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出逢いと旅立ちの追憶

2024年3月20日、妻の尚美が天国に旅立ちました。

尚美の「人となり」をお伝えしようと葬儀の前の晩に書き上げた冊子をお配りしたところたくさんのメールやお手紙を頂きました。
また葬儀にお越しいただけなかった方からも「読みたい」とのお話を頂きましたので少し加筆の上でここに掲載することにします。

泉 尚美(旧姓 宮井 尚美)  享年62歳。

出会い・・・・・


尚美との出会いは1979年に就職した電機メーカー(現・富士通ゼネラル)でした。
私は大卒、尚美は高卒で四歳違いの同期の新卒社員として出会い、半年後の配属先が同じ秋葉原の営業所だったこともあり1979年の暮れ頃から仲良くなり付き合いが始まりました。
出会った頃は「いつも伏し目がちの静かで控えめな女の子」という印象でしたが、同期でいつも一緒にいた女性が真反対の明るく元気で押しの強いタイプだったので陰と陽の対比で余計にそう見えたのかもしれません。

入社して半年くらいは毎日家に帰ると不安と緊張疲れで泣いてばかりいたそうです。
それを乗り越えられたのは子供の頃から不安になると必ず「大丈夫だよ」と力づけてくれたお父ちゃんの言葉だったと後に聞きました。
その「大丈夫」という言葉が心配性で気の小さい彼女の口癖となりどんな事も乗り越えられる強さの基になっていたのだと思います。
また一本気で曲がったことが大嫌いで間違ったことにはどんな相手でも突っかかっていく下町の職人気質だったお父ちゃんの性格はそのまま尚美に引き継がれていたようです。

二人で渋谷の天狗(居酒屋)で良く飲んだけれどお金がなくていつもオニオンスライスとホッケばかり食べていたこと...
ドライブに行くとソフトボールよりも大きな通称「町屋おにぎり」を作ってきてくれて毎回大笑しながら食べたこと...
伊豆半島の一周旅行に行って食べた巨大な絶品エビフライのこと...
丹沢の沢登りに連れて行き地下足袋と草鞋を履かせて滝つぼを泳がせ滝を登らせたこと...
伊豆高原の海岸でザイルつけて岩登りもさせたこと...
亡くなる前もそんな思い出話して笑いました。

正月には初詣だとお洒落をしてきた尚美を大山初詣に連れて行き、ケーブルカーに乗らず山道を歩かせた上に帰りのバスが混んでいるからと伊勢原の駅まで歩いて帰らせて...
自分は本当に楽しかった思い出ですが、尚美は足が豆だらけで血がにじむほど歩かされて人生で一番辛い一日だったとのことで
後日娘たちに「父さんみたいな人とは付き合うの止めたほうが良いよ」と話していました(笑)

そんな体験から
最初の大人しそうな印象とは違って食べるのが大好きでどんなところにも着いてきて我慢強くて根性があって明るくまっすぐな女性だと
結婚するならこの娘だと決めました。

約二年半付き合った1982年の三月に三年間務めた電気メーカーを退職することを決め、二年半受験浪人をして税理士試験を二回受験したら就職をして三年後には結婚しようと約束をしました。

浪人期間中は昼間は予備校で勉強し夜はマクドナルドでバイト...一時間でも時間が空くと尚美が住んでいた東京町屋から横浜や予備校の近くに呼び出してご飯を食べて(三回に二回はおごってもらった)食べ終わったら帰らせるという私の好き勝手ペースに文句も言わず付き合ってくれました。
ただ、結婚して何年もたってからあの頃は本当に我慢したから十倍返ししてもらうからねと脅かされました(笑)

