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「医学部入学定員の漸減の必要性」は火を見るより明らかなのか?

先日、厚労省で「医師養成過程を通じた医師の偏在対策等に関する検討会」が開催されたそうで、医学部定員に関する議論をまとめた記事が流れてきました。

江草も以前、医学部定員増減問題については色々と調べたり考えたりしていた時期があったのですが、最近は他の事に主要な関心が移っていて、久しぶりに見かけたなあという感覚です。

で、今はどんな議論になってるのかなと思ったら、案の定、雰囲気はたいして変わっておらず嘆息するしかありません。

つまり「今後は医師が過剰になるから医学部定員は減らすしかない!」という意見が満場一致でまとまっているという状態です。

特に、この検討会の内容をまとめたこの記事では

こうした点を踏まえれば「医学部入学定員を漸減していかなければならない」ことは火を見るよりも明らかと言えます。

と、鼻息荒く豪語してるレベルです。

実のところ「医学部定員を減少させるべき」という立場自体は一定の理があるので、そういう立場の意見が出ることは当然であり自然であると江草も思ってはいます。

ただ、このように「火を見るより明らか」と断言する言説が出たり、検討会で全く異論が出ない(医師限定サイトのm3の記事でそういう記述がありました)レベルになると、あまり健全な議論であるとは思えません。

もちろん、根拠が確かに本気で盤石というのであれば、それでもいいのですけど、正直言って甘い根拠しか提示されてないように思います。

改めて問いますけど、本当に医学部定員の漸減の必要性は火を見るよりも明らかなんでしょうか?

毎度のことながら江草がDevil's Advocate(悪魔の代弁者)を買って出て、この点についてネチネチとツッコんでみることにします。


医師需給推計の問題点

さて、まずは、記事において、どういった点が医学部漸減が必要であることの論拠となっているか。

主な論拠の一つがこちらの「需給推計によれば将来医師が過剰になることがわかっている」というものです。

2020年8月に行われた将来の医師需給推計によれば「現在の医学部入学定員を維持すれば2029年頃から医師『過剰』になる」ことが分かっており

では、その需給推計というのは具体的にはどういう推計か。記事に掲載されてる参考画像を見てみましょう。


なるほど、これを見て2029年頃に医師は過剰になると言っているわけですね。

でもね、よく見てみてください。この需要ケース1〜3の前提条件どうなってますか?

  • ケース1:労働時間週55時間

  • ケース2:労働時間週60時間

  • ケース3:労働時間週78.75時間

……いやいや。

みなさんご承知の通り、労働基準法に定められた労働時間は週40時間です。甘めのものから厳しめのものまで、どのケースもあっさりと法定労働時間超えが前提なのは一体どういうことでしょうか。

法定労働時間超えの勤務について「残業」とか「時間外労働」という用語が使われていることから分かるように、超過勤務の分は、本来「過剰な労働」の扱いなんですね。

ところが、そうした「過剰な労働」が前提のケースでしか推計を出さずに「医師が余る!」と言われても説得力は皆無です。まずは医師一人一人が過剰な労働をしなくなってからでないと、医師の人員が過剰かどうかの判定は不可能でしょう。

もちろん、現実的に様々な制約から、結果的には医師が時間外労働をしなくてはならない可能性は十分承知しています。しかし、だからと言って、シミュレーションで適正な法定労働時間のケースをハナから除いていい理由にはならないでしょう。

「医師数が過剰かどうか」を判断するための材料なのですから、医師の労働時間が適正化されたケースを想定に入れないのはかなりのアンフェアなやり方ではないかと感じます。


世間は労働時間短縮のトレンドに

しかも、世の中は働き方改革の進行が凄まじくて、もはや週休3日制の話題も出てくるようになってきています。

もっとも、週休3日制といっても、1日の労働時間を長くして週40時間労働を維持するケースが多いのですが、一部には給料が下がってもいいから週休3日の方が良いという提案も出てきており、労働時間短縮のニーズが高まってることが示唆される動きです。

つまり、法定労働時間の週40時間でさえも、将来の人々の労働観では「長すぎる」と感じられる可能性はあるわけです。

実際、最近でも「9時17時勤務でさえ長すぎる」という若者の訴えが大きく議論になったこともありました。

また、夫婦共働きが当たり前となった今の時代において、夫婦ともにフルタイム以上に働くことの過酷さも明るみになってきています。

平日に家に誰もいない仕事中心社会になりすぎてるがために、育児の余力や余裕も欠いて、少子化や幼児のウェルビーイング阻害の遠因ともなってる弊害が指摘されているのです。

