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『君が手にするはずだった黄金について』読んだよ

小川哲『君が手にするはずだった黄金について』読みました。

こないだの成瀬シリーズに立て続けて小説読了。なんか、急に小説を読みまくりたくなる時期ってありますよね。

今回の『君が手にするはずだった黄金について』も本屋で推し推しっぽかったので、勢いで買った作品です。前情報全然なしで買っちゃいました。

といっても、作者の小川哲氏は以前感想文を書いた『君のクイズ』で読んでことはある作家さんだったので、きっとこれも面白いのだろうと安心して買うことができました。


そして、読了。

いやー、小説家って、ほんとすごいな。

面白かったという感想以上に、そうして、ただ感嘆してしまう気持ちが先に出てきてしまいます。

内容も文章ももううますぎるんですもの。

比べるだけでも失礼千万なのですが、一応は毎日こうしてnoteで更新し続けてる身の江草としては、どうしてもやっぱり(なんなら嫉妬にも近い)憧れの気持ちを抱いてしまいますね。小説家の方々の文章のはほんと凄まじい。

少年野球をやってる小学生ぐらいなら大谷選手を純粋に憧れの目で見られるのかもしれませんが、中高生ぐらいになるとあまりの大谷選手の規格外の凄さと我が身の凡庸さにちょいとネガティブな気持ちも混ざってきてしまう。そんな感じの感覚です。(いや、江草は野球やったことないのでただの想像ですが)


で、本作『君が手にするはずだった黄金について』は前読んだ『君のクイズ』がエンタメに寄っていたのに比べると、ずっと内省的、文学的で純文学にも近いテイストの作品です。

基本的には、主人公の「僕」がひたすら一人称視点で見たり聞いたり行動したり、そして考え続けています。

こないだ読んだばかりの別著者の「成瀬シリーズ」もそうでしたが、本作も全然大きな事件は起きません。主人公が彼女や昔の同級生たちや仕事関係の人と交流してるだけと言えばそれだけのストーリーです。作中で起きてること自体は日常の範囲内と言える程度の事件しかないんです。(なお、たまたまと思いますが短編集的な構成であることも「成瀬シリーズ」と共通してますね)

ですが、そうした「日常〜個人的小トラブル」を通して、主人公が独り色々と感じたり考えたりするモノローグが常に濃くって濃くって、つい魅入られてしまいます。

たとえば「三月十日」という章では、東日本大震災が起きた2011年3月11日の記憶は誰もがしっかり覚えているのに、その前日の3月10日のことは誰も覚えてない、という点だけでとことん話が掘り下がっていきます。

確かに、江草自身3月11日の地震の時に何をしていたか克明に思い出せるのですが、前日の3月10日の記憶がまるでないんですよね。

あえて、この誰の記憶にも残ってない「3月10日」に焦点を当てるという洞察力がさすがだなと思います。掘り下げていった結果露わになる「私たちの記憶の不確かさ」の描出が、また含蓄が深いもので、考えさせられてしまいました。

そうした文学青年的な主人公の「僕」のとにかく深く難しく考える感じとか、いろんな知識や哲学的な話が織り込まれてくる感じが、もしかすると苦手な方はいるかもしれません。

たとえば、世界を揺るがす大事件が起きてピンチを潜り抜けながらも悪役をバッサバッサと倒してハッピーエンドみたいな爽快感溢れるエンタメ作品を所望されてる方(あるいはそういう気分の時)には正直向いてないおそれはあります。

ただ、何かと物思いに耽ってしまうような人間にとっては、本作はバッチリ大好物な作品になるでしょう。もちろん江草は大好きです。難しく考えるの最高のご馳走です。


本作を通じてキーとなるテーマを一言で言い表すとすると「虚実」となるでしょうか。

江草が読了して真っ先に思いついたキーワードがそれだったんですが、読み終えた後にAmazonで本作の紹介文・推薦文などを見てみたら普通に同様の指摘があったので、別に江草独自の発見というわけでもないようです。