この頃から私は自分の好き勝手に生き、尚美がいつでもそれを支えてくれるという二人の関係性が成り立っていたのかもしれません。

結婚・・・・・


二年半の浪人生活を終えて1984年の秋、関内の会計事務所に就職をしました。職員が三~四人の平均的な会計事務所で先生は税務署を途中退官した50代後半の方でした。

就職して半年が経ち仕事も慣れてきて60万円ほどの結婚資金もたまったので1985年の三月に結婚式を挙げました。

その頃は尖りに尖っていた私は「結婚式はお世話になったお客様が主役、自分たちはおもてなしをする立場」「お客様を待たせておいてお色直しなんてもってのほか」「簡素でも自分たちでできる範囲でやればよい、親の支援は受けない」と尚美の希望も聞かず結婚式を取り仕切り...
後日「着物も着たかったよ親不孝しちゃった」とずっと言われることになりました。結婚式のあいさつで「これからは、これが普通だとかこれが当たり前だとか皆がこうしているだとかということではなく、何が大切でどう生きるべきなのかを一つ一つ考え二人でシッカリ生きます」と挨拶したのを覚えています。

ただ後日、私の貯めた60万円と尚美が高卒で働き溜めた200万円を合わせて結婚式をして、頂いたお祝い金の200万円は私の口座に入り独立資金と新車の頭金に変わったことを「なんか不思議だよね」と言いながら「これも十倍返ししてもらうからね」と笑っていました。

新婚旅行はその年の秋に黒四ダムから宇奈月に続く「黒部下の廊下」の日電歩道を歩きました。
登山道の中でも上級者向きの難路で知られる断崖絶壁をくり貫いた道。
思い返すと初心者がよく歩けたものだと思いますが、それ以上に素人をそんなところに連れて行った自分の勇気とアホさ加減に呆れます。

浪人中の二年間で税理士試験五科目中四科目に合格しましたが一科目残ってしまったので休日は図書館通いの受験勉強が続き
一人で家で留守番が多かった尚美は一時精神的に追い詰められて、ある夜一升瓶のワインを一本飲み干し「もう別れる、死にたい」と大トラになったことがありました。 
翌日はものすごい二日酔いで死ぬほど苦しんでいるのを看病しながら「あぁこれで結婚生活も終わりかな」とも思いましたがお互いの気持ちを分かりあえて二人で謝り合ってなんとか乗り越えました。

結婚した年、その翌年と二年続きで最後に残った法人税法が不合格になりましたが、春に長女の遥香が生まれた三年目の1987年に子育ても始まる中で合格することができました。

子供ができると生活も変わり早めに帰宅しては遥香をお風呂に入れたり二人で散歩することに大きな幸せを感じましたが、合格すると仕事も面白くなり脂がのり所長代理として仕事に没頭すると同時に次第に自分なりの仕事に対する欲や目標が膨らみ始めていました。

この頃、夫婦喧嘩をして二回実家に帰ったことがありましたが、二度とも若くて大食漢だった私が尚美が安い給料の中で工夫して買っておいた食材を何日分もいっぺんに食べてしまったことが原因でした。
そのくらい給与も少なく貧乏な生活でした。私に鰻を食べさせたかったのにお金がなく巨大なアナゴを買ってきたら骨だらけで食べられなかった思い出は何十回と二人で懐かしく笑い合いました。
古くて二階のふろ場の水が漏るポロアパート暮らしでしたが可愛い娘に恵まれて一番楽しい時期だったような気がします。

お金も何もなかったけれど夢と希望と若さに溢れていました。

独立開業・・・・・


遥香が生まれてから二年が経ち、いろいろなきっかけが重なって独立開業を目指すこととなり1989年6月1日に独立をしました。

尚美に相談すると「自由にしてください」と一言も反対はしませんでした。ただ「毎月の生活費はくださいね」とのことでした。
その月の18日には次女の悠子も生まれ必死の戦いが始まりました。
  
開業時のお客様が6社、月次顧問料が20万円、毎月の経費が20万円で家に持って帰るお金がない状況で、「貯金はいくらある?」と聞くと200万円とのこと。ならば十か月以内に収入を倍にすれば親子四人で生きていけると覚悟を決めて死に物狂いで働きました。

お金もお客様も実力も経験も人も人脈も...何もないゼロからの出発でしたがかえってそれが自分を奮い立たせ闘争心を掻き立て尚美と娘たちを守りぬこうという覚悟につながりました。

