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喪失を抱えて生きる

2020年11月4日(水) 木枯らし1号、晴れ

職場から家へと向かう電車が物凄い速さで以前の最寄り駅を通過するたび、もうここは私の住む街ではないのだと実感する。人は呆気なく街を裏切り、街もまた呆気なく人を忘れる。1日でも練習をさぼると指は動いてくれなくなるのよ、とかつてピアノの先生が言っていたことを思い出した。


捨ててきたものの多い人生だったように思う。


人より不器用な私は人より長く、多く練習を積む必要があり、そうして向き合ってきたものたちはいつしか自身を構成するもののなかで大部分を占めるようになっていた。それだけ人生の時間を割いてきたのだ、当然のことだった。

それでも、時間をかけて得たものがこの手を離れるのは容易い。習い事をやめるたび、部活を引退するたび、学校を卒業するたび。続けていくことのできなくなったものたちは、他人の顔をして呆気なく離れていってしまった。からっぽの私だけを残して。

続けることをやめてしまった人生は、もったいないのだろうか。生きているだけで、生きている限り、私は何かを捨て続けているのだろうか。

指の回らなくなったピアノやサックス。たくさんのことばを忘れてしまったフランス語やドイツ語。もう乗算もできないそろばん。全部抱いたまま生きていけるほど器用だったらよかったのに。

からっぽになった私は、それでもからっぽのまま生きていくことはできなくて、また新しいものを得ようともがいている。いつかは捨ててしまうかもしれないものを。


誰かを忘れてしまっても知らなかった頃には決して戻れないように、喪失を抱えた私のからっぽは、まだ何も得ていなかった頃のからっぽとは別物なんだろうか。時間の流れが不可逆であるという真理が、からっぽの私に意味を与えてくれていたりするんだろうか。

だとしたら、私の人生はつまるところ、どれだけからっぽになれるのかということなのかもしれない。

喪失は獲得の先にしかないもので、捨てるものの多かった人生は、得てきたものの多かった人生だ。最期の時までどれだけのものを捨ててきたかは、自分が人生でどれだけのものを得てきたかを教えてくれる。だからこれからも、私は愚かしく獲得と喪失を繰り返して生きていくのだろう。ちょうど人々が、桜が散るたびにかなしみ、咲くたびによろこぶことを繰り返すように。

電車が最寄り駅に着く。いつか私はこの街を去り、街は私を忘れていくのだろうけれど、それでも今は、ここが私の生きる場所だ。

#日記 #エッセイ #コラム
#人生 #習い事 #失ったもの

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