たとえば夫婦ともフルタイムレベルで働きながら子育てをすると、こんな分刻みのスケジュールになりますからね。

これが健全な働き方、生き方とはとても言えないでしょう。

だから、社会的なワークシェアリングおよびワークライフバランスという意味でも、夫婦間のワークタイムフェアネスという意味でも、これからは各々の労働時間をより一層抑制方向で調整していくことが社会的ニーズとなりつつあるわけです。(「働き方改革」とはすなわちこのトレンドの端緒であったわけです)

医師という職業も社会の中に共にある以上、社会のトレンドと歩調を合わせなくてはなりません。

つまり、医師が週60時間働いたとして、ではそのパートナーはどれだけ働くのか、簡単にハナからパートナーに専業主フ役や非正規時短労働役を押し付ける想定でいいのか、という話になるのです。(もしかしたら医師は結婚するなというラディカルな意見もあるかもしれませんが)

にもかかわらず、この需給推計が呑気に「週60時間労働で推計してみたら医師は過剰だったよ!」という感覚でやってしまってるのは、下手をすると近い将来週30時間労働さえ目指すかもしれない、世の中の動きについていけていないと言わざるをえません。


医師の働き方改革に対応できてないことの反省は?

そもそも、今年4月から残業時間規制が実効となる「医師の働き方改革」だって、医療界は他職に比べ5年も猶予期間を設けてもらったにもかかわらず、直前になっても対応できてなくって、オロオロと泥縄状態です。

働き方改革で残業時間を制限しようとしたら医師が足りないので地域の病院から医師を引き上げて急場を凌ごうとしてるわけです。

このように医師需給の過去の見通しが甘すぎたことが露わになってきている中で「週60時間勤務で推計してみたら将来医師は過剰になるのは明らかだ!」なんて、なぜそんなに自信満々なのか理解に苦しみます。

せめて過去の見通しの甘さの反省の色ぐらいは出して欲しいものです。


「自己研鑽」ロジックで歪められる勤務時間

さらに言えば、この「週60時間勤務」という労働時間の測定も本当に実態に合ってるかは怪しいものがあります。

たとえば先日、訴訟が起きた甲南医療センターの専攻医過労死自殺事件。

こないだ江草も記事を書いたとこなので、記憶に新しいところですが。

過労死した専攻医の勤務実態につき、労働基準局が認定した月200時間残業に対して、病院側は月30時間しか残業していないと主張しています。

なぜこれほどまで差が出るのか。

病院は「残業とみなされているほとんどの時間は実際には自主的に病院に残って学んでいた自己研鑽だから労働時間とは言えない」と説明しています。

この「自己研鑽」という概念が曲者というのは医師は皆知っていることです。残業時間規制がかかる働き方改革対策や、残業代支払い抑制のために「これは労働じゃなくて自己研鑽だよな?そうだよな?」と、ほとんどヤクザかとみまがうような圧力を勤務医たちにかけてるわけですね。

特に、働き方改革の実効が間近に迫っている中で、より厳格に労働時間と自己研鑽時間を切り分けようとする動きが全国の医療機関に広く出てきています。

これが何を意味しているかというと、これまで勤務時間内に多少は許されていた自己研鑽的な活動は、今後は勤務時間と認められなくなりうるわけです。すると同じ「週60時間勤務だ」と言っても、これからはその内実はかつての「週60時間勤務」と意味が違っている可能性が出てきます。

なら、需給推計の「週60時間勤務のケース」の想定も、その前提の質自体が将来には変わっていることを考慮しないといけないでしょう。つまり、週60時間勤務に加えて勤務時間外の自己研鑽時間の負荷も医師たちにかかる。であるなら、余計に、勤務時間の想定はシビアに設定しないといけないはずです。

にもかかわらず、法定労働時間の「週40時間」のケースすらも用意していない。この需給推定の設定は甚だしく異様と言えます。


こんな需給推計程度で「医師過剰が明らか」とは言えない

だから、総合しますと、法定労働時間も無視するし、世間の労働時間削減のトレンドも無視するし、過去の見立ての失敗の反省の色もないし、自己研鑽を労働時間外に押し出す動きも無視するし、どうにもこうにも疑問点が多々ありすぎて、とても

2020年8月に行われた将来の医師需給推計によれば「現在の医学部入学定員を維持すれば2029年頃から医師『過剰』になる」ことが分かっており

と言えたものではないのです。



「85人に1人が医学部に進学する」のはあり得ない?