遥香や悠子の出産のときにも私は生まれる直前に駆けつけるまで仕事をしていましたが、父と母が心配して尚美に付き添い助けてくれました。

遥香が逆子で生まれ、看護師さん三人がかりで一人が鉗子で産道を広げ一人が逆子の遥香のお尻を引っ張り出しもう一人が尚美のお腹に跨り遥香を押し出さなければならないような難産で、生まれた瞬間には息が止まり両肩の鎖骨が骨折していたのを注射で蘇生させ生き返りました。
その影響で首が斜頸になり三歳を前に入院して手術とその後何年もの通院が必要になりましたが、その通院も私は最初の一回だけであとは父と母が毎回尚美に付き添ってくれました。

私は仕事に没頭し、娘たちの入学式にも卒業式にも運動会にもほとんど行ったことがなく子育てと家事のすべては尚美任せでした。
ただそれを見た父と母が尚美の面倒を見てくれ尚美も休日は娘たちを連れて実家に行き、いつの間にか両親も本当の娘のように尚美と娘たちを可愛がり、私が行くと邪魔な顔をするほどの本当の親子のようになっていました。

一番忙しかったワタミの経理部長兼務の頃は年間休日5日で毎日18時間働き、それ以外の年も平均で年間休日24日で働き続けました。

その代わりに休みが取れる時には一週間単位で休みを取り家族でキャンプに出かけました、ある年には年間休日20日でそのうち18日をキャンプに出掛けた年もありました。普段一緒に過ごせない分、年に何度かの一週間のキャンプで思い切り遊ぶ...それによって娘たちとの関係性もなんとか保たれていました。

また尚美がそんな父親に一言もグチをこぼさず常に娘たちに
「お父さんはお仕事、子供は遊びと勉強、母さんは皆の世話がお仕事」と言い続けてくれたのが家族が崩壊しない理由でした。

ワタミの経理部長兼務の一年半は朝5時に起きて7時にはワタミに出勤し営業を終えた店長たちが本社に集まるのを出迎え、
夕方8時まで仕事をしてから事務所に戻り9時から12時まで税理士としての仕事をして夜中の一時に家に帰って食べて寝る...
それを月曜から土曜まで繰り返して
日曜日は朝6時から夜12時まで事務所で溜まった仕事を片付ける。
文字通り一日18時間働き続けましたが、尚美は朝は私よりも早く起きて朝食の準備をし夜は私が寝てから寝る。
私よりも遅く起きたことも私よりも先に寝たことも一度もありませんでした。

事務所の創業期は尚美に支えられ尚美がいたからこそ仕事も家族もなんとか形になったのだと思います。
創業期と子育てというダブルの出産にも似た時代を死に物狂いで二人で乗り越えた重たく厳しいけれど貴重な青春の時であったと思います。
 
お互いが平等に自由なことをする今の時代には合いませんが、「私は仕事し尚美は家庭を守る」という昭和的な役割分担が暗黙のうちに出来上がり、その役割分担は尚美がガンを発症するまで独立から約15年間続きました。

癌の発症・・・・・


そんな忙しい日々が続き、事務所も創業期から組織創りをしなければならない時期に差し掛かり自分自身の自己革新が必須の創業とはまた違った大きな壁が迫り始めた2002年のある日...
家族で食事に行ったときに尚美が「なんだか胸にしこりがある」と言い出しすぐに受診を進めた結果、「ステージ3の乳ガン」との診断を受けました。

すぐに右乳房の摘出手術を受けましたが医師から「摘出した乳房の切り口から一ミリのところまで癌細胞が来ていました、100%取り切れたかどうかは保証できません」と宣告されました。

また小学校時代からの親友で東大でガンの研究をしてNTT病院の病理部長になった友人から「どちらにしろ一度ガンになったら完治することはない必ず再発を繰り返す。ただガンで亡くなるか他の病気で亡くなるか寿命が先に来るのかはわからない」と告げられました。 

足元からすべてが崩れ落ちていくような喪失感がありました。
同時に心の底から怒りが湧き上がってきました「神様はなんでこんなに純粋で真っすぐな人にそんな試練を与えるんだろう」と。

