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スペインの南米戦略

カラメの戦いについて教えて下さい。

カラメの戦い、または「コンバテ・デル・ドス・デ・マヨ」としても知られるこの戦いは、1866年5月2日に起こり、チンチャ諸島戦争中の出来事でした。この戦いは、アドミラル・カスト・メンデス・ヌニェスが率いるスペイン艦隊と、重要なペルーの港町カラオの要塞化された防衛施設との間で行われました。スペインは戦略的な場所を標的にし、南米での影響力を再び確立しようと試みていましたが、カラオはその強固な要塞と戦略的な位置により重要な対象でした。

戦いの前に、ペルーの大統領マリアーノ・イグナシオ・プラドは、都市の防衛を強化し、重いイギリス製の大砲と2隻の現地製鉄甲艦を配備しました。これは、ペルーの抵抗力と技術的な能力に対する国民の誇りを示していました。スペイン艦隊は鉄甲艦、フリゲート、コルベットで構成され、V字型の攻撃隊形を作り、港の防衛施設を砲撃しました。激しい砲火の交換にもかかわらず、強力なアームストロング砲とブレークリー砲を装備したペルーの砦とバッテリーは攻撃に耐えました。戦いの中で特筆すべき出来事としては、旗艦ヌマンシアを含むいくつかのスペイン船への損害や、両側の重大な損失がありました。しかし、ペルーの防衛は強固で、スペインが目的を達成することはできませんでした。

戦いの結果は、各側から異なる見方がされています。スペインは砲撃を勝利とみなし、沿岸のほとんどのバッテリーを沈黙させたと主張しました。一方、ペルー人はスペインの支配を再び確立しようとする試みに対する成功した防衛として戦いを祝い、沿岸防衛の効果的な抵抗とカラオの構造物への損害が最小限であったことを指摘しました。このイベントはチンチャ諸島戦争の終わりを示し、スペインと南米の歴史の中で重要な意味を持ち、この地域でのスペインの影響力を回復しようとする試みの終わりを象徴しています。

この戦いはペルーの抵抗力とカラオの戦略的重要性の証であり、19世紀中盤の海戦の進化と、鉄甲艦や現代の大砲の使用を示しています。

当時の南米における欧州諸国の介入状況はどうだったのですか?

当時の南米でのヨーロッパ諸国の介入は、主にスペインとその旧植民地との間の紛争、すなわちチンチャ諸島戦争に関連していました。この戦争は、スペインがペルー沖のチンチャ諸島を占領したことから始まり、ペルー、チリ、エクアドル、ボリビアが関与しました。スペインは、イサベラ2世の下でその影響力を再び南米に拡大しようと試みましたが、この地域の国々はすでに独立を達成しており、その試みに抵抗しました​​。

ヨーロッパ諸国、特に英国とフランスは、この地域での商業的利益を持っていたため、この紛争に関心を持っていました。彼らは直接的な軍事介入は避けましたが、外交的には関与し、時には調停者としての役割を果たすこともありました。英国とフランスの艦隊は、特にバルパライソやカラオのような港での戦闘を観察していましたが、公式には中立を保っていました。

この紛争の結果、スペインは南米での拡大を果たすことができず、1879年の平和条約によってペルー、ボリビア、チリ、エクアドルと和平が結ばれました。これにより、チンチャ諸島戦争は終結し、スペインによる南米への再植民地化の試みは終わりました​​。

この時期のヨーロッパ諸国の介入は、主に外交的な影響力と商業的利益に関連しており、直接的な軍事介入は限られていました。南米の国々は、独立を守り、地域内の紛争を自らの手で解決する能力を示しました。

スペインは現在、植民地や信託統治はありますか?

スペインは現在、海外領土を持っていますが、これらは伝統的な意味での植民地や信託統治地域ではありません。スペインが保有する主な海外領土には、アフリカ北部のセウタとメリリャの2つの飛び地が含まれます。これらの飛び地は、長い歴史と植民地時代の名残を持っており、スペイン領であり続けています。さらに、スペインはカナリア諸島、バレアレス諸島、および他の小さな島々も保有しています。ジブラルタルに関しては、スペインは領有権を主張していません。ジブラルタルは1713年のユトレヒト条約により永久にイギリスに割譲されました​​​​。

ポルトガルはどうでしょう?