需給推定についてはこの辺にして、他のポイントについてもツッコんでいきましょう。

記事では

現在の医学部入学定員を維持すれば、「2020年には18歳人口の約123人に1人が医学部に進学する」形ですが、「2050年には同じく約85人に1人が医学部に進学する」ことになり、「あり得ない事態」と言えます。

と、85人に1人が医学部に進学することになることを「あり得ない事態だ」と断じています。

丁寧に記事では図もつけてくださってます。

ただ、これは、某ひろゆき氏が聞いたら「それってあなたの感想ですよね?」と言うであろう、かなりボヤっとした印象論でしかありません。

こんなの「85人に1人」と聞いて「なんか多い気がしたから」という程度の話でしょう?

逆に聞きますけど「何人に1人」だったら適正と言えるんでしょうか?


「結果の数字」からいじる危険性

そもそも、「人口の何人に1人が医学部進学だから」という観点で過剰かどうかを判断するのはおかしいんです。

医療の需要がこれだけあって、だからこれだけの医師の人数が必要だと逆算して、結果として人口のうち「何人に1人が医学部に入学することが必要」という数字が出てくるのが自然でしょう。実際、先ほどの需給推計はこういうプロセスに則って議論してたはずです。

これがあくまで「操作する変数」ではなくて、結果として出てくる数字に過ぎないというところが肝要です。

本当に正当な医師の需要があるなら、その結果として出てきた数字が「50人に1人」であろうが、「20人に1人」であろうが、必要なんだからしょうがないじゃないですか。

それを「なんか多すぎる気がするから」で勝手にいじろうとするのは理性的な思考とは言えません。

たとえば、かつて社会の食糧生産性が低い時代には、民のほとんどが農民だった時代があるわけです。それを「民の99%が農民なのは多すぎる気がするから」といって、農民を減らしたら当然食糧不足になって餓死者が出ますよね。

歴史的にも中国で実際にそういうことをやって大量の餓死者(数千万人規模と言われます)が出た痛ましい失策の事例が知られています。

毛沢東が「農業なんてやっておらずに鉄を作れ!」などと農業労働力を他の労働に移転させたところ、恐ろしいことに食糧が壮大に足りなくなったわけです。(農業生産量については生産性を高めるテクニックを用いた上で、農民が集団的に熱心に働けば大丈夫と思っていたようです。なんか「ITを導入して生産性を高めて病院を集約すれば大丈夫」みたいな、どこぞでも聞くようなロジックな気がしないでもないですね)

だから、医師に関しても「医学部入学者が多い気がするから」という気分だけで入学者数をいじった結果、それが実需要に対して足りなかったら大問題でしょう。

当然患者さんも死にうりますし、それだけでなく帳尻合わせに過労医師が続出して甲南医療センター事件のように死ぬ医師も出るかもしれません。

だから、結果としての「85人中1人」という数字に対して「多すぎる気がする」という観点で操作するのは、ほんと某ひろゆき氏に論破されても仕方がないレベルの、素朴すぎる危険な印象論に過ぎないわけです。


医師需要の推定こそが重要

ここで、注意していただきたいのは、先ほど記述した「本当に正当な医師の需要があるなら」という前提が重要ということです。

無駄な医療活動や脱法的な労働慣行等々をちゃんと省いた上で本当に正当な真の需要から計算した結果、「(例えば)150人中1人医学部進学で済む」という理屈であれば、別に変な話ではありません。場合によっては「300人中1人」でも「500人中1人」でも妥当である可能性はあり得ます。「85人中1人」が多すぎるという感覚が印象論に過ぎないのと同様に、「85人中1人」が少なすぎるという感覚ももちろん印象論なのですから。

ただ、この前提をきっちり確認するのに必要なのは、妥当な需要推定でしょう。

しかしながら、前項で指摘した通り、その肝心の需要推定の議論がどうにも怪しいわけです。

それに、結局は医師の需要推定こそが大事だということは、やっぱり結果として出てきた「85人中1人」という数字を大きいと感じるか少ないと感じるかという感想などは議論に必要ないことには変わりません。「85人中1人の医学部進学はあり得ない事態」というコメントは蛇足的な印象操作でしかないのです(それまでの論考が妥当であればダメ押しでこういうコメントを付けてもいいとは思いますが、粗い論の中でこうやって付けちゃうとかなりダサいです)。