尚美が亡くなる一か月前に娘の悠子から尚美へのメールです。

お母さんが最初に癌になった時にもし生きててくれなかったら、ゆうの人生も全然違かったと思う。
お母さんが入院した時家族がバラバラで、父さんは仕事、はるかは受験で部屋に篭ってた。毎日放課後に病院にお母さんに会いに行って、家に帰ると暗くてぐちゃぐちゃの家に一人ぼっちで、お母さんが死んじゃったらゆうも死にたいって思った。
進学・就職の時、実家を出る時、彼氏と別れた時、仕事が辛かった時、出産した時...喧嘩した時もあったけど、お母さんがそこにいていつも味方になってくれたおかけで全部乗り越えられたしいま結婚して幸せな人生になったんだと思う。
辛い治療をしながらも生きいてくれてありがとう。
ゆうもお母さんみたいなお母さんになるよ。
ゆうのお母さんがお母さんでよかったよ。
本当は動けるうちにもっと旅行にも買い物にもランチにも行けばよかったと思うけど、お母さんが出かけられなくなってもゆうが会いに行くからね!話すだけでも一緒にテレビ見るだけでも良いよ!いまもこれからもその時できることを一緒にしよう。
息が苦しかったり、今までできたことができなくなってしんどいと思うけど、こうゆう時ぐらい家族を頼って何でも言ってほしい。できることは何でもするからね!
お母さんが大好きだよ!

どれだけ尚美が家族の真ん中で家族を支えていてくれたのかが分かります。   


右胸とリンパ節の切除手術が済み右腕が痛くて動かせない尚美を手伝いスーパーに買い物に出かけたときに「父さんと結婚して17年経つけど一緒にスーパーで買い物するのは初めてだね。病気になるものちょっといいことあるね(笑)」と言われたときに...
「あぁ、尚美の病気はすべて俺の責任だ」と思い知らされました。

結婚して夫婦二人でスーパーで買い物をする...
そんな一番当たり前の幸せも与えてやれず、結婚する前から勉強、仕事と自分のやりたいことだけを好き勝手にやりたいだけやり続けて自分がちょっとは自己実現をしているかのような気になっていたけれど
そのすべては尚美が支えてくれていた...
結局は尚美の手の上で遊ばせてもらっていただけだった...
そう気づかされました。

自分の生き方を変えることを決意しました。
そして週末は必ず休みを取り家内と過ごすことにしました。

これだけ働いたんだから老後は二人で田舎に住んでのんびりと暮らしたいと思っていましたが、尚美がいついなくなるか分からないのならいつそうなっても後悔しないような生き方をしようと。

週末森暮らし・・・・・


2004年6月、二人の週末森暮らしをスタートしました。
 
高校生の頃から通い続けた八ヶ岳、山で逝った友人との思い出の八ヶ岳、娘たちが小さいころから何度も旅行した八ヶ岳...その中腹に小さいログハウスの山小屋を建てました。
高校生の頃「いつかこの八ヶ岳高原美術館の裏山の森の中に家を建てて暮らそう」と思った通りの場所でした。

注文してから家が完成するまでの一年間、二人で森に通っては少しづつ家が出来上がっていくのを見てワクワクし...
家が完成すると何もない部屋で二人で寝袋で泊まり込みながら一つ一つの家具を選んで買い足して...
庭に植える樹を選びに植木屋さんをはしごして、二人で土を掘り木を植え花を植えて...
炎天下の青空の下で石を運び道を作り、木を伐り畑を作り、草を刈り、落ち葉を運んで堆肥を作り...
庭で焚火をしてバーベキューに舌包みを打ち、冬は薪ストーブ料理で温かいものをたくさん食べ...
秋には錦秋の森を散歩してキノコを採り、春には新緑の森でワラビやタラの芽やコシアブラを摘み...
必ず二人で買い物をして長野の初めて見る美味しい野菜や肉を二人で料理して食べて...
長野を起点にあちこちと旅行に出かけて美味しいものを食べ歩き素晴らしい景色を堪能して...

