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トラウマのふりした自我に気づいてしまった

地震が起こった時に、心臓がどくどくとして、泣きたい気持ちになる。症状が起こり始めたのは、東日本大地震を経験してから2年が経ち、私が上京してからのことだった。

大震災が起こってすぐの頃は、余震が起こっても、周囲が驚くほどに冷静だった。電車に1時間弱閉じ込められた時も、ただ本を読んで時間をつぶしていた。家族への連絡を忘れており、心配した母から後で注意された。友人は余震が怖くてひとりで留守番ができなくなったと言っていたが、私はそんなこともなかった。地震が来たらただ冷静にドアを開け、避難経路を確保しつつ震度予測をした。変わったことといえば、地震が起こる前のわずかな地鳴りに身体が気付くようになったくらいだった。


上京したての4月、地元で大きな地震が起こった。東京は揺れず、サークル見学をしていた私はその事実を後からネットニュースで知った。さっと顔が青ざめ、参加するはずだった新歓コンパに断りを入れ、半べそで実家に電話を入れたのを覚えている。その時実感した。故郷を離れて暮らすというのは、こういうことなのだと。

家族に何かがあってもすぐには気づけない、駆けつけることもできない。同じ日本で起こっている地震なのに、大きく揺れた地元とぴくりともしなかった東京。新幹線で1時間半で行けるその距離の、思った以上に遠いことを知った。


それから、地震が起こるたびに泣きたい気持ちになるのだが、おそらくそれは怖いという気持ちとは少し違う。東京でいくら大きな揺れがあっても、私はきっと泣かない。学生の頃と同じように。私が泣きたくなるのは、地元の震度が大きかった時だけだ。
それは不謹慎極まりない考えなのだが、おそらく「置いていかないで」「なかまはずれにしないで」という気持ちが根底にあるような気がしている。被災者/支援者のスラッシュで、家族や地元の友人たちと分断されてしまうことへの恐れ。なんて自分勝手で浅ましい考えなのだろうと、自己嫌悪がする。被災者は自ら選んでそれとなったわけでは決してないのに。


先日、福島で大きな地震があった夜、家族と地元の友人何人かにすぐに連絡をとった。幸い、みな無事であることが確認でき、「余震気をつけてね」と伝えて会話は終わった。友人を心配する気持ちがあったことは紛れもない事実だが、会話の後に残ったもやもやに、自身の奥底にある気持ちを認めざるを得なかった。たぶん私は、自分が安心したかっただけなのだ。みんなの無事を確認したかったのか、自身も「被災者側」に寄り添っていたかったのか。あるいはその両方かもしれないが、いずれにせよ私はどこまでも自我の塊であることを思い知った。緊急事態に見える人の本性というものに、殆嫌気が差す。

泣きそうな顔をした私が抱えているものを、東日本大地震を経験したことによるトラウマと信じて疑わないやさしい人の手にあやされながら、その夜はどろどろとした自我と自己嫌悪に苛まれていた。緊急ニュースを部屋に垂れ流しながら。やさしさや慈愛とは程遠い、身勝手な自我から、もう世界のどこででも地震が起こってほしくないと真剣に願っている。

#日記 #エッセイ

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