相対的な需要の観点から見るにしても不誠実

なお、医師についての絶対的な需要だけでなく、他業界と比べての相対的な需要の観点から「85人中1人医学部進学は多すぎる」という考え方もあるでしょう。

これは一理ある考え方なのですが、それはそれで「では、他の各業界はそれぞれ何人中何人進学するのが妥当なのですか」という話になります。つまり、医療だけでなく各業界の需給推計も載せないと議論になりません。その数字の推計の話を出さずに「85人中1人医学部進学は多すぎる」とだけ印象論を述べている今回の記事は、そうした相対評価の観点におよそ達していないのです。

それに、他業界の需要と見比べた相対的な評価に基づいて医学部入学者数をいじるということは、すなわち医療の絶対的な需要を満たすことを諦めるということと同義です。「本当はこれだけ医師は必要だけど他の業界の活動に人材を回すために諦めよう」というわけです。最初から絶対需要に医師が足りているなら他業界と相対評価する必要がそもそもないですからね。

つまり、相対評価を採ることは「医療がどこかで不足すること」を受け入れるということです。

実のところ、世の医療縮小論者の方々の一部は、この点に関して自覚的です。その思想そのものに賛否はあろうかと思いますが、彼らは「もはや他の経済活動のために高齢者医療は諦めるべきだ」などと「医療需要を満たさないこと」の容認の姿勢を明らかにしているのが特徴です(もっとも、「高齢者の延命治療は真の医療需要とは言えない無駄な医療行為である」などと絶対需要の議論の方にも首を突っ込むことが多いですが)。

コロナ禍で「命か経済か」という二者択一の議論があったことは皆様の記憶に新しいかと思いますが、要するに彼らは「命」ではなく「経済だ」と言う立場なわけです。

ところが、今回本題の厚労省の検討会の記事については「医療需要を満たさないこと」については何も触れていません。あくまで「絶対医療需要を十分満たした上で医師は過剰になる」という姿勢で臨んでいます。

にもかかわらず、他業界との相対評価判断を匂わせるような「85人中1人が医学部に進学するのはあり得ない」などというコメントを残すのは、相対評価において容認が不可欠であるはずの「医師の絶対需要を満たさない」というデメリットをスルーしている不誠実な態度であると言えます。

一見すると過激とみなされがちな医療縮小論者の面々の方が、タブーを議論の俎上に載せて世間からの非難を受ける覚悟がある点で、議論的な誠実さの上ではむしろ(重大なデメリットの存在をスルーする)厚労省の検討会の姿勢よりも優れてるとさえ言えるかもしれません。

このように、この記事の論の流れの中で、さらりと「85人中1人が医学部に進学」を「医師過剰」の論拠かのように提示するのは、不誠実かつ小狡い仕草と思われるのです。


大学進学率も上昇していることに注意が必要

ついでに、データ解釈的な注意点についても指摘をしておきましょう。

「85人中に1人が医学部進学」のコメントに付与された図を再掲します。


この右肩上がりの図を見せられると直感的には「ほとんどの学生が医学部に入ってしまって、他学部に入る学生がいなくなるぞ」という印象を覚える方が多いかもしれませんが、それはちょっと正確ではない解釈です。

なぜなら、大学進学率も年々右肩上がりに上昇しているからです。


図録▽高校・大学・大学院進学率の推移 -社会実情データ図解

つまり、人口当たりの大学生になる人の割合が増えているので、18歳人口の中での「何人中1人が医学部に進学する」という数値の推移の印象よりは、他学部進学者人数に与える影響は少ないわけです。

だから「18歳人口千人あたりの医師養成数」のグラフで見る印象よりも、いわゆる高度スキル人材の取り合いという意味での問題は緩いはずであるということに、解釈の際は注意が必要です。

もちろん、急速に進む少子化の影響で、各学部入学者の絶対数そのものは、今後減少傾向が現れることは間違いないでしょう。ただ、それでもこのグラフの右肩上がりの曲線を見て簡単に「医師の養成が増え過ぎて他業界に有能な人材が回らない!」としてしまうのは早計であることには変わりがないのです。そもそも、このグラフだけで人材の動向を判断するのは極めて困難と言えます。


