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ブライトフレームに見る夢



 ライカを初めて手にしたのはM3で、職場の先輩、というか上司が空き時間に覗かせてくれた。
 その時はあまりピンと来なかった。ピントだけにね。こんな曖昧な枠で構図が取れるのか、と。

 そのM3はその後我が家にやってくることになった。僕はそれをケーキ数個で譲り受けた。
(この辺りからおかしなことが始まったんだな)

 FUJIFILMのX100シリーズで、ブライトフレームの楽しさに目覚めた。写真に写る枠の外が見えるというのは、なんとも自由な空気を感じさせてくれた。外からやってくる被写体が分かるとかそんな理由でなく、とにかく、多分だいたいここら辺まで写るだろうと言う曖昧さが写真を撮る面白さを増幅させた。

 極め付けは、ライカの外付けファインダー。等倍で、肉眼で見るより世界が美しく見える。神楽撮影で会うプロカメラマンから教えられたそのファインダー、両目を開けると50mmの枠が浮かび上がって見えてくる。右目と左目の境に変なズレがない。写真を撮るためではなく、それをただ覗き込むためだけに、そのファインダーが欲しくなった。

 ところで。

 先日、ライカMtyp240にEVFをつけて撮り歩いた。144万画素のそれは、世界を少しローファイに見せてくれた。256万画素のpro2やそれ以上のT-5のリアリティあふるる映りより、その偽物のような、そうだな…まるで8ミリ映画を見ているかのようなファインダーの中は、世界を適度にデフォルメしてくれて面白い。傑作が撮れた!なんて勘違いしてしまう。

 ふと思うのだけど、EVFにしろ、一眼レフのファインダーにしろ、没入感というのがあるように思う。右目ないしは左目で覗き込み、片方は閉じるから、そりゃ確かに、今見えているところが、今の自分のすべて。だからそのキリトリセカイに没入している感覚になるのは当然だ。


 一方、レンジファインダーはそうはならない気がする。X100シリーズにしても、ライカにしても、ブライトフレームの内と外があるから自分が見ているセカイがすべてではなくなってしまう。切り取ったつもりのものが中に入り、入れたつもりが外に出ていたり、自分の意図がそこに反映されにくい。まして両目を開けて撮るとなれば、自分が自分のモノにしたい世界は、微妙な境界線しか引けなくなってしまう。

 その曖昧な境界線こそが、そのカメラを使う人の見る夢になる、そんなことを思う。

 ライカは、というよりレンジファインダー(風)機は、その機構からか、ノーファインダーで、とか、絞りを絞って、さっとシャッターを切る、という撮り方をする人がいる。
 そんな撮り方だから、狙った通り、寸分違わぬ構図で撮れるということはない。おおよそこんな感じ、という予想はあるだろうが、ノーファインダーではきっちりとした余白、被写体と背景のバランスをとることは難しい。けれども、そうやって居合のように切り撮ることが楽しいという人がいる。

 一方、僕はこちら側だが、その曖昧なブライトフレームと格闘しながら、もう少し右、いや左か、などと考えつつ、その曖昧な境界に明確な構図を求めようとする人もいる。それなら一眼レフとかミラーレスの方が都合がいいにも関わらず。


 だけどそれは両方とも、ブライトフレームの曖昧さのなかに夢を見ているのかもしれない。ファインダーなんかほとんど見ずにシャッターを切る人は、そこに偶発的に生まれる見事なキリトリを期待しているだろうし、何度もシャッターを切りながら、完璧な構図を求めるならば、その曖昧なラインが、自分の求めるキリトリになることを追い求めている。
 それをブライトフレームに見る夢と言ったら甘ったるい戯言になるだろうか。

 僕はこんな不自由なカメラで撮ることが楽しくて仕方がない。それは、その曖昧さに任せて撮ることで生まれる「自分以上」が時々拾えると言うこと、それから自分の理想を、容易には形にできない手強さを感じさせてくれるからだと思う。
 流れ星が流れる間にお願い事を3回唱えられたらその夢はかなう、という話があるが、それはつまり「流れ星に願いを唱えるだけじゃ実現不可能だ」という事実の裏返しでもある。だって、あの一秒にも満たない瞬間に「ライカM10-Pが欲しい」なんて3回も唱えられないのだから。それと同じで、ブライトフレームに見る夢という言い回しは、理想のキリトリを容易にさせてくれないということを示唆している。
 でもだからこそ、いつまでも飽きずにその曖昧なファインダーを覗き込みたくなるわけで、下手でも、上手くいかなくても、写真を撮る行為を続けさせてくれるのだ、と嘯いてみたくなるのだ。

 誰もがかんたんにセカイを切り取り、世に発表できる時代である。しかしそれは、写真を楽しくしてくれるとは限らない。例えば、フィルムカメラが再び注目を浴びている。それはエモい写真が撮れるから、というだけではないように思う。写真を撮るという体験、所作、そう言うものを大切にしたいという意識がそこにあるように思う。そうして時間をかけて出来上がってきた写真が思ったよりもよくなかったり、思った以上に良かったりすることに喜んだりと、写真に向かうことで起きる四苦八苦そのものを楽しむ。ブライトフレームに見る夢は、それに通じるところがあるのだ、と信じたい。そのキリトリのセカイが曖昧であることが、コスパだタイパだと喧伝されるこの時代、どこか僕らをホッとさせるのである。

 もちろん、写真で飯を食うというのであれば、まったく違う話になる。ブライトフレームの曖昧さは忌避されるべきものかもしれない。でも写真を趣味として楽しむのであれば、この思い通りにならないという不安定さは、そう、自転車にうまく乗れないで四苦八苦していた子ども時代みたいなものとも言える。うまくいかないから、何度でも挑戦したくなる。

 なんでもカンタンにできます、じゃあ、そこにおもしろさを感じる時間はないのだから。

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