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雑記:無神論者と神頼み

日本には数々の神頼みが文化として存在する。
初詣のお参り、短冊への願い、四肢に巻き付けたミサンガ。
もはや、1度も神頼みをしたことが無い。
という人は全くいないんだろう。それ程に神頼みは文化として強く染み付いている。
しかし、日本でそれほど熱心に神様が信じられているかというと、そうでは無いと思う。
じゃあ何故、日本で神頼みの文化がここまで消えずに残っているのだろうか。

私が思うに、日本の大多数の人にとって"神頼み"という行為は神様を信仰するための行動ではなく、自身の本当の願いを知るためのファクターとして働いているからだろう。

「神頼みというのは、叶えるべき願いを知るためにあるんですよ」

—『君が電話をかけていた場所 』
三秋 縋 著

自分自身の本当の願い事、というのは存外分かりにくいものである。
願い事がいくつもある中から、一つ優先すべき願いを自覚する。
これが年に数回文化として半自動的に行われ、努力家である日本人が、努力するべき対象を見出すことができる。
これこそが日本という国で"神頼み"の文化が根強い理由なのだと思う。

だからこそ、神様が願いを叶えてくれるなんて思わなくなった私達にも"神頼み"は意味のあるものなのだと、そう思う。

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私も子供の頃は、"神様が願いを叶えてくれる"と強く信じていて、初詣に行く度に慎ましさの欠片もないお願い事をしっかり頭で唱えていました。
その癖に、「何をお願いしたの?」と聞かれても「無病息災だよ。」なんて嘘をついていたり。
《本当に自分が叶えたい願い事》が孕んでいる意思から自分自身が透くことが恥ずかしかったのだと思います。
健全に《叶えるべき願い》を自覚できていた証拠でもあるのだけれど。

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そういえば、先日少し遅めの初詣に行きました。
人が少ないほうが自分自身と向き合えると思うの
で、近所の神社に。遅めの時間に。

願い事は…
いえ、『無病息災』
と、いうことにしておきましょう。

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