それに、そうした「人口当たりの進学者数」の問題を指摘するのであれば、そもそも「人口の6割が大学に進学すること」自体についてはどう考えているのでしょうか。

「多くの人が大学に進学することは意義があることだからOK」ですか?
なら、「多くの人が医学部に進学することは意義があることだからOK」でもいいですよね。必ずしも直接的に仕事につながる内容でないことを大学で学人はたくさんいます。なら、医学という学問を学ぶ意味で(彼ら彼女らは自ら志望して医学部を受験するのですから十分に学ぶ意欲は高いはずです)ただ医学部に行く者が増えることも別に構わないでしょう。

それとも大学は学問の場ではなく、ただの職業訓練校や学歴シグナリング装置に過ぎないと言うのでしょうか。なら「6割もの人間が大学に行く必要性があるのか」は「85人中1人の人間が医学部に行く必要性があるのか」と同様の構造の問いとして立ち現れることになります。

実際、大学進学率の上昇に象徴される知識偏重社会への警鐘を鳴らす意見も出てきています。デイヴィッド・グッドハートの『頭手心』などはそうですね。

グッドハートは、必ずしも大学教育的な論理とは噛み合わない職人的な手仕事や共感的な包摂が重要となるケアワークといった仕事が、知識労働が賛美される社会の中で軽視されていると指摘しています。

すなわち「人口当たりの医学部進学者数」の大きさを問題にするのであれば、同時に「人口当たりの大学進学者数」の大きさも問題にしなければ、議論的にはフェアではないでしょう。

しかし、記事が本当にこういった問題の複雑性と多層性まで考慮した上で、

現在の医学部入学定員を維持すれば、「2020年には18歳人口の約123人に1人が医学部に進学する」形ですが、「2050年には同じく約85人に1人が医学部に進学する」ことになり、「あり得ない事態」と言えます。

と言ってるかは、正直、疑問です。


まとめ

ほんと言うと、もっとツッコんだり語りたいところはいっぱいあるのですが、十分に長くなったのでこれぐらいにしておきます。

今一度強調しておきますが、別に「医学部定員を漸減すべき」という意見自体は当然あって然るべきですし、一理あるとは思います。逆に「医学部定員を増加させていくこと」についてはもちろん現実的なハードルもデメリットも多々あるでしょうから。

ただ、本稿で問題にしてるのは「医学部定員を漸減すべき」という意見に至る議論の精緻さと誠実さがあるかです。

件の記事が「火を見るよりも明らか」と豪語するにしては、相当に根拠が甘く議論が雑であることは、ここまで長々と指摘した通りです。

全然明らかでないのに「明らかだ」という声が大きくて、異論が全然出てないというのは、大変に危険な議論だと思うので、仕方なく江草がその問題点を指摘するに至ったというわけです。

少なくとも、すぐに本稿のような疑問が多々思いつく時点で「火を見るより明らか」という主張は全くもって成立してないと言えます。これが伝われば本稿の目的は果たされています。


でも、最後に身も蓋もないことを言いますけれど、医師の需給の問題はすでに手遅れ感があるというのが一番残念なのですよね。

なぜって、医学部定員をこれから拡充したところで、その人たちが育つには10年単位の時間がかかります。つまり、これから10年ぐらいはそういう人材供給追加の目処なくなんとかやりくりしないといけないのが確定しているんですね。しかも、検討会の方向性がこのように漸減でほぼ確定してる雰囲気なので今後医学部定員が拡充されることは絶望的と言えます。

だから、江草もこうした安易な「医学部定員漸減論」に対して批判はしてはいるものの、この声が意思決定機関に届くことはまずないでしょうし、現実的にももう増員が間に合わないということが確定しているということで、すでに「負け戦」なんですね、実は。

最近、江草が医学部定員問題を追っかけてなかったというのも、すでに「負け戦」を悟ったからというのが大きいです。(医学部定員の問題以上に社会全体の構成員が増えないという少子化問題がよりヤバいと思い始めたのもあります)

とはいえ、それでも雑な議論に対しては雑だと誰かが指摘しておくことは、たとえそれがあまりに微かな営みであっても、社会における批判的思考の精神を維持するためには良いことだろうと思って、こうしてインターネットの片隅で記事を綴ってみた次第です。

江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。