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「リゼンティーズム」という新語も出たので、各種働き方問題用語を整理する

また新しい働き方問題用語が登場してました。

「リゼンティーズム」だそうです。既に普及してる用語「プレゼンティーズム」の変形版で、この記事によるとこういう意味になるそうです。

現在の仕事や職場が嫌いだが、より良い就労機会を見つけることができない、あるいは経済的な必要性にしばられているために離職できず、働き続けざるを得ない状況を意味します。

「疫病出勤」は「プレゼンティーズム」(体調不良があって仕事効率が落ちてる状態)にこそ当てはまりそうな邦訳なので、これをなぜか「リゼンティーズム」の邦訳に当てている点には疑問がありますが、とりあえず「疫病出勤」という謎邦訳を無視して「リゼンティーズム」とカタカナ語で扱えばよいでしょう。

本当にこの新語「リゼンティーズム」が流行ってるのか、今後流行るのかはさておき、こうした新しい概念が出てくること事態は、現状に対するモヤモヤが溜まっていることや、それをどうにか表現したい、改善したいという人々の潜在的意欲の表れと言え、非常に興味深いところですね。

江草のnoteで頻出でおなじみ「ブルシット・ジョブ」や、あるいはもっと比較的最近に伸びてきたものであると「アンチワーク」とか「グレート・レジグネーション(大退職時代)」とか「静かな退職(Quiet Quitting)」とかが、同系統の新参労働問題用語でしょうか。これだけ次々と同系統の労働をネガティブに捉える用語が出てきてるところに、「仕事主義の歪み」の問題が無視できなくなってきたことがうかがえますね。

しかし、逆に言うと、ちょっと似たような用語が並び過ぎてるのもあって、一度それぞれの用語の細かなニュアンスの違いを整理しておいた方がいいかもしれません。もちろん、誰かが厳密に定義して生まれ使われるような用語たちではなく、それゆえ基本的に曖昧かつ日々意味内容が変容しうるつかみ所の無さはあるでしょうが、それでもそれぞれの持ってるニュアンスの性格傾向はあるかと思います。

また新語が登場したのも良い機会なので、試しに叩き台としてざっくり江草が整理してみましょう。


「仕事主義」とは

まず手始めに、これらの、仕事をネガティブに捉える見方、あるいは仕事に対する不満を抱えてる見方の対極に位置する「仕事主義」の立場の方から押さえると分かりやすくなるかと思います。

「仕事主義」は究極系としては「仕事絶対主義」や「仕事至上主義」と表せるものです。これには主観的な側面と客観的な側面があります。

主観的な側面は「全ての仕事は楽しくやりがいをもって行なえるものである」というもので、客観的な側面は「全ての仕事は社会的に有意義な活動である」というものです。

前者の主観的な仕事主義の立場からすると「楽しくない仕事」「やりがいを持てない仕事」は存在しえないので、「仕事がつまらない」などと言ってる者は、ちゃんと仕事と向き合えてない、すなわち仕事との関係性を適切に行なっていないがためにそうした悲しい病状(disorder)に陥っていると解釈されます。
しばしば見られる「どんな仕事も真剣に根気よく取り組めば仕事が楽しくなってくるものだよ」的なアドバイスが、この立場の典型例ですね。

また、後者の客観的な仕事主義の立場からすると「意味がない仕事」「社会に貢献してない仕事」は存在しえないので、「この仕事は意味がない」などと言ってる者は「ただ単純に無知あるいは浅慮であるがために仕事の価値を理解できてない者」と解釈されます。
しばしば見られる「たとえ一見してその仕事に意味がないように見えてもそれには何かしらの意義があるものなのだ」と主張する言説が、この立場の典型例ですね。

もっとも、ここまで極端な仕事絶対主義や仕事至上主義を明確に打ち出している人はさほどいないし、多くの人もこう言われると「さすがに極端だなあ」と感じるとは思うのですが、いかんせん暗黙の社会の空気(不文律)としてはこうした「仕事主義」が優勢です。個々の人間自身はそうは思ってなくても「みんなはそう思ってるだろう」と思うと、思いのほか極端な共同幻想(collective illusion)が創発(emergence)されてしまうんですね。

