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100万回生きたねこ・試論



 今私の手元に一冊の絵本がある。『100万回生きたねこ』と題されたその絵本は1977年に出版 されていて、作者は佐野洋子である。最初にこの絵本を手に取る人は、その奇妙な タイトルに興味を持つだろうし、私もたぶんその一人であったと思う。学生時代、北海道を旅行して いて、偶然泊まったユースホステルのミーティングは一冊の絵本の朗読だった。その時にペアレントさんの息子の朗読で読まれたのがこの絵本である。その不思議な読後感は旅の後半の私をしばしば放心状態にした。京都の下宿に帰ってから、書店めぐりをしてその絵本を買い求めたのはいうま でもない。 

その絵本の書き出しはこうである。

 「100万年もしなないねこがいました。100万回もしんで、100万回も生きたのです。りっぱなとらねこでした。100万人のひとが、そのねこをかわいがり、100万人のひとが、そのねこがしんだ ときなきました。ねこは一回もなきませんでした。」

 物語の前半は同一パターンの繰り返しである。ねこは王様に飼われていたり、船乗りに飼われていたり、一人暮しのおばあさんに飼われていたりする。そうしていつも共通するのは、その飼い主の 愛情とは裏腹に、ねこはその飼い主が大嫌いなのである。そしてたいてい悲惨な最後をとげる。戦 場で矢にあたって死んだり、船から落ちておぼれたり、奇術の実演中にまっぷたつになったりして ねこは死ぬ。しかし、そうした繰り返しは少しも悲劇として描かれてはいない。その理由として作者 は、「ねこは、しぬのなんかへいきだったのです」と語る。

 ある時ねこはだれの飼い猫でもなく、のらねこになる。「ねこははじめて自分のねこになりました。 ねこは自分がだいすきでした。」ここまで読んで、読者は、「もしかしたら、これは猫のナルシシズム をテーマにしているのじゃないだろうか。」と考えるかも知れない。100万回生きたねこにとって、他 のねこは自分から見てはるかに卑小な存在であり、とても対等にコミュニケートする相手たりえな い。100万回生きたねこにとって、他のねこが自分の機嫌をとったり、貢ぎ物を捧げてきたり、メス 猫に求愛されることは至極当然であり、そうした他者の接し方故に彼の自尊心はますます尊大さの 度を増して行く。その中に一匹だけ、100万回生きたねこに見向きもしない、白い美しいねこが現 れる。「おれは100万回しんだんだぜ!きみはまだ1回も生きおわっていないんだろ。」そうした問 いかけにたいして、白いねこは「そう。」と答えるだけである。

 何度もむなしい問いかけをしたあげく に、彼はついに「そばにいてもいいかい。」と尋ね、白いねこは「ええ。」と答える。白いねこと暮らす ようになった彼は、多くの子猫たちに囲まれて過ごす。彼はもう二度と「おれは100万回・・・・・・」と は言わなくなる。やがて、年老いた白いねこは死に、100万回生きたねこはその後を追うようにし ずかに死ぬ。「ねこはもうけっしていきかえりませんでした。」作者はそこで筆を置く。「なぜ、100万 回も生き返ったのに、今度は生き返らなかったのか?」読者に最大の謎を残して、物語は結ばれ る。もちろん、私もその謎について考え込んでしまった一人である。前述の私の体験した「放心状態」というのは、まさにその謎について考え込んでいる瞬間であった。

 1988年夏にヨーロッパを一人旅した。まる1カ月を越えるその放浪の中で、私はヘルシンキに留 学していたある日本人女性と知り合った。彼女はフィンランドという国の印象についてこのように語 った。

 「もしも、自分に人生が二度あるのなら、そのうちの一度はこの国で暮し、この国の人と結婚し、こ の国で終えてみたい。でも、人生は一度しかないのだと思うと、やっぱり自分は日本に帰ることにな ると思う。」

