ああ、なるほど。」って感じでやられてもいまいちノレなかったと思うんですね。で、そういうの踏まえた上で、やっぱり、吉田監督は原作の持ってるおいしい部分をそのまま映画にする様なことはしなかったんだんだなというのと、鑑賞中にそこに気づいてからは結構興奮しながら観ることが出来て、僕はかなり面白かったんですが。ただ、いまいちだったという人の気持ちも分からないでもないんです。何せ僕が「そういうことかな?」とおぼろげながらにも感じた部分というのが、劇中で流れるある音楽のジャンルを知っていたからだと思うんですね。(ただ、これも僕が個人的に"それ"をそう感じて、そういうことなら、この映画のこの感じはそうなんだと思っただけなので。その"それ"が正しいかどうかは分からないのです。まぁ、一応、出来る限りのとこまでは説明してみますが。)

えーと、まず、吉田大八監督の前作「美しい星」(感想はこちら→ http://esuhiro-kashima.tumblr.com/post/161575647828/%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%98%9F )の時もそうだったんですが、割と有名な原作を使って、その原作が持つ雰囲気とは違う(もしくは、そこから監督が嗅ぎ取った別の側面の)視点で映画化してるんじゃないかっていうのがあって。前回の「美しい星」が詩的で観念的な原作を使ってコメディーにしていた様に。今回の「羊の木」も(原作読んでないので推測ではあるんですが)話の内容がサスペンスやヒューマンドラマ風であるのに、映画はそのどっちの描き方にもしてないと思うんですよね。で、僕が感じたのは「これ、ホームドラマにしようとしてるんじゃないのかな。」ってことなんです。(ネットで原作漫画の画像をいくつか見たんですが、元受刑者達の犯罪に関わる直接的な表現を意図的に外してるんですよね。)

つまり、元受刑者が素朴な田舎町でそこの住人に紛れて生活するっていういくらでもドラマチック(そして、ショッキング)になりそうなシチュエーションで、吉田監督が映画の大半を使って描いているのは淡々とした元受刑者達の生活なんです。(それもほとんど何も起こらない。)だから、ここで退屈と感じる人はいると思うんですね。ただですね、これがこの映画の肝というかテーマなんじゃないかと思っていて。映画の中で移住して来るのが元受刑者達だというのを知ってるのは主人公の市役所職員(錦戸亮さん演じる)月末と、その上司と後から事実を知る事になる月末の同僚の3人だけなんです。だから、映画の中にある何か起こりそうっていう不穏な空気を感じているのはじつはこの3人だけなんですね。で、その空気が一体何から来てるのかっていうと、この事実を知っている3人による「元受刑者が普通の生活なんか送れる筈がない。」という偏見なんですね。だからこれは、それは分かっていると。偏見なんかで他人の事をこうだって決めつけてはいけない。だから、自分は他人をそんな風には見ていない。でも、何か事件が起これば事実を隠していたこちらの責任問題にもなるわけだし。いや、でも…っていう主人公月末の心の中だけのサスペンスなんです。つまり、月末達以外の街の住人にとっては何ら変わらない日常なわけなんです。監督は原作の中から淡々と日常を描くことが最もサスペンスフルだっていうのを嗅ぎ取って、それをとことんやることで根拠のない不穏さと不協和音による緊張感(でも表面的には日常が続いているっていうの)が狙いだったんじゃないかなと思うんです。で、僕がなぜそう思ったのかというと、主人公の月末たちが趣味でやってるバンドの音楽。これに物凄い違和感があったからなんですね。

普通、映画の中で主人公たちがバンドを組むってなったらもうちょっと分かりやすいジャンルの音楽を使うと思うんですよね。でも、ここで演奏される音楽ってP.I.L(元SEX PISTOLSのジョン・ライドンがPISTOLS解散後に、ドイツのCANなどに影響受けて結成した実験的なパンクバンド)の様なミニマルなパンクなんですよ。淡々としてシンプルなドラムとベースのリフレインの上に不協和音のギターノイズが乗るってやつで。(いわゆるポップミュージックで言うところのサビみたいな概念がなくて、そういうロック的な盛り上がりによるカタルシスがないんです。)これ、普通に観てたらそうとう違和感あると思うんですよね。(P.I.Lの様な音楽にしてくれというのは監督からの要望だったらしいです。しかも、結構な尺でこのバンドの練習シーンが入るんですよね。)だから、このチョイスは絶対なんか意味があると思うじゃないですか。そうやって考えると、要するにこれは、不穏なフレーズが延々と繰り返される様な映画で、日常というのはそういう不穏さも内在しながら感覚的に進んで行くものであって、どこかで決められた終わりが来るものではないですよってことなんじゃないかなと思ったんです。で、正にP.I.Lを聴く時みたいに、その不穏さに身を委ねるみたいに観ていったら、この映画の持つミニマルさがとても心地良くなって来たんですね。(デヴィッド・リンチの映画とかそういう観方しますよね。)

だから、僕はこのミニマルな不穏さがずっと続いて何も起こらないまま映画が終わってもいいと思っていたんですが、不協和音ではあっても一応アンサンブルになっているバンドに、(松田龍平さん演じる)元受刑者の宮腰って異物が入り込む事によって、ミニマルな反復に突然終わりが来る事になるんですね。で、そっからは完全に音楽のジャンルも変わって行って、(個人的には、その焦燥感とより感覚的で人の感情の入り込む余地がなくなった感じが、一気にBPMが上がった様なドライブ感も含めて、ポストパンクの後により地下から出て来て、エイフェックッスツインという世界的ポップスターを生んだ”ドリルンベース”に近いなと思いました。)映画が完全に、日常に隠されていた非日常にシフトしていって、割とありえない方向に物語が収束していくんですが。こういう、まぁ、言ってしまえば変な作りの映画なのに中心にはちゃんと"人って何なんだ?"っていう疑問がずーっとあって、それが観終わった後に自分の中でクローズアップされていき、結局そこが一番心に残るっていうのとか、(ここ最近だと一番ビックリした映画)「スリー・ビルボード」と同じ様なテーマで、同じ様な作りの映画だったんだなと思うし、原作の面白さを理解した上で、そこに吉田大八イズムをこういう形で入れてくるかっていう大胆さも含めて、吉田大八好きとしては結構満足な作品でありました。

http://hitsujinoki-movie.com/

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