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晴れ間を見る。 ヨルシカ「晴る」について

ヨルシカの新曲である「晴る」を聴いた。
まだまだ咀嚼しきれていないが、いくつか感じ取った部分について書く。

まず、n-bunaさんによると、この曲は晴れについて書いたものである。もっと言うと、晴れを願うものであると。

私が思うに、ここで云う「晴れ」は、n-bunaさんが予てから口にしている心を満たすもの、美しいもののメタファーとして機能している。
1度でもそういった本物の美しいものの断片に触れた人は分かると思うが、それらは決して芸術そのものにはなり得ない。
芸術は、それら本物を覗き見るためのレンズとしてしか機能しない。
その本物は、言葉の中に宿っているようでそうでなく、絵の中に宿っているようでそうでなく、音楽の中に宿っているようでそうでなく、心の中、あなたの中に宿っているようでそうでない。
つまりこの本物が宿る場所は、これら以外の一点に宿っているのだろう。

曲について話を戻す。
最後のアカペラ部分は、正直n-bunaさんに嫉妬を覚えるほどの表現だった。
結論から言うと、これまでの楽器の音全てを雨音に例えて消し去ることで、晴れを表現している。

1番の歌詞
「胸を打つ音よ凪げ」
胸を打つ音=雨音
なのかと考えた。言葉通り解釈すると心音、晴れへの高鳴りを示していると思うが、雨音としての役割も担っているように感じる。
晴れを願っている歌詞である。

3番の歌詞
「胸を打つ音奏で」
先程の流れ通りいくと、雨音を奏でていると読み取れる。
つまり、楽器の音=雨音
と例えていると分かる。
最後、この雨音を消し去ることで彼は「晴れ」を表現した。本当に見事だと思う。

先程、本物の在り処についての話をした。
それらが宿る場所は芸術そのものではないと。
彼は音楽を生業にしている人だ。
そんな彼が「晴れ」つまり、「本物」の訪れを表現するために用いた方法は音楽を消すことだった。
本物は音楽そのものになり得ない。
音楽家の彼がそれを表現するのかと、
そしてこの曲の美しさに私は放心した。


私はこの曲に、晴れ間を見た。

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