 フィンランドという国の魅力を、これほど端的に表現した言葉はないであろう。一生を終えてみたい 国・・・・・・私も、彼女の発言に同感だったし、訪問したいくつかの国の中で、フィンランドに対する好 印象は際だっていた。通りすがりの旅行者が無責任に、「この土地に骨を埋めてみたいですね」と 社交辞令を述べることに比べて、はるかに正直な発言だと思った。森と湖に大半が覆われた美しい 国土を持ち、ヒッチハイクの手をあげれば争ってクルマが停まってくれる。第二次大戦の時、この国 が強大なソ連軍を敵にまわして互角に戦い、スキ-をはいた兵士が戦車に立ち向かったことをどれ ほどの日本人が知っているだろうか。敗戦国となったフィンランドは、カレリア地方を割譲し、その上 多額の賠償金をソ連に支払うために国民は一丸となって働かなければならなかった。ヘルシンキオ リンピックを成功させ、輝やかしく復興することを誰がその時予想できたであろうか。日本以外のど こかの国で最も好きな国はどこかという問いに対して、瞬時に私はフィンランドと答えるだろう。しか し、自分が日本人であることと引き換えにしてその国を手に入れようとは思わないのだ。一度きりの 「生」を、自分は日本人として貫徹したいのだ。政治家という職業が金権腐敗の代名詞として語ら れ、街角には投げ捨てられた空缶が散乱し、豊かさと引き換えにかけらほどのモラルも失ってしま った悲しい国であっても、それが自分と運命を共にする祖国であることを否定できない。


 もしもすべての人に複数回以上の生が与えられているとしたらどうであろうか。今回の人生で失敗 していても、次の人生の時に頑張ればいいという敗者復活戦が人生にも用意されているとする。複 数回与えられた人生を人はさまざまな楽しみ方ができるはずである。「今回は麻薬に溺れて自堕落 に生きてみよう。真面目な人生は二回目の時でいいや。」「勉強なんてまっぴらだ。二回目の時に頑張ろう。」という若者がたくさん現れる。死ぬことがこわくないわけだから、暴走族や暴力団の構成 員のように生命の危険にしょっちゅうさらされている人たちにとってはまたとない朗報である。彼ら の行動はますますエスカレートするだろうし、「死んでもまた次の人生がある」と思って破滅への引 金となる核ミサイルの発射ボタンを押すバカもどこかの国に現れるかも知れない。そうなると地球は 破滅である。あれこれと考えてみると、人生が何度もあるというチャンスは、それほど人類に福音を もたらすものではなさそうである。

 人生はただ一度しかない・・・・・・という限りない一回性が、我々の生に無言の重みを与えている。 「一回しかない。だから精一杯よりよく生きなければならない」

 そして、自分がすでに歩んで来た過去はもはや変更不能である。学歴を詐称する国会議員がいた り、履歴書にデタラメを書いてみたりすることは、自分自身の過去に対する犯罪である。そうするこ とで現在の自分を粉塗することは、何一つ本質的なものを変えやしない。偽る必要が微塵もない確 固たる生は、よりよく生きたいという不断の努力の結果自然ともたらされるものである。

 村上春樹の小説『国境の南・太陽の西』の中で、主人公に向かって恋人がこのように語りかける 場面がある。「世の中には取り返しのつくことと、つかないことがあると思うのよ。そして時間が経つ というのは取り返しのつかないことよね。こっちまで来ちゃうと、もうあとには戻れないわよね。それ はそう思うでしょう。ある時間が経ってしまうと、いろんなものごとがもうかちかちに固まってしまうの よ。セメントがバケツの中で固まるみたいに。そしてそうなると、私たちはもうあと戻りできなくなっち ゃうのよ。」

 人生の中でいろんなものがかちかちに固まっていく。学歴や職業といった外面的なものである場 合もあれば、性格や価値観といった内面的な部分である場合もある。そうして「自己」が形成されて いく。私が大学を受験した年は、俗にいう「共通一次元年」であった。それまであった国立大学の一 期校・二期校という枠は取り払われ、同一日程の試験になったため、国公立大学受験のチャンスは 一度だけということになった。受験生からもそしてマスコミからもそのシステムは批判され、やがて現在の複数受験可能なシステムにつながって行くのだが、京都大学の入学式の時、岡本道雄総長 はこのように言われた。「今回の入試制度の変更は、入試が一発勝負になったという批判が一方に ある。しかし、やりなおしがきかないということがそれほど間違ったことだろうか。もしも人生にやり なおしがきくのなら、君達はそのほうがいいと思うか。人生こそが大いなる一発勝負ではないのか。 やりなおしがきかないから、人はよりよく生きようとするのではないか。一発勝負がいけないと発言 する人たちはいったい人生をなんだと思っているのか。」もしも入試をやりなおしたら、制度変更の 間隙をついて卑怯にも合格を手にいれた自分は絶対に滑るだろうと思っていた私は、総長の発言 に心の中でエールを送っていた。

