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「選択と集中」批判のパラドックス

先日、網膜再生医療分野で著名な高橋政代先生が「基礎研究者もただお金が欲しいというだけではなく知財の知識を学んで大学や国に還元するべき」という趣旨の主張をされていました。

たとえばこんな感じの主張です。(実際にはこれは議論の終盤での発言ですが)

(前略)

知財部が横についてこれは知財になりますよと言ってくれるような環境がない限り、研究者が知財の知識を持っておいて初動するしかないです。そうしないと宝の山を捨ててることになる。逆に知るだけでいい。後それを活かすかは知財部と大学の仕事。

国だけにすがってももうダメで、いろんな委員会で見聞きすると、役人さんはバカなのではなく、ほとんどできない仕組みであることがわかります。これまでの手段がだめならば、別の手段も考えましょうと言うことです。

選択と集中されても、日本の予算はカリフォルニア州の再生医療研究予算の10分の1です。そんな中で選択と集中が悪いと足を引っ張っても自滅で、パイを増やすことを考えねばなりません。
国は20年間そうしてくれと言ってきた。 トヨタは40兆円の売り上げで世界1です。ビジネスの世界まで垣間見れば(知るだけで)、そちらからお金を誘導する方が大きいことはすぐわかります。

「知って考える」だけのことを拒むのはあまりに狭量、基礎研究をますます衰退させることです。

https://twitter.com/masayomasayo/status/1720242303422607736


この主張が大変な議論を呼びまして、熱いやり取りが繰り広げられていました。特に目立ったのは「基礎研究者に金稼ぎを意識させるな。(つべこべいわず)金を基礎研究者に配れ」という趣旨での高橋先生の主張への批判です。

この批判は、「選択と集中」や「稼げる大学」といった最近の国の学術研究政策トレンドに対する不満が背景にあると推測されます。つまりは「役に立つ研究にだけ研究費を出してやろう」「(トップジャーナルに載る可能性があるような)価値のある研究にだけ研究費を出してやろう」「大学もお金を稼げ」という政策態度ですから、役に立つかどうか分からないけれど(むしろ役に立つかどうか分からないから)研究するという特性を持つ基礎研究を担う方々からすれば、不満に思うのは自然なことです。

実際、江草も院で「『今まで誰も調べてないから』という理由では研究目的とは言えない」と指導された経験があって、その時に「いや立派な目的でしょう」と反発心を覚えた記憶があります。もちろん理屈としては分かるのですが心情的には納得いかなかったんです。

世の中、「面白そうだから研究する」「気になったから研究する」「誰も調べてないから研究する」といった素朴な知的好奇心のみでは研究は許されない雰囲気なのです。とにかく「お前の研究に価値があるという証明をせよ」と。

これが、ピュアな知的好奇心でモチベーションが駆動していることが多い研究者という人種からすると、「こういうことで役に立ちうる研究です」と建前を掲げるのはとてつもなく自分の気持ちにウソをついてる感じがして、居心地が悪いんですよね。単に知りたいだけなんだけどね、と。

だから批判者の気持ちは分かるんです。高橋先生の主張に「稼げる大学」的なニュアンスを感じて反射的に反発する方々が出るのは「まあやっぱりそうう感じる人もいるよね」とは思います。

ただ、高橋先生の主張はけっこうマイルドで、現状に則したひとつの立場としては真っ当で丁寧なものです。だから、そこまで脊髄反射的に反発するものでもないだろうとは思います(中には嘆かわしいことに中傷レベルの醜い批判もありました)。


で、実はここまでが前置きです。本稿で語りたいトピックはこの高橋先生の知財等々の主張を巡る議論ではありません(めっちゃ難しく奥行きがある議論ですから江草なんかではとても語れないです)。

今回注目したいのは、〈選択と集中〉を批判しながら「金を基礎研究者に注げ」とする批判者側の主張に潜むパラドックスについてです。

研究費を出す先を選抜する「選択と集中」政策に反発する、こうした「つべこべ言わずもっと研究者に広く金を出しなさい」という主張は、別にこの度の高橋先生の議論に限らず普段から人気があるように思います。

この主張の意図自体には江草も賛同するものなのですが、実はこの主張にはなかなか興味深いパラドックスが内在しているんです。あまり指摘してる人がいなさそうなので、今回江草がちょっと書いてみようというわけです。


