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意識の中立点

QUANTUM GIFT

2021年9月27日から放送時間などに変更があります。Therapist OCOさんと、月曜日の朝、6時20分くらいから対話をします。大きなテーマは「感覚をひらく」ということ。 アーカイブを残さずにやってきましたが、9月27日以降アーカイブを残しています。その時、その場の空気感を大切にしたいのでライブ配信したものをアーカイブしています。声と文字とではエネルギーの質が異なるでしょうから、アーカイブと同時に僕はレポートを書くことにしています。

27.9.2021

この放送は今回から変わることが2つあります。ひとつは放送時間。これまで月曜日の8時台にお届けしていましたが、曜日は変わらず6時20分頃からお届けすることにしました。

これはとても気持ちよかった。僕は6時くらいに起床したのですけど、まだ覚醒する前という感じで、むにゃむにゃしながら、ホニャホニャ言ってました。思考で発言しつつも感覚に左右される感じは心地よいものでした。

時間を変更することで、聞けるようになる方もいれば、聞けなくなる方もいらっしゃるだろうと思いますが、アーカイブを今回から残すことにしました。

アーカイブはあってもこのレポートも続けます。LIVEとアーカイブはまるでエネルギーが異なりますが、文字もまた異なる。別物としてお楽しみください。

中立であること。観察者に徹すること。

この放送の前日4日間は、春からはじめたクラニオ・セイクラル・バイオダイナミクス(以下クラニオバイオ)の講習会でした。クラニオバイオとはボディワークの一種で、施術者はクライアントに対して意図を持たず観察者に徹して触れることで、クライアントの自己治癒力により変容を起こす(勝手に起きる)というもの。二人でやる瞑想と言われることもあります。

僕がこれを始めたのは『ホニャララLIVE』の"中の人"の勧めが大きかったのですが、やってみると自分の感覚と向き合うという意味で貴重な時間だなと感じています。そこではとにかく「意図を持たない」「中立でいること」が求められるわけです。意図を持たないというのは、対象者を良くしよう思わないということ。一般的な整体などは意図を持って整える治療ですから、この違いは大きいですね。講習会は対象者との距離の取り方を練習しているとも言えるわけ。
※この違いは良し悪しや優劣ではありません。違うものだとして受け止めてください。

最近まで僕は中立という視点を少し勘違いしていたようです。今日はそれに気づいたというお話。

意識を中立に保つことはクラニオバイオの基本姿勢です。これは様々な分野で言われることでもあります。合気道や禅の世界では脱力した状態や、無であることを目指しますが、似ている部分があると思っています。

言葉の認識と体感覚のギャップ

中立という言葉を聞いて僕がイメージしていたのは±0の状態です。ど真ん中。前後にも左右にも天地にもまるで振れない地点。

例えば、目の前に溺れている人がいるとしてそれを無感情に観察することが「中立」だと思っていました。これは「中立であること」という言葉のイメージから導き出した僕の見解でした。言葉は記号だから受け取り方の違いは起こり得ます。

この姿勢で対象者に触れてもあまり詳細な感覚を受け取ることができませんでした。クラニオバイオでは触れることで、対象者の体に起きていることを知覚します。それはそれは非常に微細な現象です。詳しくはいつかまとめてみたい。

それで気づいたのが、中立であることとは、生きる存在としてのポジティブさが前提にあるということでした。

心臓は自分の意思とは別で動いている

僕たちは自分の意思で心臓を止めることはできません。体を動かすことや目を閉じることはできるし、意思を持って行動することも、能動的な人生を歩むこともできるかもしれないけれど、心臓はその人の意思とはまるで関係なく鼓動を続けています。意図など介さないのが生命であり、生きるということはそれだけでポジティブな事象なのだと思ったんです。

ならば「中立」とはそのポジティブさを前提にしなければなりません。少なくとも前を向いているということ。生きようとしていなくとも、生きているという事実を受け入れることが中立なんだろうと思います。「良くなれ」とも「悪くなれ」とも思う必要はありませんが、幸せであることを否定する必要がないのが中立なのかも。

合気道や禅の脱力や無というのも同じです。脱力と聞くと「筋肉ゼロ」を想像していたのですが、実際には筋肉ゼロでは立つことも呼吸することもままならない。脱力とは、出力の最適化だと教えてくれたのは有本匡男さんでした。

そう考えると少し楽です。自分らしく生きるとか、意思を持って生きるとという言葉を聞くことがありますが、どんな人も生きている根源に意図はないのだということ。個性が必要とされる多様性の時代ですが、根源はみんな一緒とも言える。

目の前で溺れている人の例えで言えば、岸までたどり着くと信じて待っていることが中立。そしてクラニオバイオの施術者は応援者と言えます。応援者がいるから力が湧き出てくるのかもしれない。でも自分の意図と生きていることが無関係だとするならば、最大の応援者は自分自身ということなのかも。自分とはいつでも本当は客観的な存在だったわけだ。

ちなみに、実際に目の前で溺れている人がいたら意図を持って助けるよ。

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