書くということ

あの頃の自分は、書くのが好きだったのか、人に認められたくて書いていたのか、今となっては、分かりようが無い。どちらもであった、な、としか言えない。人に認められるための文章が書けないくせに、自分のことばで受け入れられたい、という依怗があった。ことばに力があると、ことばが良ければ、そこにパワーがあればいいんだと、そう思っていた。もちろん今だってことばの美しさを信じている、けれど、昔自分で言った事がよぎる。わたしのそれは、"におう文章"だった。うつくしさにはうらはらがあってはいけない。切実でなければ美しくならない。美を求める全ての人が尊いのは、そこに美しさへの追求があるからだ。わたしがギリギリで綴った言葉に今も救われ続けるのは、そのせいだ。純度が違う。わたしは、わたしの為にしか書けない。どこかのエッセイに投稿した文章が直されているのを見て、ああ、削がれてしまったと思う。それはわたしじゃない。文筆家はすごいな、あの自分ではない自分の文章を、どうして…。それがより善いカタチなのかもしれないけれど、それが心よりのことばなのだろうか、なんて、思ってしまったりするんだなあ。画家は絵の具の色や針金の角度を指摘されることもあるんだろうか。あるんだろうな。この社会は本当にしがらみが多いものね。
分からないことが多い。29を目前にしても。家族も持てず、お金も持たず、ふらふらと、留年続きの大学生みたいな生活をする自分には、なにも見いだせないのかもしれない。
最近、使命を持つアーティストが美容室をオープンするらしい。心から嬉しいと思った。彼は本当にわたしの希望に合った髪型を、私が喜ぶ形でいつも作ってくれた。彼に出会った頃、わたしは小説家になりたいんだと言った。賞にも応募していた。いまのわたしは、小説家にはなれないと思う。わたしは何もかもを捨てねばそこに集中できないと思うし、それで成せるとも。きらりと光る言葉で文章を描く人がたくさんいるから。でもこうして言葉を連ねると、ああ、書ける、書きたい、と思う。昨日見た夢だって、書けたならどんなに面白いのか。しかし明日にゃ忘れて脱毛にゆくのだ。
わたしは、あの頃のわたしは、書くことで自分の存在を認識し、肯定していた。今は、書かなくなったことを安心しているのかな、こんなにも句読点の位置を気にしているのに?いや、そんなのYouTuberだってツイッタラーだって心掛ける当たり前のことだろう、イマドキ。
でも、書くことは、楽しいね…
こうやって、お金にならずとも、誰に読まれずとも、書くことは楽しんで、生きたい。
わたしの人生は無価値だが、書くことだけはわたしにとってとても意味の深いことで、それだけでいい。
わたしを救ってくれる自分の言葉が、心より大事。それだけで書ける。

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