週末ごとに夢のように楽しい時間を過ごしました。
ほとんど二人だけで年間60~80泊、二泊三日を3日間と数えると一年の三分の一は森の家で過ごしたことになります。
そんな二人の森暮らしもこの春で20年を迎えます。

海外旅行・・・


忙しくて仕事漬けで尚美が四十台半ばになるまで一度も海外旅行にも連れていくことができませんでした。

自分の仕事の夢のためにすべてをかけて、申告所得が4千万円を超えて税務署の長者番付に載った年もありましたが、創業期の10年で三回のМ&A、四回の事務所引っ越し等々の先行投資を重ね一時期は個人で二億円近い借金もしていて、実際には尚美に月々30万円以上の給与を渡したことはなく、海外旅行に行く余裕もありませんでした。

そんな時、2007年の日本М&Aセンターの国際会議の会場が遥香の留学先だったニュージーランドに決まり、他の先生達からもぜひ夫婦同伴で一緒に行きましょうとのお誘いもあり尚美を同伴することにしました。

オークランドのホテルで遥香と待ち合わせて一緒に旅をした記憶は尚美にとっても「今まで一番素敵な旅行先はニュージーランドだったよ」と言わせるほど楽しい旅でした。

もちろん尚美の旅行代や二人のオプション旅行代は経費にならず自己負担でしたが翌年の法人化をにらんで個人の借金もなんとか減らしやっと余裕もでき始めた頃でした。

それを皮切りに、中国やスペイン、スイス、ニューヨーク、ローマ、シンガポール、スリランカ、ロサンゼルス、メキシコ・カンクン、ドバイ、ハワイ、パリ...と毎年国際会議に参加して全国の税理士さんや奥様とも仲良くなり尚美にとっては人生でも一番楽しい時間となりました。
  
特に最後に行った2019年のパリでは二人で凱旋門を散歩して、オプションで行ったモナコとニースでは尚美は一人で一日街を散歩して買い物をして歩き回り「ニースの街ならガイドもできるよと言うくらい気に入ったようでした。
明るい日差しの南仏で人生最高の旅をしました。

フランス ニースの街にて

国際会議以外にも二人でグアムに行ったり、娘の悠子とグアムや韓国旅行もしました。
悠子との旅行は美味しいものを食べ歩く楽しい旅で後日何度も「幼稚園に勤めて夏休みも春休みもあったんだからもっと悠子と旅行に行っておけばよかった」と悔やんでいました。

遅ればせながらの四十代後半からの海外旅行でしたが楽しい
思い出をたくさん作れたのだと思います。

また、2011年には最初の乳癌手術から十年を迎えられたことを記念して二人で東南アジアの最高峰のボルネオ島のキナバル山(4095m)に登りました。事前に八ヶ岳や富士山に登り練習をしていきましたが、富士山よりもずっと高い山で高山病になり一歩が10cmしか進めないで幻覚を見ながらも根性で登頂を果たし、下山後はボルネオのきれいな海で遊んだのも良い思い出です。
さらに2017年にはオーストラリア・タスマニアのオーバーランドトラック70キロのトレッキングに出かけ、蛭に食われ野生のウォンバットに出会いタスマニアンデビルを観ながら完歩した感動的で素敵な旅をしました。

  
そんなガンを忘れるような元気な尚美に少し安心して2018年には尚美の許可をもらい念願のチベット側エベレストに出かけました。
8000mで心筋梗塞を発症し奇跡的に生きて帰ることができましたが、マイナス20度の真っ暗な氷河の上を独りぼっちで歩きながら思い浮かんだのは尚美の笑顔でした。

ガンの再発・・・・・


そんな楽しい日々に癌のことも忘れそうになっていた2020年、腰骨に癌が転移しているのが見つかり抗癌治療を始めると2021年には左乳房に新たなガンの発症が認められました。

何度かのガンの転移による放射線や抗癌剤の辛い治療を乗り越えてきましたが、度重なる抗癌治療により身体中の臓器が弱り年齢による免疫力の低下もあり...
最初の発症から約20年が経ちいよいよ厳しい状況が近づいてきたことを感じました。

左乳房の切除が済むと翌年2022年には20年前に切除した右胸のリンパ近くにもガンが転移したらしく右腕がリンパ浮腫で動かなくなり痛みが出るようになりました。
また、肺にも転移がみられて、いよいよ骨以外の臓器にもガンが広がり始めていることが確認されました。