まず、有望な研究を選んで研究資金などのリソース配分を注ごうという「選択と集中」が批判される主な理由は「事前に何が成果を出す(意義がある、お金が稼げる)研究かは分かりえない」というものです。

当時は全く役に立ちそうもなく、全く金になりそうもなく、多くの人にとって面白そうとも思えない(興味がない)研究が、後に大きな成果になることが時にあるということで、そういう芽を潰しかねない〈選択と集中〉は危険であるというわけですね。

※なんならこういう本もありますし


だからこそ、日本の研究実績が落ちこぼれてきたと嘆くならば、国はむしろ逆効果になりかねない〈選択と集中〉ではなく、つべこべ言わずに(条件をつけずに)研究への投資を増加させつつ広く配るのが良いのだと。「知財として活用できるよう学ぶべき」とか「国にできるだけ還元しようとすべき」みたいな努力義務でさえ邪魔なノイズに過ぎず、自由な研究の障害になりかねないのだと。

つまり、言ってみれば、批判者たちが掲げている主張は基礎研究者に対するベーシックインカムみたいなものです。その研究が役に立ちそうかどうかとか、ノーベル賞を取りそうかどうかとか、そんなことは不問にして研究者の活動をとにかく平等に資金援助せよという内容ですから。研究者を対象としているので、ベーシックインカムならぬベーシックリサーチャーズインカムとも言えそうです。


さて、こうした意見自体は、江草も共感しますし、むしろとても好きな部類なのですが、この「ベーシックリサーチャーズインカム」のビジョンが掲げられる時、なぜか常に触れられてない点があるのですよね。

それは、

「なるほど、〈選択と集中〉が良くないという立場は分かりました。ごもっともです。しかし、ではなぜ世の中で研究者に資金援助が〈選択と集中〉されなければならないのですか

という問いです。

世の中には研究者以外にも様々な人たちがいて様々な業界があるのに、なぜか「研究者に配れ」とだけ言う。これはつまるところ研究に対する〈選択と集中〉にほかならないわけです。

もちろん、これは必ずしも「研究者にだけ配れ」という意図とは限りませんが、それならば研究者以外の話にも同時に触れるべきではないでしょうか。そこをスルーしたまま「研究者に配れ」だけ言うならば、それはやはり研究に対して特別に資金を提供すべきだという意図であると解釈されうるでしょう。

とくに、先の菊池誠氏については「特に基礎研究は」と限定的に言っていますから、より「基礎研究への重点的な資金注入(選択と集中)」を意識していると言えます。

〈選択と集中〉を批判していたのに、それと同時に基礎研究者への〈選択と集中〉は妥当であるとする。ここにパラドックスが生じるのです。

これは別に基礎研究が大事じゃないとかそういうことを言っているわけではありません。江草も科学っ子、学問大好きっ子なので、基礎研究がどんどん花開いて欲しいなと思っています。

ただ、同時に、批判的思考が大好きなもので、このパラドックスの存在がどうしても気になってしまうんですよね。どうして、この点はスルーされるのだろう、と。


このパラドックス、もう少し詳しく紐解いていきましょうか。

「事前に何が成果が出るかわからない」「役に立ちそう、成果が出そう、金になりそうなものばかり選ぶべきではない」という立場から主張を為すのであれば、基礎研究以外の活動や人材だって何が役に立って誰が将来成果を出すか分かりえないし、その有望さの有無を理由に待遇を区別するべきではないとなります。

であるならば、基礎研究に限らず全ての業界や人に資金を広く平等に配布するべきということになるでしょう。つまり、「ベーシックリサーチャーズインカム」ではなく結局は「ベーシックインカム」の方になるわけですね。

ここで「いやいや基礎研究は社会(あるいは人類)にとって特別に大事なんだ」と基礎研究への注力を正当化するならば、「ではなぜ基礎研究は大事と言えるのですか」あるいは「なぜ基礎研究以外の活動は大事でないと言えるのですか」とその根拠を求められます。しかし、これは「意味がある」とか「役に立つ」あるいは「お金になる」などの何らかの共通社会規範に従った証明を示す試みになりますから、結局は否定していたはずの〈選択と集中〉の論理を自らが行使する矛盾に陥ることになります。