 一瞬が一生よりも重いということがある。物理的な時間の長さを超越した価値を持つ瞬間というも のが確かに存在する。幸福の絶頂の時、「このまま時を止めて欲しい」と願わない人はないだろう。 そうした一瞬の価値は、その一瞬が二度と手に入れられないという一回性ゆえにもたらされるもの である。繰り返し体験できることが可能となったとき、その一瞬の価値は回数に反比例して減じてい くだろう。夭折者の生が時に輝いて見えるのは、その短い時間が強烈なエネルギーを放出している からである。もしも彼らが長生きしてしまったら、その発散するものが時間の長さに薄められて輝き を失ってしまうという可能性もある。三島由紀夫の死は、夭折者であることを望みながら果たせなか った者の無惨さであるとも言える。輪廻転生を描いた『豊饒の海』四部作の中で彼の望んだ生は見 事に描かれている。しかしそれはあくまで虚構の世界の中の美であって、現実世界に生きる彼が手 に入れ得る美ではなかった。彼自身がその生を手にいれようと願った時待ち受けていたものは破 滅以外の何ものでもなかったのだ。彼の割腹自殺という一瞬の死は、夭折者である作中人物と自 分を同一化させるための手段であったように私には思える。言うまでもないことだが、「自殺」という 自己表現は、生の一回性を前提とした時、一度しか使えないからこそ、自己表現の手段たりえる。 しかしその結末を自分の目で確かめることはできない。


 話を「100万回生きたねこ」に戻そう。この絵本のテーマはいったい何なのか。それは断じて「愛」 などではないと私は言いたい。100万回生きたねこの美しい白いねこに対する至上の愛は、100 万回の輪廻転生よりも重かった。どれだけ愛していたのかがよくわかったなどという感想は、本質 的な部分での理解にはほど遠いのだ。作者はねこをどのような存在として描きたかったのか。100 万回も生きてきたのに、その中で一度として、ねこは自ら主体的に選び取った生を持っていなかっ た。まずこのことが作品解明の大前提となる。ねこにとってすべての生が他者から与えられた生だ ったわけだ。自分の生を主体的に生きることが一度としてできなかったねこが、初めて自分の生を 手に入れる。そうして手に入れた生の中で、真に主体的に生きるためには、意識ある生命体が最も 主体的になれる「愛」という行為に於いてこそその主体性を発揮しなければならない。自分が愛する 対象を自ら選び取るという行為を必要とする。そうした行為の持つ重みは、生の限りない一回性に よって裏打ちされているのだ。そして、「愛」のもたらす喜びは我々を「至福」の瞬間に誘う。

 ねこの100万回の生の中に、「至福」の瞬間はあったのだろうか。100万回も生きていながら、 なぜかその中で一度としてねこは「至福」(supreme bliss)の瞬間を体験していないはずだと私は確信する。人生に於ける「至福」の感覚は、そうした「至福」の瞬間がたぶんもう二度と得られないかも知れ ないという不安と同居している。無限の繰り返しの中に生きるねこにとって、その瞬間が「至福」であ るかどうかは何の意味も持たない。どんな一瞬も、無限の繰り返しの中の退屈な瞬間でしかないの だから。ある一度の体験と同じような体験は、100万回という無限大に近い回数の中で必然的に 訪れるであろうし、その結果、すべては空しい繰り返しでしかないということになる。

人がこの世に生を受け必然的に手に入れるすべての幸福や苦悩は、一度しか体験できない人生と いう大いなる流れの中で、逆行できないからこそ幸福や苦悩なのであり、何度でもやりなおせるよう になった時、ただの徒労となる。一回性というと輝きを失えばすべては色あせる。

