タトゥーやピアスは誰かに受け入れてもらうもんじゃないよねって話
どうも、エトウです。
私は10代の頃にピアスを開けて以来、30代になった今もピアス大好き。
30代になってからは「ここに開けたらかわいいんちゃう?」と、耳の内側の軟骨(インナーコンク)や、口(リップ)などに開けて楽しんでいる。
この記事を書くにあたって、「全部で何個開いてるんだろう?」と思って数えてみたら、11個開いていた。
30代に入って、傷跡の上にタトゥーも彫った。
両腕に目立つ大きな傷跡があったので、その上に色鮮やかなタトゥーを彫ったんだけど、これがまたかわいくて、好き。
タトゥーを彫ったことで、より前向きに自分の人生を生きられるようになった。
さてさて、こんな自由なことばかりしている私だけれども、webライターとしてそれなりにクライアントと打ち合わせをすることも多く、シーンに応じて〝相応〟の対応が必要なことも多い。
そう、好き勝手するということは〝覚悟〟が必要なのだ。
今回はその覚悟ってなんなの?ということを交えながら、結論として「ピアスやタトゥーは誰かに受け入れてもらうもんじゃないよね」って話をしていきたい。
ピアスやタトゥーは多様性?
最近、「多様性を尊重してタトゥーやピアスを受け入れます」と就業規則を改定する企業のニュースを見かけた。
この流れは特定の企業に限らず、誰もが知る寿司チェーン店や大手スーパーなどにも広がりを見せている。
特に、これまでタトゥーや刺青がある人へのイメージは良くなかったので、代表的なものでファミリー温泉やプールに入れないどころか、そもそも施設に入れないことが当たり前だった。
しかし最近では、「カバーシールやラッシュガードなどでタトゥーが隠れればOK」「タトゥーDay」など、まだまだ小さい範囲だけれども少し変化が見られるようになった。
こうした企業や施設の動きは、タトゥー・刺青が入っている人が少し過ごしやすくなる一方で、やはり「怖い」と感じる一定数の人へ皺寄せが来ていることになる。
誰かに「怖い」と感じさせてまで受け入れてもらわなければならない何かが、タトゥーやピアスにあるんだろうか。
少なくとも私にはない。
「そういう人もいるよね」とは案外思ってもらえないもの
「多様性を尊重しよう」といろんなところで言われるようになったけれども、タトゥーや刺青、ピアスはそれに当てはまらないのでは?と個人的に思う。個人的にですよ?
刺青=反社会的な組織という構図は現代には当てはまらなくなりつつありますが、根付いたイメージはなかなか拭えないもの。
私のように傷隠しでタトゥーを入れたり、「かわいい」「かっこいい」とピアスを開けて楽しむ人を「チンピラまがいの恐ろしい存在」と感じている人も一定するいるのも事実。
「そういう人もいるよね」というように、個人の考えをお互いに尊重できればベストなんだろうけれども、案外できないものだ。お互いにね。
人は見た目で判断される
「人を見た目で判断してはいけない」と誰かが言ったけれども、見た目で判断して私たちは日常の危険を回避している。
一方で見た目で判断するからこそ、危なそうな状態の人に「大丈夫ですか?」と声をかけたり、時には通報して保護してもらうというように、誰かを守ることもできる。
極論だけれども人は誰かを見た目で判断し、自分や誰かを守っている。
ここで私の見た目で判断されたエピソードをひとつ紹介したい。
子供を連れて歩いていると、何かとご高齢の方に声をかけていただくことが多いのだけれども、時にはオムツや着替えでパンパンな荷物を「邪魔だ」と吐き捨てる人もいる。
このとき私はピアスもタトゥーも嗜んではいなかったのだけれども、11個のピアスと長袖を着ても見える手の甲のタトゥーを入れてからはこの手の声は聞こえなくなった。
相手を見て言ってくる、やってくる人というのもまた一定数存在する。
ここで誤解なきようお願いしたいのだけれども、別に私はタトゥーやピアスをしているから強くなったと勘違いしているわけじゃない。
ただ、私の見た目を見て誰かが「危険だ」と判断するのは自然なことで、私もまた自分からタトゥーを彫り、ピアスを開けているわけだから、それに対して何も思わない。
そう、見た目が悪いとこうして「危ない奴」と誰かから烙印を押されるリスクが高くなる。
自分がやったことに責任はつきもの
ここで、この話の結論になる。
何事も自分でやったことに責任が伴う。
私のように何十個とピアスを開けていれば正気を疑う人もいるだろうし、タトゥーを見れば社会的な人ではないと感じる人もいる。
そう思われても仕方がないことを私はしている。
ピアスであれば外すことで目立ちにくくなるけれども、タトゥーは一生残る。
しかも日本というタトゥー・刺青に厳しい国でソレをやっているんだから、〝覚悟〟が必要なのではないか。
どんな〝覚悟〟なのか。
パッと思いつく限り、私の場合はこんなことが想定される。
事務所が借りられないかもしれない
反社会的だと契約を打ち切られるかもしれない
一生「チンピラ」「ダメ人間」と後ろ指を刺され続ける など
特に仕事においては、フリーランスであっても企業とお仕事をすることも多いわけだから、こうした事態になっても反論する資格が私にはないのだ。
だって、私が自分で望んで彫ったんだもの。
こうした〝覚悟〟が必要なことをしているのに、「受け入れてください」と誰かにお願いするのはおかしなことなのだと私は思う。
今後の記事作成に役立てたいと思うのでサポートいただければ幸いです