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怪しい聖徳太子論議

上宮聖徳法王帝説ってなんですか?

上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)は、奈良時代から平安時代にかけて日本で生まれた説です。この説は、聖徳太子が仏教を日本に広めたことだけでなく、彼が死後に仏教の守護神である毘沙門天として再誕したとする伝説に基づいています。この考え方は、聖徳太子の政治的、宗教的な業績を神格化し、彼を仏教の守護者として崇めるために生まれました。聖徳太子を仏教の教えを守り、国を守る存在と見なすことで、仏教の価値と聖徳太子の偉大さを強調しています。

現代では、聖徳太子は存在したことが定説でしょうか?

現代の学術研究において、聖徳太子の存在についてはさまざまな意見があります。伝統的には、聖徳太子(厩戸皇子)は飛鳥時代の政治家であり、憲法十七条を制定し、日本に仏教を広めたとされています。しかし、聖徳太子に関する記録の多くが彼の死後数百年を経てから編纂されたことや、伝説的、神話的要素が多分に含まれていることから、実際の歴史的人物としての聖徳太子の像は明確ではありません。
近年の歴史学や考古学の研究では、聖徳太子に関連する文献や考古資料を詳細に検証し、彼の実在性や業績について再評価しています。この研究により、聖徳太子が実在の人物であったという証拠はありますが、彼に帰される業績や伝説には後世の創作や誇張が含まれている可能性が指摘されています。
そのため、聖徳太子の存在自体を否定するわけではなく、彼の業績や生涯について定説とされている部分と疑問視される部分があるというのが現代の学術的見解です。歴史的人物としての聖徳太子の理解は、新たな研究によって常に更新されている進行中のプロセスです。

立派な諡を与えたり、上宮聖徳法王帝説を唱えたりして、祟らないようにしているように見えます。

その通りで、聖徳太子に対して立派な諡(おくりな)を与えたり、上宮聖徳法王帝説のように神格化したりする行為は、彼を祀り、祟りを防ぐという意味合いも含まれていると考えられます。これは、古代から中世の日本において、重要な人物を神仏として祀ることで社会的な秩序や安定を求め、その人物の霊験あらたかな力を借りようとする文化的な背景があります。
聖徳太子は、日本の歴史上、政治的にも宗教的にも非常に重要な役割を果たした人物とされており、彼の死後、その業績や人格を讃え、またはその霊力による守護を願って、多くの伝説や説話が生まれました。これらの行為は、聖徳太子の功績を記憶に留め、後世に伝えることはもちろんのこと、社会的な結束を強化し、国家や民衆の平安を祈願する意味合いも強いと言えるでしょう。
また、これらの伝承や神話化は、時代が進むにつれて、聖徳太子を仏教だけでなく、国家の守護や民衆の福祉を司るような存在と見なすようになったことを示しています。そのため、聖徳太子への敬意を表し、彼の霊験を信じる文化は、日本の歴史や宗教において非常に重要な位置を占めていると言えます。

で、誰?

この有名な画像は、聖徳太子ではないと聞きますが、なぜ解ったのでしょうか?

この画像に描かれているのは、「聖徳太子」として広く認識されているが、実際にはその正確な歴史的記録に基づいた肖像ではないとされている人物です。なぜなら、聖徳太子の生涯があった飛鳥時代には、実際の肖像を描く習慣が日本にはなく、肖像画は後の時代になって創作されたものが多いからです。実際には聖徳太子の外見に関する詳細な記録は残されていません。
この画像が聖徳太子ではないとされる理由の一つは、描かれている衣装や髪型が、聖徳太子が生きていた時代よりも明らかに後の時代、特に平安時代の風俗に合致しているからです。また、聖徳太子が実際にどのような容貌だったかについては史料が不足しているため、こうした肖像は想像力に基づいていると考えられます。
さらに、美術史や文化史の研究によって、特定の肖像がどの時代のものであるか、どのような文化的・社会的文脈で制作されたかが解明されることもあります。このため、この画像は、聖徳太子の伝説を広めるために作成されたものであり、実際の聖徳太子の姿を正確に伝えるものではないと考えられています。

もともとこの画像の出典はどこなんですか?