もしくは「全員に配りたいのはやまやまだが、さすがに全員に資金を配るのは難しい。現実のリソースには限度がある」と言うならば、〈選択と集中〉の政策を推し進めている当局側だって「研究者全員に配りたいのはやまやまだが、さすがに全員に資金を配るのは難しい。現実のリソースには限度がある」という意図でしょうから、「最初から我々もそう言ってるじゃないの」と議論が振り出しに戻るだけです。


また、とりあえず主張通り、無条件に全研究者への広く平等な資金投入拡大を行なうことを良しとしたとして、もうひとつ問題になるのが研究志望者の取り扱いです。もっと言うと、学問の道を志す人々をどうするかという問題でもあります。

つまり「研究者になれば成果があがる保証やマネタイズの見込みがなくても、無条件に資金をもらえて好きな研究ができるらしい。研究には興味があるし僕もやってみたい!」という人をアカデミアは全員受け入れる覚悟があるのかという話です。

現実社会では、皆様ご存知の通り、大学生でも大学院生でも教員ポストでも、学問や研究への道は「定員」のハードルが設けられています。定員内になるように競争的に選抜され、試験成績であったり、論文等々での研究実績がないと研究者にはなれません。

ところが、「事前には何が成果が出るか分からないこと」を研究への無条件の資金援助の論拠にしてしまっていると、人材についても「誰が成果を出せるか分からないのに選抜してよいのか」という疑義が生じてしまうことになります。

すなわち、「このA君は成績が良いから」とか、「B氏はインパクトファクターの高いジャーナルに論文を次々と出しているから」などとして、成績がぱっとせずうだつのあがらないC君を入学させないこと(彼の人生における学問の道を閉ざすこと)、あるいは、良い実験結果が得られず博論の完成が絶望的となったD氏の研究者ポストへの登用を見送ること、をどう正当化できるのでしょうか。

成績やインパクトファクターなどの基準で良い研究者となる人材が選抜できるというならば、それは「事前には何が成果が出るか分からない」という前提をゆがめていることになります。

こう言うと、「いやいや研究は事前に何が成果がでるか分からないけれど、人材については別だよ」として正当化する試みが出るかもしれません。ただ、「役に立たないと思われていた研究が後に役に立つことがしばしばある」のと同様に「できない奴と思われていた人材が後に華々しい成果を出すこと(大器晩成)がしばしばある」のですから、この分離は容易ではありません。

したがって、〈選択と集中〉が良くないとして無条件での「全研究への資金注入」を肯定するのであれば、研究者人材の〈選択と集中〉も止めて、業界への門戸を無条件に万人に開放する必要が出てしまうのです。

別にこれは「やる気がない者まで研究者にしろ」と極端なことを言っているわけでもありません。現に大学受験等々で「志願者」ですら定員を理由に断っているわけですから、彼ら(やる気はあるはずの)志願者を全員大学は受け入れねばならないでしょうというだけの話です。

国の研究に対する〈選択と集中〉の批判がなされる時、こうしたアカデミアの人材登用に対する〈選択と集中〉に対する批判が出ない。これはどうにもおかしな話でしょう。


せっかくですからさらに極端なところにまで話を押し進めてみましょう。

ここで「もう分かった分かった、じゃあ〈選択と集中〉せずに全員受け入れればいいんでしょ」と、開き直って〈選択と集中〉の徹底的な撤廃を受け入れたとします。つまりベーシックリサーチャーズインカムの上で、定員の制限さえも無視することにして、研究志望者の無条件の参画を肯定するわけです。どんどん学術界が拡大するならそれはそれでいいことだ、という感覚かもしれません。

しかしそれは究極的には誰もがインカムを受けられるのと同じになりますから、もはや事実上のベーシックインカムになります。

なぜなら、実のところ〈選択と集中〉のロジックがないなら誰もが研究者になれるからです。「物理学や分子生物学のような伝統的な基礎研究分野でないとダメだ」などと言うことも十分に研究ジャンルについての〈選択と集中〉ですから、避けねばならないことになります。

ゆえにnoteで労働哲学について論じるのも、子どもの寝かしつけの最善の方法の探求に頭をひねるのも、研究と言えば研究です。なぜそうした私的な研究活動がダメで、大学での物理学の研究なら良いと言えるのでしょうか。大学の研究者への〈選択と集中〉をするんですか?それとも権威ある査読誌への論文の投稿がなければダメという〈選択と集中〉でしょうか?

