イベント「短歌文化祭」から

1 朗読の音とテクスト

音読

アメリカで住んでいた町は人口十万人の田舎町だったにも関わらず、毎週末どこかのカフェやイベントスペースで、オープンマイクのイベントが行われていた。通っていた高校では、授業の余った時間に、先生が発表の場を設けて、弾き語りもあったけれど詩の朗読も普通にあった。それはまあ、文化的背景もそうだけど、シェイクスピアのソネットなんかを一つでも朗読すれば分かるように、英語の韻の踏みやすさ、声に出したときの気持ちよさも要因だと思う。リズムに乗せて読んでいるだけでラップのように聞こえてくる。"Tyger Tyger burning bright In the forests of the night…" 

音読の喜びを日本語でも得られるのが、上田敏が海外の名詩を訳した『海潮音』で、これは短歌・俳句と同様、五・七を組み合わせたリズムで訳されている。ただ、短歌を朗読するというと、あの百人一首のかるたを詠みあげる「ちぃはぁやぁふぅる~~~」という間延びした(個人の感想)節回しのイメージがあったけど、今回参加した朗読イベント、短歌文化祭での音読は、ラップで言うなら「フロー」、それぞれの歌人の独自の詠み方があって、ポエトリー・リーディングのそれにずっと近いと思えた。

左沢森の一首から:音のリズムと視覚的なリズム

ここ数年の短歌は、Twitterでの拡がりが強いって印象で、Twitterなんだからそれはテクストで、というかそれ以前から自分でも「詠む」人以外は多くの人は歌集とかで買って「読む」のであり、それはまず文字、文学、視覚によって捉えられる。なんなら詩よりコピーライティングの方が親和性があるかもしれない。歌人・俳人でコピーライターというのは結構多いみたいで、例えば日本最初期のコピーライター、グリコの「一粒で、300メートル」を書いた岸本水府は大阪の川柳の大御所だった。音読されたときこれはどう変わるのか。

降りるまでにカロリーメイトを食べ終わるながいエスカレーターの永田町(左沢森)

左沢森のこの一首、五十首の連作の最後の一首で、一つ目もエスカレーターで始まっていて……とか他の歌との関わりもあるのだけど、まず音読で聞いてみて、「ながい」「ながたちょう」という音の韻が耳に残った。それで、後からプリントされたものを頂いて眺めると、今度は視覚的に「カロリーメイト」と「エスカレーター」という二つのカタカナ語の繰り返しが面白く見える。ごくシンプルなおはなし、これが音と文字、聴覚と視覚のリズムの違いだろう。音のリズムとは別なところに、「視覚的なリズム」っていうのがあると感じられる。

ビジュアルの喚起、音と文字との違い

もちろんいろんな歌があるけれど、音読・朗読の場合、ビジュアルを喚起するような表現・単語が入っている短歌の方が入りやすく(……その樹の倍はある白いビル)、抽象的な意味、形のないものの語りは捉えづらく感じた。(わたしは基本許したいんだと思うのに……

単語のレベルだと、日常的にその語がよく口に出されるかどうかで、詠まれたとき / 目で見た時のギャップがあると感じた。音として「文京区」や「消去法」とか、漢字が並んでつくられてる語は馴染みが薄く、ただし例えば「緊急事態宣言」は幾度もニュースとかで口に出されたからか、すっと頭に入って来る。

左沢さんの朗読に限らず、朗読での全体的な話、例えば傷、血、死、闇、あるいは性的なものとか、負のイメージのことば・表現、日常的にはちょっと避けたり遠回しに口にすることばの聞こえ方が違って感じられた。

子どもの死ぬ話だったと貸してから気づく 傾く 走る 電車で (左沢森)

短歌はたぶん日常を詠んだものが多い。その中に「死」が出てきて、しかもそれがひとの声で耳に届くと、その「なまなましさ」は文字とはだいぶ違って響く。電車で隣り合わせた人が、突然血みどろスプラッタな経験を語りだすのを聞いたみたいに、ぎょっとする。文字が既に書かれた過去なのに対して、声に出すことは「いま」にそれを立ち上げ直す。

