見出し画像

東海村JCO臨界事故、あの日

もう20年以上が経過したので、記憶もだいぶ薄れていますが、1999年9月30日、あの大事故の瞬間に、自分は事故現場から直線距離で1キロの職場で作業をしていました。

茨城県東海村にあったJCO東海事業所の核燃料加工施設内で起こった核燃料による臨界事故の一報を知らされたのは、職場(派遣先)で作業をしている時でした。時間は、恐らくお昼前後だったと思います。

上司から突然、周辺で事故があったのですぐに帰宅するようにと指示されました。あわせて、帰宅したら窓を閉め、エアコンや換気扇等も絶対に利用しない事とのこと。当時の職場は原子力関係だったので、あぁ、放射性物質が拡散している可能性があるのだなと直感しました(実際には事故が建物内で発生しており、広範囲への放射性物質の拡散はなかったようです)。

帰宅してテレビをみるまで臨界事故だと知らず

事故の起こったJCO東海事業所は、よく近くを車で通る場所でしたが、帰宅する際は、決して近づかないようにと指示されました。幸い当時の自宅アパートは、JCO東海事業所とは職場から反対方向でしたので、まっすぐ車で帰宅しました。

自宅アパートに戻り、すぐに換気扇やエアコンが動作していない事を確認、お風呂等の小窓を閉めきりました。一息ついて、テレビつけると既に事故について大々的に報道されています。JCO東海事業所で核燃料による臨界事故が発生したとのことでした。臨界が収束しておらず、対応に苦慮しているのが報道からも伝わります。空気の動かない密閉した部屋が、更に息苦しく感じました。

外出もできず、情報源はテレビだけ

時間を忘れて報道番組をみていると、会社から電話があり、翌日以降も連絡があるまで出勤しないようにとの連絡でした。自宅アパートは事故現場からは数キロ離れていましたが、10キロ以内は屋内退避勧告が政府から発出されていましたので、出勤どころか外出もできない状況でした。

その日は、夜遅くまで事故を伝えるテレビに釘付けになっていましたが、緊張と疲れからか、いつのまにか眠っていました。結局、関係者の方々の努力で事故翌日の早朝に臨界は収束、自宅アパートを含む10キロ以内の屋内退避勧告が解除されたのは、同じく事故翌日の夕方頃でした。

退避勧告が解除され、少しして職場より連絡があり、明日出社する際に、事故当日履いていた靴を持参するように連絡がありました。翌日、職場では持参した当日の靴の放射線量測定がされましたが、線量に問題はなかったようで、それを聞いて少しだけ安堵したのを覚えています。

やっと日常が、、、。

この事故では、作業にあたった作業員の方はもちろん、事故収束に協力された方々、周辺の住民の方にも被ばくによる被害がありました。しかし、こんな大事故も、時と共に風化して、人々の記憶からも薄れつつあります。また、その後に発生した東日本大震災と、それによる福島第一原発の炉心融解事故等、人々の注目が過去の事故から移り変わっているのも事実です。

しかし、巨大地震や大規模な津波等の震災がなくとも、原子力事故は起こるという事を肝に銘じる為にも、東海村JCO臨界事故を風化させてはいけないと強く思うのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?