だから、アカデミア内外にかかわらず誰もが研究者を名乗れ、有望な人材であるとして選抜される必要がなく、無条件であまねく研究者に金が配布されるならば、それはまさしくベーシックインカムの実現でしかないのです。


というわけで、「事前に何が成果がでるか分からない」として〈選択と集中〉を批判する時、ただそう批判するだけで止めてしまうと、「無制限の対象拡大」という問題点を取り残すことになります。

それを嫌って「やっぱりある程度の条件付けは必要だ」と言うなら、結局、翻って現状の〈選択の集中〉の条件がなぜダメなのかを「事前に何が成果が出るか分からない」以外のロジックをもとに論証しなくてはならなくなります。

それでもなお「俺たち研究者は特別なんだ」「基礎研究はただそれだけで意義深いものなんだ」「優秀でない者に門戸を開く必要はない」と言うならば、それは自分たちの審美眼だけを優遇しろという特権意識にまみれた独善的ポジショントーク的態度でしかないでしょう。

だから、〈選択と集中〉を本気で批判するなら、徹底的に万人に平等に広く配るしかなくなるのです。

実のところ、「事前に何が成果が出るか分からない」「誰が成果を出す人材か分からない」として〈選択と集中〉を嫌うスタンスを取る人は、「ベーシックリサーチャーズインカム」レベルに留まらず「ユニバーサルベーシックインカム」にまで至るものです。

たとえば『隷属なき道』のルトガー・ブレグマン。

サブタイトルでもろに出ている通り、書籍の中でベーシックインカムをゴリゴリに推しているのですが、同時に「国境の開放」も提唱しています。

実際、ベーシックインカムに対するよくある疑問として「その金目当てに外国からどんどん移民が来たらどうするんだ」というものがあるのですが、ブレグマンとしては正々堂々と「全員ウェルカム」と言っているというわけです。

このように、〈選択と集中〉を止めて広くあまねく配ることを説くならば、自然とコミュニティの開放をも主張しないとおかしいんですね。この点を意識的にせよ無意識的にせよ一向に触れないならば、それは結局は「他ならぬ自分たち(既存の基礎研究者)にだけ〈選択と集中〉をしろ」と言っているようにしか外部からは見えません。それでは十分な説得力を有さないというものです。だからこそ「その研究が社会にとってどういう意義があるかを説明せよ」という外圧が引き続きかかることになります。

誤解しないでいただきたいのですが、ここでは別にブレグマンのような極端な開放志向が絶対正しいと言おうとしているわけではありません。ただ「自分たちのコミュニティ」が閉鎖性を保ったまま〈選択と集中〉の選抜を無条件に逃れようとするのは論理的に困難なのです。それを意識した上で批判しないと、容易にパラドックスに陥ってしまうよということを指摘したいだけです。


でもって、ブレグマンほどの開放志向は普通は想定されてないでしょうから、たいていの場合、コミュニティの閉鎖性を保つべく「では適切な〈選択と集中〉の条件は何か」というそもそもの議論に立ち戻ることになります。

だからこそ、適切な〈選択と集中〉のバランスを保つ条件として、すなわち国家的に基礎研究に投資をしてもらうことについての外部社会への説得力を保つために、「知財での貢献の姿勢を基礎研究者も見せるべきではないか」と主張しているのが冒頭の高橋先生なわけですね。

そこにただ「〈選択と集中〉はけしからん」「とにかく金を配れ」とだけ言って批判するならば、コミュニティの閉鎖性を放棄する無条件のユニバーサルベーシックインカムの道しか残らないのです。

しかしながら、彼ら批判者が本当にそこまでのブレグマンレベルの覚悟を持って言われてるのか疑問に思った次第です。


というわけで、以上、結局のところリソース配分の問題はやっぱりそう一筋縄じゃいかないですよね、というお話でした。


江草の発信を応援してくださる方、よろしければサポートをお願いします。なんなら江草以外の人に対してでもいいです。今後の社会は直接的な見返り抜きに個々の活動を支援するパトロン型投資が重要になる時代になると思っています。皆で活動をサポートし合う文化を築いていきましょう。