つまり、多くの人が自然と「虚実」の複雑さや揺らぎに思いを馳せられてしまう、そんな作品なんですね。


ほんと、作中ではとことんいろんな角度から「虚実」が描き出されています。

たとえば「本当の自分とは何か」。言葉や成分で還元していって本当の自分に迫ることができるのか。

あるいは記憶。私たちは過去の記憶をさらりと都合よく改ざんしてしまうことがある。

科学といわゆる「エセ科学」の対比もありましたね。表面上だけはそれっぽいけど全然科学的とは言えないロジックとの対峙。

そして、偽物のブランド品や、自分を偽って盛りに盛ってSNSで見栄を張る者などなど。

私たちは常に真実を求めてそしてそれを尊んでるようではあるけれど、なかなか真実を掴むことはできないし、掴んだと思ったら逃げられるし、真実だと信じてたことが虚構であったり、虚構にこそ真実があったり、虚構に救いを求めたり。そんな一筋縄ではいかない「虚実」と私たちの日常的格闘の姿が本作にはふんだんに詰まっています。

なんなら本作の主人公の「僕」自身が、フルネームこそ開示されないものの、作者と同じく「小川」姓を名乗り、イニシャルが「S」だと語っています。こうして「この作品自体が作者自身の実際の体験談なのではないか」と疑わせる余地を残している意味で「フィクションなのかノンフィクションなのか」という「虚実」の対比をも描き出している構造なのが、まあほんと上手すぎる作品だなと惚れ惚れしてしまいます。


実際、現代ほど「虚実」に人々が翻弄されてる時代もあまりないのかもしれません。

フェイクニュースが飛び交い「ポストトゥルース時代」などと言われたり、「本当の自分」を探して自己啓発本の自己診断に明け暮れたり、「自分にとっての真の天職」を求めて転職を繰り返したり、「絶対正しい科学的真実」を求めてエビデンス主義に走ったり。

真実とは何か。真相はどれか。何が本当で何が嘘なのか。そもそも真実なんてあるのか。自分が信じてる真実は本当に虚構ではないと言えるのか。

そんな感じで右往左往している私たち。その姿を真面目にそして滑稽に描き出してるのが本作です。だから多くの人にぶっささるのでしょう。本屋で推される作品なのも頷けます。


江草個人的には、最近学んだばかりの事項に結びつけたくなる可用性ヒューリスティックスが働いて、どうしても「一切は空である」という思想である仏教哲学と繋げて考えてしまいました。

キリスト教的な絶対的な唯一神の存在を基底に発達した近代的な資本主義や科学主義や理性主義の流れを社会的に追い求め続けてきた中で、ついに現代では人々の「真実疲れ」が起きてしまったのだろうなと。

そんな「真実疲れ」の中で、ある意味「全てが虚」と提言する仏教哲学は、また違った視点を私たちに改めて与えてくれるようなそんな気はします。

奇しくもちょうどそれら西洋的思想と東洋的思想双方の交わる舞台となっている日本社会だからこそ、「虚実」と私たちはどう向き合うべきかを考える上で何か面白い役割が果たせるんじゃないかと思いますし、だからこそこうした面白い作品が生まれたのかもしれないなとも感じるのです。


というわけで、以上、小川哲『君が手にするはずだった黄金について』の感想文でした。

ひょっとするとちょっと難しげな印象を与えてしまったかもしれませんが、文体は平易ですごく読みやすいですし、ボリュームもさほどないので、サラッと読めますよ。なにせ、大事件が起きないにもかかわらず先が気になるように内容にぐいぐい引っ張り込んでくる作者の構成と展開の腕前がさすが過ぎて、自然と誰もが「虚実」の複雑さに巻き込まれてしまう、そんな一冊です。

オススメです。



参考までに同著者の『君のクイズ』の読書感想記事のリンクも置いときますね。こちらも面白かったです。



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