 星新一のショートショートに『鍵』という作品がある。飾りのついた美しい鍵を偶然に拾った青年 は、その鍵に合う鍵穴を見つけるために、世界中を旅する。鍵穴を探すために人生のすべてを費やしてしまい、やがて年老いた彼は、その鍵に合う鍵穴を探すことをあきらめ、その鍵で、自分の部屋のドアがあけられるようにしてもらう。その夜、彼の枕元に妖精が現れる。「どうしてもっと早くそ の鍵に合う錠を取り付けてくれなかったのか。」と妖精は訴え、彼の願い事をなんでもかなえること を申し出る。彼は妖精に対してこのように答える。「私はもう年老いてしまった。私には欲しいものは 何もない。しいて欲しいものがあるとすればそれは思い出だけだ。それはもうすでに持ってい る。」・・・・・・物語はここで終わる。彼はなぜ、人生をやりなおすことを選ばなかったのか? 人生の 一回性の持つ意味について理解していたからだとしか、私には答えられない。再度チャンスが与え られたとして、やり直した人生が今より輝いているという保証はない。やり直すことで、自分が必死 で築いてきた一度目の人生をすべて否定し、葬り去ることを彼は望まなかっただけである。彼は自分の人生を「徒労」になんかしたくなかったのだ。

 「100万回生きたねこ」を裏返せば、「100万回どころか一度だって満足に生きられない我々」であ る。「なぜねこはもう生き返らなかったのか」という素朴な疑問は、「一度しか生きられないということ をいったいあなたはどれほど厳粛に受け止めているのか」、という反問の刃を我々の喉元に突きつけることで返される。そして一見したところまるで愛の物語であるかのような形をとってこの作品は結ばれる。しかしその本質は実は、100万回と最後の一回とのコントラストにあるのだ。100万回 も生きていながら、そのすべての生が本質的に徒労であったことをねこは無意識のうちに感じ取っているので、飼い主が大嫌いであり、誰も愛さないのである。徒労としての生の中では、喜怒哀楽と いった感情は奪われている。ルーティンワークに追われ、日常に埋没してしまっている日々を、我々 は時に徒労のように感じてしまう。そうやって、毎日を平凡な日常と受け止める人は、100万回生 きたねこの100万回の生と同じ価値観しか生に対して見出だせていない。しかし、我々が宿命的に 所有している一回性の限定された生を徒労と受け止めることは、生そのものの意味に対する冒涜 ではないのか。いかにその生の現実が徒労に近いものであろうと、一回性ゆえにその生は輝くべき はずのものではないのか。自分が手にいれた生と全く同じ生を共有する人は誰もいない。自分が生きている生はかけがえのないただ一つの生である。だからこそ、人はその生をよりよく生きるための努力を欠かせてはいけないのであるし、生を主体的に選びとることが必要になってくる。あなたに とって、現在自分が生きている「生」は、100万回生きたねこの最後の一回の生のように充実して いるか? もう一度生まれ返って人生をやりなおしたいという悔いをあなたは所有していないかと、 作者はこの絵本を通じて語りかけているような気がするのである。

 30年以上も前に『100万回生きたねこ』を初めて読んだ時の感動は今も少しも変わらない。親しくなった多くの人にこの絵本を紹介しながら、いつか自分が感じた想いを文章にまとめておきたいと 思っていた。その作業はいつになったら完結するのか予想もつかないが、作品にこめられたメッセ ージを私なりに読み取った結果、とりあえず今回はこのような結論に到達した。「単なる愛の物語で はない。」という私の直感は、こうしてまとめる機会を得て、ほんの少し具体的なものとなって文字と なった。しかし、まだ完全に解きあかせたわけではない。『100万回生きたねこ』は、人が生きるこ との意味を提示しているという意味に於いてきわめてすぐれた作品である。私の読書体験の宝物の 一つに数えておきたい。その読書が、私に「至福」の瞬間を与えたことは言うまでもない。




  参考文献  『100万回生きたねこ』 佐野洋子 講談社

        『国境の南・太陽の西』 村上春樹 講談社

        『鍵』 星新一 (『妄想銀行』(新潮文庫)所収  


 このテキストは2016年2月に改めて公開・発表するものです。初出は1994年です。

モノ書きになることを目指して40年・・・・ いつのまにか老人と呼ばれるようになってしまいました。