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勉強なんぞやめちまえ

 中国でロックダウンなどの疫病政策が終わり一般人も中国外から入国できるようになったので、私の中国語の先生も一度帰国されるということでいったんレッスンはしばらくお休みになった。そういうわけで一人でぼちぼちやっているが、別に資格を取るとか通訳を目指しているとかいうことではなくて、単純に面白いからやっている。英語もロシア語もそうだ。

 中国語では日本語でいうところの勉強は学习(xuéxí、学習)という。論語に曰く、学びて時に之を習う、また楽しからずやの学習である。中国語にも勉强(miǎnqiǎng、勉強)という単語はあるが、こちらは動詞としては「他人に無理強いする、強制する(英語で言うところのforce)」、形容詞としては「不承不承である、かつかつである、無理筋である」といったような意味合いになる。大阪弁の「勉強さしてもらいます」みたいなのもこれに近いニュアンスだろう。

 これは割と有名な話だが、日本人にとっても実は勉強は本来の中国語のような意味に感じている人のほうが多いだろう。義務教育と大学受験の仕組みの中で、勉強は義務感からイヤイヤやるものだという観念を徹底的に刷り込まれているから、社会人になると勉強なんぞ一切しない、本の一冊も読まないという労働者を量産する結果に終わっている。リカレントだ社会人教育だといって、お上がお触れを出さなければなにもしないという者がほとんどなのである。

 孔子も言うとおり、学びて時に之を習う、また楽しからずやであって、本来新しい知識や知見や技術を身につけるということはそれ自体が愉悦をもたらすものだ。そうした生得的な自然の喜びを感じられないようにするのが近代的な社会制度のもとでの愚民化政策の一つであり、商業化・制度化された娯楽を与えられるだけの無気力で受動的な人間を量産するための方策なのである。

 そもそもたいがいの知的な仕事はAIに代替されていく中で、イヤイヤ頭に詰め込んだ知識など何の役にも立たない。勉強なんぞやめてしまって、自分が深く追求できる分野を見つけるために遊んでいたほうが遥かに有意義に人生を送ることができる。

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