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【マネジメント連載企画vol.4】マネジメントできないマネージャーたち~介護経営の陥穽(おとしあな)

第1章 陥穽(おとしあな)の実像③


初心の反復が意味するもの

「初心忘るべからず」は、室町時代に能を大成した世阿弥の言葉である。世阿弥は、能の道を歩む者に3つの初心の必要性を説いた。是非の初心、時々の初心、老後の初心、である。

1つめの「是非の初心」は、いま世間一般で認識されている「初心」の意味に近い。その道に入った時の最初の気持ちを忘れないように、という解釈でいいだろう。重要なのはそのあとだ。世阿弥は、最初だけでなく、「時々」、「老後」と、その後にも初心があるという。しかも「時々」ということは、老後になるまでに、それが複数回あるというのである。

「初めて」が何度もある…。600年も前の教えが、時代も、分野も越えて今も語り継がれている理由がわかるような気がする。世阿弥はこの言葉に、単なる原点回帰だけでない意味合いを含ませている。ひとつの道を歩む者がその道程で乗り越えていくべき数々の壁。それが「初心」なのだと。

この「初心の反復」は、実は現代でも世の中の様々な組織に見られるシステムである。身近なものでは6・3・3・4の学校教育、企業社会では一般的に、課長職を境にして従業員と幹部の線引きがあり、さらに取締役という役職で幹部と経営層の線引きがある。地域の自治会にも年齢に応じた階層があり、たとえば、だんじり祭りで有名な大阪府の岸和田では、子供時代から約10年ごとに、子供会⇒青年部⇒組⇒若頭⇒世話人⇒相談役という区分けが設けられている。


初心とは出直しと学び直し

興味深いのは、これらの階層が、組織管理の仕組みであると同時に、各階層の年長者やベテランに対して、奢りを諫め、世代交代を促し、新たな学びを求める機能も担っている点である。繰り返される卒業と入学が、その都度、個人と組織に新陳代謝を促しているのだ。

役割として上級生に権限や発言権が集中するのはやむを得ない。だが、それが長期化すると、増長や腐敗、機能不全につながっていくのは世の常だ。また、教育の側面では、職業人の能力の熟達は望ましいことではあるものの、その先にはマンネリ化やモチベーションの低下、新たなインプットが滞るという難問が待ち構えている。

階層化には、こういった問題の表面化を抑制する効果がある。上級生は、一定期間で権限がリセットされるたびに次の階層で下級生として一から出直すことになり、新たに学び直す必要が出てくるからだ。卒業と入学の繰り返しが、半ば強制的に、権力と熟達の負の側面を緩和しているのである。世阿弥の唱えた初心とは、出直しと学び直しのシステムなのだ。

しかしながら、介護業界のキャリア構築においては、こういった考え方があまり意識されていない。特に、介護専門職から管理者への移行時に、出直しと学び直しが行われることはほとんどない。その結果、「中四病」の落とし穴に落ちる者が後を絶たないのである。


アガリ意識とノスタルジー

「中四病」とは、ベテラン専門職と管理職の境界線にぽっかりと空いた妄想の陥穽である。その落とし穴は深い。一度落ちるとなかなか抜け出せない。それは、この病理の根底に、「アガリ意識」と「ノスタルジー」という非常に強い人間の願望が絡みついているからだ。

管理者になれば、当然、管理者の仕事がある。だが、すごろくのアガリのようなものだと思い込んでいる者は、実質マネジメント業務を放棄し、本来管理者がやるべき仕事まで部下に丸投げする。無計画、無責任、無関心、マネジメントする上でいちばんマズい状態が積み重なっていく。放任の果てに、ある者は権力に酔って急に尊大になり、ある者は勝手気ままに振舞って公私混同が過ぎるようになる。その結果、管理者と現場の溝はどんどん深まっていく。

一方のノスタルジーも非常に厄介な感情だ。事業所の管理者は実質その拠点のトップなので、相応の自由裁量を手にする。自分が最も輝いていた現場が忘れられない管理者は、この裁量を自分のために使い、これまで通りサービスに入り続ける。本人は利用者のためだという。人不足だから仕方ないという。それもひとつの事実には違いないが、その本質は現実逃避である。このタイプの管理者は現場への過干渉を続けるので、マネジメントは疎かになり、後継者も育たない。管理者が持つべき俯瞰的な視点や、管理者と現場の適度な距離感も、いつまで経っても醸成されない。



魔力の存在を知って中四病を予防する

アガリ意識にも、ノスタルジーにも、強烈な魔力がある。人生ゲームでアガリを意識するのはある意味当然のことであり、自分の会社への貢献がそういう形で報われるのではないかと多くの人が心のどこかで密かに願っている。バリバリの現役だった自分への未練は断ち難く、もう戻れないとわかっているからこそ甘美なノスタルジーとなって後ろ髪を引く。

だが、マネージャーでありながらマネジメントしないなどということは、あってはならない。管理者にとって、アガリ意識は勘違いであり、ノスタルジーは逃避であると、誰かがいわなければならない。できれば管理者になる前に、はっきりとそういっておくべきなのだ。

いうまでもなく、それは指導者や経営層の役割である。落とし穴が存在しているという事実、その魔力、そしてもし落とし穴に落ちたらどのようなことになるのか、事前に伝えておく。それだけでも、みすみす落とし穴に落ちる確率は減るはずだ。

もちろん、心構えを伝えるだけでマネジメントができるようになるわけではない。だが、マネジメントの手法だけ伝えたところで、それを何のために使うのかわかっていなければ、結局、マネジメントはできない。心構えと手法、両方揃ってこそ、事業所を動かすことができる。心構えを知ることが「出直し」になり、手法を知ることが「学び直し」になるのだ。


時々の初心忘るべからず

介護専門職がマネジメントを学ぶことは、「時々の初心」である。専門職中学の三年生からマネジメント高校の一年生になって、謙虚に一から学びはじめる。しかもその中身は、これまで学んできたものとはまったく異なる。自分が動くのではなく人が動くように仕事の進め方を変え、自分が育つことよりも後輩たちが育つことを優先して考える。それはまさに、「初心」で臨まなければならない未知の学びだといえるだろう。

世阿弥はいう。「初心より、年盛りの比、老後に至るまで、其時分時分の藝曲の、似合たる風體をたしなみしは、時々の初心也。(最初の初心のときから、最盛期、老後に至るまで、その時々に似合う演じ方をすることが、時々の初心である)」…つまり、介護専門職には介護専門職の演じ方があり、管理者には管理者の演じ方がある、ということなのだ。

世阿弥は、この「似合たる風體(その時々に似合う演じ方)」を蓄積しておけと説く。過去の演じ方を捨てろとはいっていない。これまで演じてきた専門職という土台の上に、今度はマネジメントの学びを積んでいけばいい、ということだ。だから、ノスタルジーに浸るよりも、蓄積してきたキャリアから生み出される未来の価値に目を向けた方がいい。また、これから新たにマネジメントのキャリアを積み上げていかなければならない以上、現在の立場がアガリであるはずもない。


第2章「陥穽に落ちないために」につづく

次回からは、中四病の落とし穴に落ちないための具体的な方法について解説していきます。


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