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エンドロール

エンドロールを観るか、観ないか。度々論点になっているこの話は、大抵観る派が「最低限のマナーだ!」とか、「そこまで観てこその映画だよ」的な言葉で一方的に言いくるめて終わっている。

正直観ても観なくても良いだろう、と私は思う。
マナーは存在こそ認めても、それを他人に強要することは、たぶん、それこそマナー違反だろうし、
映画に携わった人間の名前を1つも知らなくたって映画そのものの美しさは変わらない。
自由にすればいいと思う。
言っておくと、私はエンドロールを観る人間だ。
いや、少し語弊がある。"観る"よりは"見る"人間だ。

マナー、そこまで含めて映画。という理由以外にもエンドロールを観る理由と云うのは千差万別いくらでもあると私は思う。
キャストが気になるとか、知り合いがこの映画に携わっていて名前を探すとか、映画の舞台となり、生徒がエキストラとして出演した幸運な学校はどこだとか。
エンドロールの後のCパートの存在に期待して席を立たないのが現代人の最も多い理由なんじゃなかろうか。

私がエンドロールを見る理由も、おそらく同じ考えの人間が多い。
"映画を咀嚼して自分に取り入れるまでの時間"
がエンドロールを見ている時間なのだ。
大きな枠組みで捉えれば、余韻に浸る ということだ。

映画を観た後、その2時間ほどを咀嚼するだけの時間が欲しくなる。その工程は映画館のシートの上で、座っていたC-12のシートとかのままで行いたい。席を立ち、喫茶店なんかに入ってから咀嚼していたのでは、そこに現実というノイズが入る。
エンドロールが無ければ困る。
映画を咀嚼する間もなく、アナウンスの声が響いて現実に戻されたくはない。次の上映のための清掃中にまで居座って咀嚼していては、それこそマナーとかが頭をよぎってノイズとなる。
仮に五分ほど、アナウンスもなく清掃もない空白の時間がそこに用意されたとしても、エンドロールがもたらすほどの咀嚼に向いた時間は無い。

エンドロールは全部を追うにはあまりにも速すぎる。CGデザイナーは誰と誰で、音楽は誰で、音響は…などと観るだけの余裕がある速さで流れてはいない。
精々、好みの俳優、声優の名前を見つけたりして嬉しくなる程度の事だ。

自慢じゃないが、私は秒速5cmで地面に落ちる桜の花びらを手に取ろうか、取らないかを悩んで、悩んで手を出し損ねた挙句、もう砂に塗れた花びらを見て後悔したことがある。
そんなスピード感で生きている。
そんな人間にとって、エンドロールの物量はなんたるものか。
フラッシュ暗算を見ている気分になる。

私の持論だが、何も無い5分よりも、抱えきれない量の情報に塗れた5分のほうが頭にとっては無に近い。
そういった意味で、エンドロールが流れている間、私の中のノイズは0に近づいてくれるのだ。
周りの人間が帰ろうとしている音や姿、近くの人の鼻をすする音というノイズを取り払ってくれる。圧倒的な情報量の前に、そんな音や視覚情報が1つ増えたとて変わらないのだ。
なんでもない無の空間にそれらが入ると、それは立派なノイズとなるだろうに。

だから私はエンドロールを見る。
たった今見たものを咀嚼し、受け入れるために最も適しているあの時間を愛している。
映画という媒体だけが持つその強みを愛している。

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