この画像は、江戸時代の画家・狩野派の一員であった狩野探幽(かのう たんゆう)によって描かれた「聖徳太子」の絵として広く知られています。狩野探幽は、17世紀前半に活躍した日本の代表的な画家の一人で、狩野派という画派を代表する人物です。狩野派は、室町時代から江戸時代にかけて日本の美術をリードする画派でした。
狩野探幽は特に将軍家や幕府に仕え、多くの公的な建築物や寺院に作品を残しており、そのスタイルは室町時代以来の日本絵画の伝統を継承しつつ、新たな表現を取り入れたものでした。このようにして制作された肖像画は、当時の人々の想像や理想を反映しており、実際の聖徳太子の容貌とは異なる可能性が高いです。
ただし、この絵が狩野探幽の手によるものであるかどうかを含め、多くの「聖徳太子肖像」が実際には後の時代に作成された模写や創作であることが多いため、正確な出典を特定するのは難しいことがあります。それでも、この絵は聖徳太子のイメージとして日本で広く認識されており、教育や文化の場で見られることがよくあります。

いやいや、江戸時代作ではないでしょう?
この絵が記された聖徳太子二王子像は、阿佐太子と言う百済の画家のようですよ。

失礼しました。ご指摘のとおり、この画像は「聖徳太子二王子像」と呼ばれるもので、阿佐太子という百済出身の画家が描いたとされています。これは私の誤りでした。
この「聖徳太子二王子像」は、阿佐太子(あさのおうじ)によって描かれたと伝えられている絵で、実際には飛鳥時代の作品である可能性が高いとされています。ただし、現存する肖像画が本当に阿佐太子の手によるものかどうかは明確ではありません。また、この画像は後の時代の複製である可能性もあります。
阿佐太子が実際に存在した人物かどうか、また彼の作品がどの程度現存しているかについてもはっきりとした証拠は残されておらず、歴史学的な議論の余地があります。美術史的に重要なのは、このような絵がどのような文化的背景のもとで制作され、どのように伝えられてきたかという点です。聖徳太子の肖像画は、多くの場合、後の時代の人々が聖徳太子に対して抱いたイメージや敬意を反映したものと考えられます。

一応、画のタイトルには「聖徳太子」と記述してあるのですね?

この画像に「聖徳太子」というタイトルがつけられているのは、歴史上の人物・聖徳太子を表していると一般に理解されているからです。しかしながら、その絵が本当に飛鳥時代の聖徳太子を正確に描いたものかは、歴史的な証拠が不足しているため、確定的には言えません。
古い絵画の多くは、後世になってから名付けられたタイトルを持っており、それが必ずしも当時の制作者の意図を反映しているとは限りません。特に、聖徳太子に関しては、その実像よりも後の世代が彼に抱いた理想やイメージが絵画に反映されていることが多いです。したがって、このような絵画は聖徳太子の神格化や理想化を示す文化的アイコンとしての価値を持ちますが、それが聖徳太子の実際の姿を忠実に伝えているかは疑問です。

横に控える2名は誰かわかっていますか?
厩戸皇子は、聖徳太子本人ですよね?

画像に描かれている横に控える2名の人物についての特定は難しいですが、一般的に「聖徳太子二王子像」と呼ばれる絵画では、聖徳太子(厩戸皇子)とともに描かれる人物として、彼の弟である山背大兄王と甥の穴穂部皇子(いなほべのおうじ)が挙げられることがあります。ただし、これは画像に基づいて特定したわけではなく、伝統的な解釈や画題に基づくものです。
また、厩戸皇子は確かに聖徳太子と同一人物とされています。聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのみこ)または厩戸王(うまやどおう)とも呼ばれ、飛鳥時代に実際に存在した推定される政治家・学者であり、彼の教育的、政治的、宗教的な影響は日本の歴史において非常に大きなものです。

弟のは殖栗皇子では?

ごめんなさい、私の説明が不十分でした。確かに、「聖徳太子二王子像」として知られる画像には、通常聖徳太子の両側に描かれる二人の王子がいます。これらは彼の弟である殖栗皇子(うねぐりのみこ)と、彼の子、もしくは他の関係者とされることがあります。しかし、具体的にこれらの人物が誰であるかは、絵画によって異なることもあり、また、歴史的な文献に明確な記述が残っていないことも多いのです。
「聖徳太子二王子像」において、二人の王子が誰を表しているかについては、伝承や画題の解釈によって異なる場合があります。したがって、殖栗皇子が画像に描かれているとされる場合もありますが、これは解釈によって異なる可能性があります。