それで、こうした社会の仕事主義の空気に対しての反発あるいは例外的異常(disorder)として、本稿冒頭に挙げたような、仕事に対するネガティブな見方や現象を表現する新語が登場するというわけです。

「リゼンティーズム」とは

で、本稿のきっかけとなった「リゼンティーズム」。これは主観的な「仕事主義」が成立してない異常事例としての用語となりますね。仕事の客観的な側面(社会的意義)の方には触れていないところが特徴です。あくまで「この仕事が嫌なんだけどその不満が解消できない」という主観的な問題に触れています。

先ほど述べたように「主観的仕事絶対主義」の立場からすると存在しえないし、存在してはならないはずなのですが、どうやら現に増えてきているらしい。そういう「病名」「症候群名」として「リゼンティーズム」は位置しています。治すべきだし、治って欲しいけれど、どうもうまくいっておらず、この「病気」が流行ってきてるようだぞということですね。

「静かな退職」とは

この「リゼンティーズム」に似てるのが「静かな退職(Quiet Quitting)」。

別に仕事にやりがいを感じてないし、出世とか評価されるとかも興味がないので「辞めさせられない範囲で手を抜きながらまったり仕事しよう」という姿勢です。

仕事に主観的価値を抱いてないという点では「リゼンティーズム」にそっくりですし、客観的価値の議論にも踏み込んでない点も共通しています。

だから両者はとても似てはいるのですが、「リゼンティーズム」と「静かな退職」はそれが「現状を積極的に受け入れてるかどうか」という点で違いはあります。

すなわち、「リゼンティーズム」は「この状況が苦痛でどうにか逃げ出したいけど逃げられなくてつらい」という状態なのに対して、「静かな退職」は「まあこれでいいんじゃない」と状況を受け入れてるところがあります。

個々の仕事環境の不快感の違いが要因として影響してる可能性はあるものの、いずれにしても最終的な表現形として「現状を受け入れてる」か「拒否反応を示してる」かで態度が分かれてるわけです。

とはいえ、「仕事主義」からすると、どちらも仕事の主観的価値の絶対性を否定するような例外的な「病気」であるとなりますから、打ち捨てておくわけにはいかない治療対象(矯正対照)と言えます。

これまで、そこそこ仕事主義だったはず社会においてなおこうした「病気」が蔓延してるということを「仕事主義の不徹底のせい」と考えるか、あるいは「仕事主義の限界の現れ」と考えるかどうかで、(程度に差こそあれ)仕事主義と反仕事主義の立場が分かれることになります。

「グレート・レジグネーション」とは

「リゼンティーズム」とも「静かな退職」ともまた毛色が違うのが「グレート・レジグネーション(大退職時代)」。

これはコロナ禍を契機に米国で実際に大量の退職者が発生するようになったトレンドを指す、けっこう具体的な現象を指す言葉なんですね。

つまり、ただ「人がいっぱい辞めてる」というマクロ的な社会現象の記述なので、個々人の「こうしたい」とか「こうなるべき」みたいな価値観的な含意は基本的にはないんですね。「リゼンティーズム」が「仕事が嫌で辞めたいけど辞められない」というミクロレベルの個人視点で見ていることや、「静かな退職」が「辞めずに最低限の仕事を続ければいいや」という個人の価値観ベースの言葉であることとは対照的です。そもそも実際に辞めてる点が、辞めてはない前二項の言葉たちとは決定的に違いますね。

とはいえ「なぜこんなに人がいっぱい辞めてるのか」という解釈の段に入ると、「コロナ禍で自分の仕事の意義を見直すようになった(生活を重視するようになった)」とか「快適に安全に過ごせる仕事を求めるようになった」などと、仕事をいったん引いた目線で再考する言説が多いので、仕事主義のゆらぎを反映してる現象として注目されてることも事実でしょう。

「仕事絶対主義」の立場からしても、やっぱり「退職」というのはそんなやすやすとするものではないわけですから、それが大量発生するのは奇異な現象、異常事態として見えるはずです。その意味で、これまでの仕事主義二対するアンチテーゼの象徴として扱われるのも不思議ではありません。