そんな中でも2022年には次女の悠子が結婚して天子のように可愛い女の子が生まれました。
尚美も最後の最後まで「女の子は可愛いね」と言いながら孫の栞那の動画を見るのを楽しみにして苦しさに耐えていたようです。

これらの尚美の病状の進展をあらかじめ予測し、また、90代になった父母の介護も予測されたので私は通常よりも五年、十年早く2018年には代表を承継して介護に備えていました。

このころから年々少しずつ身体が弱り始め2021年の夏には孫たちと山登りをして遊べたのが、2022年の夏には山登りはできず川遊びだけ一緒にし、2023年の夏はゆっくりしか歩けず遠くから見ているだけになりました。

この頃、日々弱っていく尚美の治療についての方針を決めました。

①痛く苦しい思いはさせない
もう発病から22年、何度もつらい抗癌治療を乗り越えてきた。
身体中に転移して回復の見込みがないのならもう痛い苦しい思いだけはさせないようにする。
燃え尽きようとしているロウソクの炎にガソリンをかけたりバナーで火をつけるような無理な延命治療が苦しみと痛みを与える原因になる。
それは残される者の未練でしかない。
自然に燃え尽きようとしている炎を静かに寄り添い見守るのが残される者の役割だと思う。
②独りにしない
隣でどんなに心配して嘆いても苦しみも痛みも恐れも代わってやることはできない。
人は一人で生まれ一人で死んでいく。
できることは自分の与えられた命をまっとうする姿を隣で最後までキチンと見届けることだけ。
吹雪の中で倒れた友を置き去りにすることはできない。命尽きるまで戦い抜いたことを見届けるのがザイルパートナーの役割だ。
弱っていく姿を見ているのは辛い施設に預けて逃げ出したいと思ったこともある。でもそれは卑怯だ。苦しみと恐れを代わることはできなくても全身で受け止めることはできる。
最後まで隣にいること、それが残される者の責任なんだ。
最後まで淡々と暮らす
最後まで二人で静かに淡々と暮らしていこう。
二人で食事を作り、テレビを見て笑い、窓から差し込む陽光に春を感じて、若かった頃や子供たちの昔話に笑い合い、孫の話をする...
そんな一番当たり前の小さな日常の幸せを大切にして最後の日々を送ろう。人生は旅だ。晴れた日も雨の日も雪の日もあったけれど二人で歩いてきた日々は確かなものだ。
手をつないでどちらかが倒れるまで淡々と旅を続けよう。
そして一人になったら、深呼吸して遠くの辿りつくことのない山を目指しまた歩き続けよう。
それが残される者の在り方だと思う。

2023年になるとリンパ浮腫の腕が重くベッドでは寝られなくなりソファーに寄りかかりながら寝るような状態になりました。
介護用のベッドを買うことを提案しましたが病状が安定しないからソファーで寝ると言い張り、結局亡くなる直前まで一年以上ソファーで寝ていました。

そんな中、2023年の夏には私の口腔癌が見つかり手術と一ヶ月近い入院が必要になりました。
尚美は重たく動かない腕をかばいながらも一日も欠かさず仕事帰りに見舞いに寄ってくれましたが、この無理がさらにリンパ浮腫を悪化させてしまったのかもしれません。

私が退院したころにはリンパ浮腫により腕がほとんど動かなくなり、今度は私が先に帰宅しバスの到着に合わせてバス停で待ち合わせて一緒に買い物をし毎朝腕のマッサージをしました。

最後の治療・・・・・


2023年の秋から暮れにかけてだんだん咳も激しくなりましたが医者の怠慢で検査をせず「乾燥しているせいでは」と言われながら抗癌治療を続けていました。

9月には一人で通勤し私の見舞いもできたのが
10月には一人で買い物袋が持てなくなり一緒に買い物をするようになり
11月には息が苦しくてバスで通勤するのが難しくなり朝晩の送り迎えが欠かせなくなり
12月にはランチに外出するのが難しくなりました。
  