ポルトガルは現在、伝統的な植民地や信託統治地域を持っていませんが、かつての広大な植民地帝国の歴史があります。この帝国は1415年にアフリカのセウタを占領したことから始まり、1999年にマカオの主権を中国に移譲するまで続きました。ポルトガルの植民地帝国は、アフリカ、南米、アジア、オセアニアなど、世界中に拠点を築きました​​。

アフリカにおいて、ポルトガルはアンゴラ、モザンビーク、カーボベルデ、ギニアビサウ、サントメ・プリンシペ、赤道ギニア、および現在のガーナの一部を含む多くの植民地を設立しました。北米では、15世紀にニューファンドランドとラブラドールを探検し、カナダに一時的な植民地を設立しましたが、これらは約1世紀で放棄されました。南米では、ブラジルがポルトガルの最も重要な植民地となり、1822年に独立するまでポルトガルの統治下にありました。アジアでは、インド、インドネシア、東ティモール、マカオ、スリランカに植民地を設立し、ポルトガルの影響は1999年まで続きました​​。

ポルトガルの植民地帝国は、地理的、政治的、経済的に世界中に大きな影響を与えましたが、現在ポルトガルが統治する植民地や信託統治地域は存在しません。ポルトガルの過去の植民地は、多くが独立国となり、ポルトガルとは異なる発展を遂げています。ポルトガル自体も、植民地時代の遺産とその後の歴史の影響を受けながら、現代の民主的な国家として発展しています​​。

アルマダ海戦の影響が大きいのでしょうかね?

1588年のスペイン無敵艦隊の敗北は、イングランドにとって大きな影響を与え、世界的な大国としての将来を形作るとともに、そのプロテスタントのアイデンティティを固めました。アルマダの失敗は、ヨーロッパにおけるスペインの複数の戦略目標の達成を阻止し、特にイングランドにおけるカトリックの再導入と、スペインに対するオランダの反乱支援の停止を妨げました。スペイン無敵艦隊は、フェリペ2世スペイン王によって派遣された強大な艦隊でしたが、優れた海軍戦術を駆使し、スペイン艦隊を苦しめた英国海軍によって迎え撃たれました​​​​​​。

アルマダの敗北は、イングランドにおける宗教的風景に深い影響を与えました。アルマダの失敗により、プロテスタントが国教として確立され、カトリックの影響力が低下し、イングランドのアイデンティティがプロテスタントの価値観と強く結びつくことになりました。この変化は、イングランドの社会と政治に長期的な影響を与え、英国民の間に統一感と国民的誇りを醸成しました。イングランドを「選ばれた国」と見なす考え方が広まり、特に17世紀と18世紀に英国の力の成長に寄与しました​​。

さらに、アルマダの敗北は、海軍史の重要な転換点であり、イングランドが重要な海軍大国としての地位を確立する上での一因となりました。アルマダの直後に英国が支配的な海洋勢力として確立されたわけではありませんが、英国海軍の拡大と近代化への基盤を築きました。この発展は、イングランドが北米における植民地を確立し、イーストインド会社などを通じて全世界の貿易ネットワークを拡大する上で、後の成功に不可欠でした​​。

要するに、スペイン無敵艦隊の敗北は単なる軍事的勝利以上のものであり、イングランドの国民アイデンティティ、宗教的指向、および世界的野心を形作る転換点でした。この出来事は、イングランドの政治、社会、経済の発展に長期にわたる影響を与えました。

アルマダ海戦時の英国は女王でしたか?

アルマダ海戦の時期には、エリザベス1世がイングランドの女王でした。彼女は1558年から1603年までイングランドとアイルランドの女王として統治し、その治世はエリザベス朝として知られています。エリザベス1世は、特にスペインとの関係が悪化していた時期に王位にあり、スペイン無敵艦隊の英国侵攻を阻止したことで知られています。この海戦は、1588年に起こりました​​​​​​。

スペインと険悪であった理由は、カソリックとプロテスタントの違いだけでしたか?

スペインとイングランドの関係が険悪になった理由は、カトリックとプロテスタントの宗教的対立だけではありませんでした。宗教的な違いは確かに重要な要因でしたが、その他にもいくつかの要因が関係していました。

  1. 政治的野心: スペインとイングランドは、ヨーロッパおよび新世界における支配的な勢力として競合していました。スペインはハプスブルク家の広大な帝国の一部であり、ヨーロッパで大きな影響力を持っていました。イングランドは、自国の政治的・経済的影響力を拡大しようとしていました。

  2. 経済的競争: 新世界からの豊富な資源を巡る競争も両国間の緊張を高めました。特にイングランドの海賊行為、例えばサー・フランシス・ドレイクによるスペイン船への襲撃は、スペインにとって大きな損失であり、両国間の緊張を一層高めました。

  3. 対外政策の違い: イングランドはオランダの独立戦争でオランダを支援し、スペインと対立する側に立ちました。これはスペインの覇権に対する直接的な挑戦と見なされました。

これらの要因はすべて、スペインとイングランド間の対立を激化させ、最終的には1588年のスペイン無敵艦隊の失敗につながりました​​​​​​。

ザクにやられる連邦軍

スペインの敗北の直接的な理由は何だったのでしょう? 兵力的には、スペインが勝っていましたよね?