ただ、良くも悪くも単純に「人がいっぱい辞めてる」という意味でしかないので、それぞれの辞職理由が多種多様であろうこと、すなわちかなり「ごっちゃ煮」の現象にすぎないことを考えると、一概にピュアに反仕事主義の現象と捉えるのも難しく、けっこう扱いが悩ましいものでもあります。

「ブルシット・ジョブ」とは

そして大物「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」。

もう、江草のnoteで頻出なので細かな説明はいたしません。今回は「リゼンティーズム」などの上記の言葉との差異についてだけ注目します。

「ブルシット・ジョブ」は、あくまで「主観的に意義を感じられない仕事」という主観ベースの用語ではありますが、それが発案者グレーバーの手によって客観的な側面での仕事批判にも転じているところが特徴的です。

というのも、グレーバーは「最もその仕事を理解しているはずのその仕事を行なってる本人が全く意義を感じられない仕事が実は社会的意義を持っているなんてことは本当にありえるだろうか」という理路にて、「全ての仕事には何かしらの社会的意義がある」というテーゼを批判しているんですね。これはまさしく前述の「客観的仕事主義」の「全ての仕事は社会的に有意義な活動である」という思想に真っ向勝負をしている形となります。

この「客観的仕事主義」の批判の論拠として「本人さえ意義を感じられない」という主観的感覚を持ってきてるところが、ブルシット・ジョブ論の非常に面白い特徴となっています。主観的側面と客観的側面を連携させることで仕事主義を批判しているわけです。

これは「リゼンティーズム」や「静かな退職」とは異なる特徴です。前述の通り、これらの用語はあくまで仕事してる本人の主観的な感覚に注目しているだけで、その仕事に客観的な意義があるかどうかには踏み込んでないからですね。

だからこそ、「リゼンティーズム」や「静かな退職」の解説記事でも、その対策として「仕事にやりがいを感じられるようにコミュニケーションを良く取ろう」みたいな「仕事主義」の色が普通に残るものが挙がるのです。
これらは言わば「かわいそうなことに彼ら彼女らは(仕事にやりがいが感じられないという)病気だから(仕事にやりがいが感じられるように)治療してあげなくては」という態度です。
これらの用語は客観的価値の側面には触れてないがために、「その仕事に本当に社会的意義が乏しくてそれゆえに仕事にやりがいを感じられないのではないか」という可能性をスルーしうるんですね。

だから、この「本当にその仕事に社会的意義があるのか」という点も議論の俎上に挙げようとしてる点で、「ブルシット・ジョブ」は「リゼンティーズム」や「静かな退職」よりさらに少し過激なワードとなってると言えるでしょう。

「アンチワーク」とは

そして、ラスボス「アンチワーク」。

もう説明せずとも明らかに「仕事主義」に反対してるに決まってる言葉面ですが、ここまでの流れに従って他の用語との差異に注目してみましょう。

「アンチワーク(antiwork)」はもともとは米国SNSのRedditで一躍ムーブメントとなった現象です。

コロナ禍をきっかけに流行ったらしいので、先の「グレート・レジグネーション」と平行して生じてる動きと言えますね。

「ブルシット・ジョブ」と当然関係性が深いものではあるのですが、「ブルシット・ジョブ」があくまで「本人にも仕事の意義が感じられないクソどうでもいい仕事があるよね(増えてるよね)」と「仕事の一部」に注目してるものであるに対し、「アンチワーク」は一気に抽象的に「仕事(ワーク)」全般に否定的態度を示してる用語となってるのが特徴的です。

つまり、ただ「ブルシット・ジョブが増えてる」と言うと「じゃあブルシット・ジョブなどという一部の問題ある仕事を無くそう」と、「一部の仕事の問題」として回収されうるのに対し、「アンチワーク」では「社会の仕事全体のありかたそのもの」を批判しているので「一部の仕事の問題だよね」として片付けにくくなってるわけですね。すなわち、対象が「部分っぽいか」「全体っぽいか」の違いです。