南洋トロブリアンド諸島の呪術師は、新しいカヌーの進水式で、船体を樹の枝で打ちながら、「お前は早い、お前は飛ぶように走るだろう」と唱える。声に出し語り掛けることが、そのまま現実と結び付くという視点。あるいは、「君はすごいよ、出来るよ」と子どもに声をかけること。予言の自己成就まで、繋がってるみたいな、声、語りかけの力。

左沢森の一首:追記

永田町の歌は、幾度も読んでるとあれこれ発見があって、三十一文字をこれだけ味わうことが出来るんだな、と衝撃を受けた。「おりる」「かろり」の、R音の反復。「永田町」はそのまま、国会での「長い」答弁のイメージが喚起されて、それに対して「カロリーメイト」という忙しい人が食べるものによって「時」が計測される、その対比も面白い。連作の最後の一首に「終わる」が入っていることもそうだ。噛むほどに味が出てくる。また口の中で転がす。呪文の力を帯びる。

2 「私」性

エッセイと短歌の結節点

最近はエッセイばっかり読んでるのだけど、穂村弘に俵万智、歌人がエッセイも書いて、それがベストセラーになる例は多い。まあそもそも日本文学のオリジンであるところの土佐日記からして、「エッセイに短歌がついてる」形式って言えるかもだけど、それは置いといて、短歌とエッセイの深いところでの類似を語るこんな文章を読んだ。

短歌という器に盛られた『サラダ記念日』は、胃にもたれぬ味わいで多くの人々の心を捉えましたが、当時のエッセイやコラムもまた、同じ味わいを持っていました。(『日本エッセイ小史』酒井順子)

萩原朔太郎が、エッセイと詩の類似を指摘した最初の一人、ともされていて、そこでは文学は客観 ⇔ 詩、特に短歌は主観、それでエッセイもこっちサイド、主観に属すると言われている。「何気ない日常を、独特な私の視点で切り取った世界の見え方」みたいな? クリシェっぽい言い方かもだけど、日常エッセイにはこの「私の視点」が重要だと感じる。みんなが言うのとズレていて、でも「分かる」ってなる、そんな見え方。

書評家の三宅香帆『それを読む度思い出す』に、地元のイオンが好きだという話が出てきて、それからphaのエッセイ、『どこでもいいからどこかへ行きたい』にも、旅先でショッピングモールに行く話が書かれている。

AEONなんてどこも同じと思うけどこれは地元のAEONの写真 (左沢森)

短歌はもちろん一つ一つが独立した作品で、そのことが超重要とも思うのだけど、一方で何首も並んだ時に、それを書いた歌人の「視点」が見えてくると感じる。短歌文化祭の打ち上げで、「連作とは何だろう」みたいな話が盛り上がっていたとき、うまく言葉に出来なかったのだけど、そうしたことを考えていた。

私が好きな写真の話をすると、この話がもうちょっと分かりやすくなる。写真も、一枚ずつが独立した作品だけど、それと同時に、写真集や写真展で並んだ作品を見ながら、「この人の視点が面白いなあ」と思った経験、無いだろうか。フォトグラファーが何を見ているか、どのアングルでどう写しているか、なぜそれを選んだのか、その思考や感じ方が、だんだんとトレースできてくる。写真って、徹底的に外部のように思えて、実はすごく「私」を表現するものだ。

テクストというメタ性、音読の「私」性

ことばが文字として書かれたときに、それは強固な客観性・メタ性を獲得するように思う。それは作者にとっても、読者にとっても。バルトの「作者の死」ではないけれど、テクストは作者から離れて独立しようとする。

