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文章を読まれるのが恥ずかしい

どこかに書いてる気もするんですが、江草のこのnote毎日更新活動は妻も公認です。「ちっ、しゃーねーな」的な嫌々容認どころか、「ぜひ発信しなさい」と背中を押してくれてるレベルです。ありがたいことです。

ただ、普段の会話で江草の考えはよく知ってる(聞き飽きてる)ためか、さすがに毎日江草のnoteを読み込んでるわけではないようです。江草の場合、妻との会話で生まれたアイディアをnote記事に落とし込んでることも多いので、妻的には繰り返しになってしまうのも確かです。

でも、一応妻にnote活動は認識されてるのもあって、妻が読んでもいい内容にはしてるつもりなんですね。

ところが、たまに、妻との会話の中で「この話、こないだnoteに書いたんだけどさ〜」と江草が話した時に、「お、じゃあ読んでみるね、どれどれ」と妻が目の前で江草のnoteを読もうとすることがあります。
これが個人的にはなんとも言えずめっちゃ恥ずかしくって「いや、読んでもいいけど、目の前では読まないでー!」ってなっちゃうんですよね。目の前で自分の文章が読まれるのがなんとも苦手なんです。

耐えきれず、妻に「恥ずかしいからこっそり見えないところで読んで😅」とお願いすると、逆に「読んでもいい内容なのに、なんでダメなん🤔」と問い返されます。

でも、確かになんでダメなんでしょうね。

完全に自分しか読まない用に書いてる個人日記であれば、確かに妻であろうが誰であろうが読まれたら恥ずかしいし読まれたくないのは分かります。しかし、noteに関してはもはや全世界に公開してると言っても過言ではないものです。ある意味で、妻一人に読んでもらうことよりも恥ずかしがるべきことをしてるような気さえします。

にもかかわらず、やっぱり目の前で読まれることに抵抗がある。とても不思議です。

なんなら、江草の場合、この現象はnoteに限らないところもあります。
仕事で書く読影レポート(文章です)も当然のことながら関係各位に「読まれるため」に書いてるわけですが、実際に目の前で誰かが自分のレポートを読んでる瞬間はなんとも落ち着かない気持ちになります。
その内容がなんであっても「自分の文章を目の前で読まれる」というのが苦手みたいなんですね。

それで、妻本人が疑問を呈してることから分かるように、これが妻からするを分からない感覚らしいんですね。「私だったら何か書きあげたら見てみてー、できたよー、ってむしろ喜んで積極的に直接見てもらいにいっちゃうわー」って言うんですよ。妻は全然「自分の文章を目の前で読まれること」に抵抗がない。

つまり、この苦手感覚は人によってあったりなかったりするものだと思われるんですね。

この違いは何から来るのでしょう。

とりあえず、雑に考えた仮説としては、本人の軸が「書き言葉文化」にあるか「話し言葉文化」にあるか、の違いなのかなと。それっぽい用語を出すと、エクリチュールとパロールの対照という例のパターンですね。

書き言葉って、テキストとして固定されて残る言葉なので、時間や空間の感覚が消えるんですね。その時その瞬間のものがタイムカプセルのように凍結保存されて、いつどこで誰がそれを読んでもいい、そうした「時空の流れからの解放」の特性があります。

ところが、話し言葉というのは、まさにその時その場所に居る人たちによって交わされる言葉です。その同時性においてその瞬間にだけ生じて味わうことができる一過性のもの。文字情報としては同じ言葉であったとしても「いつどこで誰と話された言葉か」が内容と分離できない(何なら「してはいけない」)言葉。時空の中でその占めてる独自の位置こそが重要で、すなわち「時空の流れのまっただ中に身を置くこと」でこそ輝く言葉です。

で、多分江草は前者(書き言葉)の文化が強いんだと思うんですね。「時空の束縛から逸脱すること」が好きで書いたり読んだりしてるところがあると。

ところが、そうした時空から解放されたテキストが目の前で読まれるという場面になると、本来時空の流れから分離していたはずのテキストが「その場その時」という特異な時空ポイントに急に吸着されてしまう。「書き言葉」がある意味で「話し言葉」のように扱われるから、困惑してしまうというわけです。

先ほど例に出したタイムカプセルなんてまさにそうですよね。
昔書いたものが急に目の前に現れてその場その時のみんなで共有するから「こっぱずかしい」。もっとも、その「こっぱずかしさ」をあえて味わって楽しむのがタイムカプセルの醍醐味なのですが、こうしたタイムカプセル的な「こっぱずかしさ」感覚が、「書き言葉文化」の人が自分のテキストを目の前で読まれる時に感じるものなのでしょう。これが心の準備なしに急に来たら確かに「うひゃー、待って待って!」ってなりますでしょ。

(江草には想像しかできませんが)これが多分もともと「話し言葉文化」寄りの人だとそこまで抵抗がないんでしょうね。その場その時で人と体験を共有することが好きで、テキストもある意味でそのためのアイテムに過ぎないのでしょう。
実際、妻は明らかに「話し言葉文化」の人なので、夫婦の個性の違いがよく出てるなと思います。

というわけで、江草が目の前でnote記事を読まれそうになると落ち着かなくなるのは、こうした理由とすれば説明がつくかなと思った次第です。

お読みになってる皆さんの中でも、きっと「目の前で自分の文章を読まれるなんて恥ずかしくて死にそう」という方もいれば「目の前で自分の文章を読まれても全然平気」という方もいらっしゃるでしょう。
その背景に、もしかしたらこういう「書き言葉文化」と「話し言葉文化」の違いがあるんじゃないかなと考えると面白いんじゃないでしょうか。


っていうか、この文章も妻が読むかもしれないと思ったら、やっぱり恥ずかしくなってきました。「読まれてる場面」を想像してしまうとそれだけでも照れますね。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。