もちろん、「ブルシット・ジョブ」も先ほど述べたように提唱者のグレーバーは仕事全般に対する批判につなげてるわけですが、それでもその言葉の特性上そのグレーバーの真意に反して「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)さえなくせばいいんでしょ」と思われがちという悲しい側面があるんですね。

だから、そうした「一部の仕事の問題に過ぎない」と片付けにくい「アンチワーク」という用語は、仕事主義に徹底的に反発している、さすがのラディカルさが含意されているわけです。

なお、日本において、この「アンチワーク」の概念をより丁寧に整理し洗練させた「アンチワーク哲学」を提唱されているのが江草のnoteでも頻出のホモ・ネーモさんですね。

その入門書である『14歳からのアンチワーク哲学』がなんと無料で公開されてるので、詳細はそれを見ていただくとして。

(江草も感想文書いてます)

このネーモさんの「アンチワーク哲学」の特徴としては、あえて労働の主観的な価値の側面に重点を置いてるところかと思います。「強制される不快な営み」として「労働」を新定義することで、それを否定している構図です。そこから客観的意義の側面にも踏み込んでいってる論理の運びは、「ブルシット・ジョブ」のグレーバーとも似ていますね。

「LIFEWORK WORKS」とは

さて、こうやって整理していくと、では「客観的な側面(社会的意義)を土台に仕事全般を問い直す」という形式の立場はないのかしら、と思われることでしょう。

実はそのニュアンスが、何を隠そうこの江草が掲げてる「LIFEWORK WORKS(ライフワークワークス)」というスローガンの主題であったりします。

語り始めると当然に激長くなるので(というより当の江草自身まだ練り上げてる途中でもあり)、今回は簡単な説明にとどめますが、江草は「客観的な側面からして社会全体としてもはや働きすぎであろう」という立場なんですね。

「みな働きすぎである」という客観的な問題がひいては各個人の仕事体験の劣化も招いてる、という主観的な問題につなげてるのでその点で結局は「アンチワーク」とも地続きなのですが、土台を「少子化問題」などの客観的な側面に置いてる点が、微妙にアプローチ方法が違うところかなと思っています。登る山は同じでもアタックする登山道が別経路みたいなもんですね。

なんなら「みな働きすぎ」というのも正確な表現ではなく、厳密に言うと「一般的に仕事とみなされてるものはむしろ総体的には真の意味では働いてないと言うべき状況に陥ってる」という逆説的な現状批判であるので、我ながらめっぽうラディカルな立場だなと思います。

この辺の議論はこないだ下記の記事で書きましたね。

要するに、社会全体で「家事育児労働」などの仕事をほっぽり出して、「仕事もどき」で遊んでいながら「仕事主義」も何もない、むしろ現状の「仕事主義」こそが本質として「アンチワーク」である矛盾に陥っていると。

「LIFEWORK WORKS」というのはマルチミーニングなんですが、その一つの意味が「家事労働Lifework働いているworks」という解釈になります。

まあ、この「LIFEWORK WORKS」については勝手に江草が言ってるだけに過ぎないので、他の並み居る用語に比べるとほぼおまけ的な解説でしかないのですけれど、他の用語との違いを整理することで、江草の立場が分かりやすくなるかなあと思って紹介してみました。

なお、もし江草の「LIFEWORK WORKS」の感覚をもっと知りたい方がいらっしゃれば下記のような過去記事がご参考になるかもしれません。


用語整理は楽しい

というわけで、ざっと用語整理してみましたが、いかがだったでしょうか。

最終的には発端の「リゼンティーズム」から随分と遠いところまで来てしまった気もしますが、でもそれなりに地続きだったことも伝わったのではないでしょうか。つまり、総じてこうして仕事の意義や体験の質が問われるようになってるの今日この頃というわけです。

また、たとえば、仕事の主観的側面・客観的側面のどちらに注目するか、仕事全体の問題として捉えるか一部の仕事の問題として捉えるか、現状を容認するのか拒絶するのか、などの本稿で紹介した各軸を利用すれば、また新たな側面からの仕事批判論が生み出せるかもしれません。

こういうのが用語整理の面白く楽しいところですよね。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。