2024年の正月、森の家で過ごしている元旦の夜に息が苦しくて横になれず座ったままの状況を見て諏訪の赤十字病院の緊急外来に連れて行くと当直の研修医がレントゲンを撮り「肺に水が溜まっていますね、主治医の先生は何とおっしゃっていますか?」と...
「乾燥のせいではと言っています」と答えると絶句。

翌日緊急で横浜に帰りみなと赤十字病院で診察を受けると即入院となりました。
もっと早く肺に水が溜まっているのが分かれば抗癌剤の変更等も早くでき体力に余裕があるうちに治療が進められた可能性もあると思うと残念でなりませんでした。
  
退院後も通院で抗癌治療を続けましたが、免疫力や体力が落ちていることもあり抗癌剤の副作用に耐えられず何度か治療が中断しました。

どんどん肺に水が溜まり2月の中旬にはケアセンターで車椅子を借りて利用するようになり医者の勧めで介護認定を受けて介護ベッドと酸素吸入器の導入もしました

この頃から日に日に体が弱っていくのが分かりました。

暮れまではゆっくり歩けば一緒に買い物に行けたのがある日からは歩くのが辛くて私が買い物に行くようになり、最初は酸素を吸いながらも炊事や掃除をしていたのができなくて座っているだけになり、トイレには歩いて行けたのがベッドからトイレまでの数メートルを車椅子で移動しなければならなくなり...
 
でも老々介護をしながら毎日「これを食べさせよう」「これなら喜ぶかな」と買い物をして尚美に食べさせたり、車椅子を押したり、すっかり髪の抜けた頭を撫ぜて「マルコメ君おはよう」とからかったり、そんな一瞬一瞬が愛おしく大切で...このままでも良いから永遠に一緒に居たいと神様に祈りました。

そして本人は最後まで希望を捨てずに頑張り毎日仕事に行きたいと言うので朝夕の送り迎えをし、最後は携帯型の酸素吸入器を持ち車椅子に乗せて送り迎えをしました。

三月の頭には医者から「余命二か月」との説明を受けましたが身体の弱り方からみて動けるのは今月中かな?という予感がしました。

できれば満開の桜を二人で観たい、3月24日の結婚記念日には家族で旅行をしよう...と計画していましたが叶いそうもないと思い、娘たちに声をかけて3月2日~3日で伊豆高原の温泉に出かけました。
急な計画でしたが奇跡的に家族全員が揃い、貸切風呂で尚美をゆっくり温泉に浸からせ身体を洗ってやり、皆で美味しい懐石料理を食べ、上の孫が尚美の車椅子を押し下の孫が笑いを振りまき、本当に素敵な旅ができました。これが尚美の人生最後の旅になりました。

最後の旅行

旅立ち・・・・・


3月15日の金曜日の診断で、急激な体力の低下により即効性のない抗癌剤では効果が期待できないので治療を中止して緩和ケアに専念したほうがよいとの診断を受けました。

まだ回復するつもりでその週も二回午前中だけでも仕事にも通っていた家内ですが、もう治療ができないという診断を聞いて急に生きる気力が弱くなったようでした。

土日は娘たちが会いに来た賑やかさに紛れて娘の買ってきた肉まんや餡まんを食べたり、身体を拭いてもらったりしましたが · · ·日曜の夜からはほとんど何も口にしなくなりました。

日々弱っていく尚美...彼女の前では笑顔でいると決めていたのですが思わず涙が溢れそうになると急いでキッチンで洗い物をしながら泣きました。
でもそんなことも家内にはすべてお見通しだったようで · · ·
息が苦しくて丸まりながらも「父さん、リンゴが食べられて良かったとか、身体拭いてもらってさっぱりしたねとか、そのたびにすぐ泣くんだよ。大丈夫かね、こんな父さん一人残して心配だよ、本当にごめんね、頼むね」と陰で娘たちに頼んでいたらしい。
そんな強さを持った尚美でした。

日曜の朝「父さん、もうすぐ立てなくなって迷惑かけるからどこかの施設に入れて」と言い出しました。
また月曜日の朝には長女の遥香に「もうそろそろ終わりにしたい」と呟いたそうです。息が苦しかったのだと思います。