では、長男の山背大兄王と弟の殖栗皇子としておきましょう。

承知しました。画像の聖徳太子とされる人物の両側に描かれている二人の王子を、長男の山背大兄王と弟の殖栗皇子とする解釈でお話しします。
山背大兄王と殖栗皇子は、聖徳太子(厩戸皇子)の親族であり、聖徳太子が飛鳥時代の日本で仏教の普及や政治改革を行う中で、彼らもまた重要な役割を果たしたと考えられています。しかし、史料が限られているため、彼らの具体的な活動については詳しくは分かっていません。
この絵画は、聖徳太子を中心とした飛鳥時代の政治的権力を象徴しているとも考えられます。山背大兄王と殖栗皇子を描くことで、王族の連帯と威厳を表し、また仏教との深い関わりを示唆しているのかもしれません。それぞれの人物の肖像や姿勢からは、当時の身分制度や礼節を読み取ることもでき、歴史や文化の教材としても価値があります。

この時代を飛鳥時代と名付けたのは、誰で、いつ頃でしょうか?

飛鳥時代という時代区分を名付けたのは、19世紀末に活躍した日本の歴史学者・国学者の黒板勝美です。黒板勝美は、日本の歴史を研究する中で、従来の古代史の時代区分が曖昧であることに着目し、より明確な区分を提案しました。
彼は、「飛鳥時代」という用語を提唱して、奈良時代の前の時代として位置づけました。飛鳥時代は、大体592年(推古天皇の即位)から710年(奈良の平城京への遷都)までの期間を指します。この時代は、日本における仏教の導入や、国家体制の整備が進んだ時期として知られています。
黒板勝美は、この飛鳥時代について研究し、飛鳥文化や飛鳥寺など、この時代の特徴を持つ文化財や史跡に注目しました。彼の提案によって、飛鳥時代は歴史学における一つの重要な概念として広く受け入れられるようになりました。

桃山時代とかも、この人の創作ですか?
黒板勝美が創作した時代名を、古い方から列挙してください。

黒板勝美は日本の歴史時代区分に大きな影響を与えた学者ですが、彼が直接「創作」したというよりは、歴史学における時代区分の整理や提案を行い、その中でいくつかの時代名を明確に定義したり、広く使われるように促したというのが正確です。彼の提案した時代区分には以下のようなものがあります:

  1. 飛鳥時代 - 592年から710年までの期間を指し、仏教の伝来や国家体制の整備が進んだ時期です。

  2. 奈良時代 - 710年の平城京遷都から784年の長岡京遷都までの期間を指します。この時代は、日本が正式に都城制度を取り入れ、文化的にも中国の影響を強く受けた時期です。

桃山時代については、黒板勝美が命名したわけではありません。桃山時代は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康による天下統一の過程と、豊臣秀吉の治世にあたる1573年(室町幕府の滅亡)から1603年(徳川幕府の成立)までの期間を指します。この時代名は、秀吉が京都近郊に築いた桃山城(伏見城)に由来しており、後世の歴史学者によって定められました。
黒板勝美の功績は、これらの時代を含む日本史の体系的な時代区分を整理し、明確化したことにありますが、すべての時代名を彼が「創作」したわけではありません。特に、飛鳥時代や奈良時代の区分は、後の歴史学の発展において重要な役割を果たしました。

現在、歴史教育で一般的とされる「時代名」を古い方から列挙してください。

日本の歴史教育で一般的に扱われる時代区分を、古い順に列挙します。なお、これらの時代名はあくまで便宜上の区分であり、時代の移り変わりは徐々に進むもので、厳密な境界線があるわけではありません。

  1. 縄文時代 - 約1万年前(紀元前10,000年頃)から紀元前300年頃

  2. 弥生時代 - 紀元前300年頃から紀元後300年頃

  3. 古墳時代 - 3世紀後半から7世紀後半

  4. 飛鳥時代 - 592年から710年

  5. 奈良時代 - 710年から794年

  6. 平安時代 - 794年から1185年

  7. 鎌倉時代 - 1185年から1333年

  8. 室町時代 - 1336年から1573年

  9. 安土桃山時代 - 1573年から1603年

  10. 江戸時代 - 1603年から1868年

  11. 明治時代 - 1868年から1912年

  12. 大正時代 - 1912年から1926年

  13. 昭和時代 - 1926年から1989年

  14. 平成時代 - 1989年から2019年

  15. 令和時代 - 2019年から現在

このリストは、日本の歴史を大きく分けた時代区分です。学問的な研究や具体的な文脈に応じて、これらの時代をさらに細かく分けることもあります。また、これらの時代区分は、主に政治権力の移り変わりや文化的な変遷を基準にしています。


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