でもそれが音読されると、再びその人の物語へと戻って来る。特に、作者が、短歌の中で一人称──「わたし」「僕」「俺」──を口にするとき、それは彼女や彼と一致している。たとえ明言されてなくても、文字としては省略され、うすーくなっていた一人称が、声=主体と一緒に、補われて立ち上がってくるように感じる。「私が」カロリーメイトを食べ終わる。「私が」子どもの死ぬ話だったと気づく。文字で見る時は、もっと曖昧だったはずの主体が、薄幕の向こうからででんと登場する。

短歌(やエッセイ)は「私の視点」が軸と書いたけど、文字においては「視点」が前に出る一方、音読になると「私」の方が強くなるっていうか。

「私」が強くなると、文字ではバランスの取れていた内容が、音読だとナルシシズムが浮き出てくるものがある。格好つけてるみたいな、自分に酔っているような。特に「特別な自分の感じ方」をコアに作られた作品はそうだ。それが単に悪いのかというとそうでもなくて、たぶん届く範囲は狭く、でも届く人には共感が深くなるとか、そういうことが起こる。

短歌文化祭では、ポエトリー・リーディング、つまり定型ではない詩も詠まれたが、この場合、工夫によってかなり「私」を緩和することが出来る。物語にして三人称なり、複数の視点を導入するとか。言い添えると、歌人も歌会などで音読の機会はいつもあるわけで、朗読の仕方、トーン、フロー……でうまいこと「私」を薄めたり強めたりしていたようにも思う。

ヒップホップの「私」性と短歌

ヒップホップのこともあれこれ考えていた。詩的な文章を朗読するってくくりだと、似てるでしょう。ポエトリーラップなんてジャンルもあるし。ヒップホップのリリックは、それこそ「私」を前面に押し出したものが多い。多いのだけど、それは実は仲間とかリスナーへの呼びかけだったり、ダサいやつらとか社会に対してケンカ腰になったり、メッセージでもあることで「外部」が読み込まれている。語り掛ける対象が意識されている。

対等に話したいなら 登ってこいこの pyramid (Awitch「GILA GILA」)

一方の短歌はこの逆に、「内側」、身近な人や自分自身に向かって、ときに呟くような内容が主流だろう。

ヒップホップのリリックをプリントして文字で見るとき、失われているのはリズムだけでなく、声に担保された人格、「私」ではないか。ここで短歌とヒップホップは、文字と音読をめぐって逆の道をたどる。声に出された短歌は「私」性が強すぎて、文字で読むヒップホップは「私」性が弱すぎる。

「ポエム」が時に揶揄の言葉で、「イタい」と言われたり、中二病とか黒歴史と結び付くのは、そこにあるナルシシズムが問題だろう。ただ、ナルシシズムとか「私」性の全てが悪いのではなく、どう処理するか、表現するかによってそれは大きく変わる。朗読を聞く体験から、テクストと音読のあいだを考えるのは、こうした「私」についての良い機会だと思った。

3:詩とヒップホップ

意味かビジョンか

最初のパフォーマンスのフラワーしげる、その砂漠に関する短い物語詩が印象に残っている。砂漠に井戸があるがその水は苦く、誰もが口にするが吐き出してしまう。そこにお姫様がやってきて、水を飲むがやはり苦くて吐き出してしまう。これが強く残ったのには文脈があって、今年の四月に見た、いとうせいこう is the poet のライブで、「砂漠に血が滴る」と始まる詩を朗読していたことだ。[注1]

砂漠に砂に滴った血は乾いている 熱い砂に落ちた血の雫は乾いている

いとうせいこう is the poet /シャーウッド・アンダーソン   

どちらも、砂漠へと人間の身体を通った液体が零れているイメージ。液体は砂漠を濡らす。けれども膨大な砂に対してその液体はあまりに僅かで、渇きを潤すには到底足りない。

二つの詩は二つとも、物語を目指していない。フラワーしげるの詩は、お姫様が苦い水を吐き出して終わる。小説としてその話を書こうとすれば「それからどうなったの?」と聞きたくなりそう。物語は伏線とオチを要求する。欲望する。詩はそうではなく、いわばビジョン、砂漠に吐き出される水という、視覚的で、象徴的なそのビジョンが獲得されること、それ自体が目的になる。詠むほうも、読むほうも。