確かに介護のこと終末医療のことを考えるとプロに任せたほうが家内も安心かと最後まで自分で介護する決心を覆し急遽近くのホスピスに入所を決めました。
まだ新設のホスピスで綺麗で簡単なキッチン付で部屋も広く24時間面会可能で付き添いで仮眠もできる快適な施設でした。

火曜日の昼前にホスピスに入所すると同時に酸素吸入器を出力の大きなものに変え酸素量も増やして呼吸も楽になり、午後の介護では明るく優しいプロに手際よく全身を綺麗に拭いてもらい、娘たちが孫と様子を見に来て保育園並みの賑やかさのホスピスだか保育園だかわからない部屋で穏やかな顔でベッドに横たわる家内を見て少し安心しました。

ただ、部屋の外に出て訪問医に心配事について質問すると...
「いくら酸素量を増やして苦しさを紛らわすモルヒネを増やしても肺が水でいっぱいになったら最後は溺死するということですか?」
「確かにそうですが現実には息ができなくて窒息する前に心臓が負担に耐えられなくなって亡くなると思います」
「ということは、肺が水で満たされてしまう前になるべく早く心臓が止まったほうが苦しまないということですね」
「...ハイそうですが全力を挙げてモルヒネ(麻薬)を使って苦しみは取り除こうと思います」とのこと。

夕食が済み娘たちが帰り二人になりました。
「母さん、昨日は眠れなかったから今日はいったん帰るね、明日の朝は早く来るからね」
「父さん、なんだか不安になっちゃったからもう少し一緒にいて」
「あぁ良いよ、大丈夫?苦しいの?」
「痛いところも痒いところもないし苦しいのもないよ。大丈夫」
30分ほどソファーで様子を見ていると穏やかな顔で寝息をたて始めたので、一時間ほど経ったところで起こさないようにそっと部屋を出ました。

それが最後の別れになってしまいました。
ずっと一緒だったのに最後だけ一緒にいられなかった...

夜中の0時ちょうどに電話で「呼吸がない」と告げられ駆けつけるとまだ温かく寝ているような穏やかな顔の家内 · · ·

頬と頬をつけて抱きしめた。
身体中を切り刻まれボロボロになるまで病と戦った身体
何百回も針を刺され採血ができないほど傷んだ血管
すっかり髪の抜けた頭
浮腫になり腫れ上がった腕や脚 · · · 強い人だった。
最後の最後まで「大丈夫」が口癖だった
そして「父さんは父さんの好きなことをして」が口癖だった。

そのすべてが愛おしく可愛いくて...
「よく頑張ったね、ありがとう」
「何もできなくてゴメンね」
 涙があふれる。

亡くなったのは奇しくも尚美の「お父ちゃん」の命日でした。
入院する日の朝、動けなくなった尚美の代わりにお線香を上げて「尚美をお願いします」とお祈りをしました。
きっと苦しまないうちに大好きだったお父ちゃんが迎えに来てくれたんだね。良かった。本当に良かった。
痛くも苦しくもなく穏やかに旅立ちました。

残された者・・・・・


初めて出会ってから45年、結婚してから約40年。
尚美との出会いから別れまでを振り返ってみると
「他人の何十倍も夢のために二人で戦った二十数年...」
「他人の何倍も二人で楽しく生きた後半の二十数年..」.
通算すれば良い人生だったと言ってもらえそうな気がします。

娘二人も立派に育ちそれぞれが結婚して孫も生まれ...
私たちの血と価値観が引き継がれていきます。
「本当に幸せだね何の心配事もないね」と話していました。

人は独りで生まれ独りで死んでいく
出会いの数だけ別れがある
喜びの数だけ悲しみがある
悲しみも別れも豊かな人生の証

尚美にも先に逝った山の仲間にも笑われないように溢れる想い出と愛を小脇に抱えて自分の残りの人生を歩き続けようと思います。
それが残された者の責任なんです。

すべての出会いに感謝。
そして、最愛の尚美に感謝。


伊豆高原 最後のツーショット


 


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