スペイン無敵艦隊の敗北の直接的な理由は複数あり、兵力だけではなく戦術、技術、および気象条件など複合的な要因が関わっていました。

  1. 海軍戦術と技術の違い: イングランド艦隊は、より小型で機動性の高い船を使用しており、遠距離からの砲撃に重点を置いていました。これに対し、スペイン艦隊は大型のガレオン船を中心としており、接近戦と船同士の接舷戦を得意としていましたが、イングランド艦隊の戦術に対応できませんでした。

  2. 指揮官の経験不足: スペイン艦隊の指揮官、アロンソ・ペレス・デ・グスマン(メディナ=シドニア公)は、海軍の経験が乏しかったため、作戦遂行において重要な判断ミスを犯しました。

  3. 気象条件: スペイン艦隊は悪天候により大きな損害を受けました。特に、カレー沖での火船攻撃後に発生した強風はスペイン艦隊を北海へと追いやり、帰路において多くの船が難破しました。

  4. 火船の使用: イングランド艦隊は火船を用いてスペイン艦隊を攻撃し、パニックを引き起こしてスペイン艦隊の陣形を乱しました。これにより、スペイン艦隊は分散し、組織的な行動が取れなくなりました。

  5. スペイン陸軍との連携不足: スペイン艦隊は、イングランド侵攻のためにフランドルのスペイン陸軍と合流する計画でしたが、その連携はうまくいかず、イングランド上陸のための軍を運ぶことができませんでした。

これらの理由により、兵力で勝っていたスペイン艦隊は、イングランド艦隊に敗北しました。スペイン艦隊の失敗は、イングランドの海軍力と国家としての地位を高める結果となりました​​​​​​。

世界初の金属で出来た戦艦は、どこの国のなんだったのですか?

世界初の金属製の戦艦は、フランス海軍が1859年に進水させた「グロワール」(Gloire)でした。これは、木製の戦艦が爆発性または焼夷性の砲弾に対して脆弱であることが明らかになったことを受けて開発されたもので、鉄または鋼の装甲板で保護された蒸気推進の戦艦でした。しかし、イギリス海軍はこれに対抗して、世界初の完全な鉄製船体を持つ戦艦である「ウォーリアー」(HMS Warrior)とその姉妹艦「ブラックプリンス」(HMS Black Prince)を建造しました。これらは、フランスのグロワールに対抗して造られた、初の装甲板を備えた鉄製船体の戦艦でした。ウォーリアーは1859年から1861年にかけて建造され、活動的なキャリアをチャンネル艦隊で過ごした後、1873年に更に能力の高い「デヴァステーション」(HMS Devastation)が就役したことにより、時代遅れとなりました​​​​。

これらの戦艦は、木製の戦列艦が主流だった時代に革命をもたらし、その後の海軍建造の基準となりました。戦艦の設計は急速に進化し、19世紀後半には完全に鉄製の船体、回転式砲塔、そして20世紀におなじみの装甲巡洋艦や戦艦へと変化しました​​。

日本の日清戦争、日露戦争で戦った船は、英国製でしたか?

日本の日清戦争と日露戦争で使用された戦艦の多くは、実際にイギリス製でした。特に日露戦争の際には、イギリスから購入または建造された艦船が日本海軍の重要な部分を占めており、この技術移転とノウハウの共有が日英同盟(1902-1922年)の期間に行われました​​。

逆に、清やロシアの船は、どこの製造でしたでしょうか?

清国とロシアの船は、様々な国から購入されたり、国内で建造されたりしました。清国海軍は、ドイツ、イギリス、フランスなどから戦艦を購入しました。一方、ロシア帝国海軍は、主に国内の造船所で戦艦を建造しましたが、一部の船は外国、特にフランスやドイツの造船所で建造されたものもあります。日露戦争時、ロシアはバルチック艦隊を極東に派遣しましたが、この艦隊にはロシア国内で建造された艦船が多数含まれていました。

日本海軍は、英国からの技術移転の賜ですね。

はい、日本海軍は英国からの技術移転を受け、近代化と強化を遂げました。日英同盟の期間中に、イギリスの造船技術や海軍戦術などが日本に伝わり、日本海軍の発展に大きく貢献しました。

でも、ロンドン条約で、ごっそり削られてしまいましたが、この制限は何に基づいて決められたのでしょう?

ロンドン海軍軍縮条約に基づく制限は、主に軍艦の保有量や艦種ごとのトン数などを定めることによって、各国間の軍拡競争を抑制し、平和を維持することを目的としていました。この条約は、各国の海軍力のバランスを考慮して決められ、日本を含む主要国が条約に署名しました。

条約参加国に平等に制限されましたか?

ロンドン海軍軍縮条約での制限は、参加国間で完全に平等ではありませんでした。条約では、各国の海軍力に関する相対的な比率が設定され、特に主力艦に関する保有制限が異なっていました。米英はより多くの艦艇保有が許され、日本はこれらの国に比べて少ない保有量に制限されました。この不平等は、日本国内で不満を引き起こし、後の国際関係に影響を与える要因となりました。

その後、日本は条約等を破棄しましたか?

はい、日本は最終的にワシントン海軍軍縮条約やロンドン海軍軍縮条約などの国際的な海軍軍縮条約から脱退しました。これらの条約での制限に対する不満が高まり、日本が自国の安全保障と国益を守るためにより自由に行動することを求めた結果です。詳細は専門の歴史資料や書籍でご確認ください。

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