詩は意味的な完成を欲望しない。

これは短歌とも関わってくる。短歌はその短さ故に、やはり意味の上でのオチ、物語の完結とは遠い場所にある。体現止めでもなんでも、会話や文章の途中で途切れ宙づりになったような歌がある。というかそちらの方が圧倒的に多数じゃないかな。そして読者側も、そのことを自然に受け入れてる。

多様な詩、多様なラップのリリックがあることは前提として、それでもラップと短歌や詩の大きな違いがここに。ラップは相手・対象を含意した「メッセージ」が基礎にあるから、伝え切ること、言い切ることが要求/欲望される。「朗読」って形式は同じでも、この地点は大きく異なっている。私が詩に感じる魅力の源泉はたぶんこれに近いところにある。

闇とリアル

短歌もあまり読んでいないし、ヒップホップもそれほど沢山聴いていないので印象で話してしまうのだけど、短歌はもちろん日常ばかりでなくて、死や性や暴力とか血なまぐさい題材も詠まれる。

いまだ首吊らざりし縄たばねられ背後の壁に古びつつあり(寺山修司)

……のだけど、そんな「闇」あるいは「病み」は、詩的な処理を経て、そして定型に収められる中で、抽象化される。一般化される。一方でヒップホップ、特にギャングスタラップでは「リアル」な生──貧困、暴力、が具体的に、赤裸々に歌われる。特殊化される。個別化される。それで、そのことに重要な意味・価値が与えられる。

お袋は包丁 妹は泣きっ面 馬の骨の罵声はサディスティックだ 水商売 母一人子二人 薄暗い部屋で眺めた小遣い 馬の暴力は虐待と化す(鬼/小名浜)

リリックに歌われるエピソードが、MCの何かしら実体験とまるで関わっていないとは考えられない。ラップで、ヒップホップにおいて「リアル」という言葉が意味すること。

麻薬や傷害で懲役刑になった歌人というのを知らないし、おそらくラッパーに比べれば少ないだろう(少ないですよね?)。ただそうしたバックグラウンドの話よりも、芸術の形式が内容にどう影響しているか、ということを考えている。

アメリカで聞いたのは、自分が虐待された体験を詩にしたポエトリー・リーディング。詩の朗読が題材の映画『SLAM』の主人公は刑務所の中で詩を書く。詩人、Daniel Beatyはテレビ番組で、父親が刑務所に収監された体験を詩にしたものを読んだ。でもそれはヒップホップのリリックとは方向が大きく異なり、体験は客観化、物語化されていた。

ヒップホップからすれば、詩における「リアル」は抽象化されたファンタジーに見えそうだって思う。でも客観に立てば、ラップに謳われる「リアル」もまた異なる形式の脚色、価値のパッケージだって言えないかな。「私」の話とも関わって、書かれた文字と語られる言葉、さらにはそれを読む/聞く、あるいは消費する人々との関係で、表現される内容が影響を受けることを思う。国境なき医師団と共にガザ地区を訪れた経験を持ついとうせいこうが、いま「砂漠に滴った血は乾いている」と歌ったとすれば、その意味は全く変わって聞こえるだろう。

[注1] いとうせいこうバンドのこの詩、動画を見たら、どうもアメリカの作家、シャーウッド・アンダーソンのものらしい。アンダーソンといえば、『ワインズバーグ・オハイオ』という有名な小説があって、これは未読だけど、SFファンにとって大切な作品で、どうしてかと言えばブラッドベリがこの作品にインスパイアされて『火星年代記』を書き、この作品が一つの、SFにおける一つの軸、ヴェルヌから始まる叙情サイドの金字塔だから。(ウェルズに始まる科学サイドに対して)

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