《仮説》音楽をつくる〈耳〉 マーラー「大地の歌」による〈考察〉あるいは〈変奏曲〉

以下、投稿で書いた「仮説」の概要をまとめました。ただの思い付きのたたき台です。

ぜひご意見や異論・反論・議論を。


1.
マーラー「大地の歌」による〈考察〉あるいは〈変奏曲〉

私はクレンペラー盤も、カラヤン盤も、ワルター盤も、それぞれ美しく聴き通せるのですが、バーンスタイン&ディースカウ盤のように延々ループ再生したいとまでは感じなくて。

それで、一つの仮説にたどり着きつつあるところでした。

つまり、指揮者の耳がボーカル中心に聴いているか、音楽全体で聴いているかで違うのではと。

2.
バーンスタインは、私は昔、彼の現代音楽の交響曲「エレミア」もよく聴いてましたが、基本ブロードウェイミュージカルのジャジーな名曲を作った人ですよね。

つまりボーカル中心。で、そのボーカルが楽器群を突き抜けて聴こえるベルカントをクラシック音楽の彼にはかっこいいと感じる、とか?

3.
それに気付いたのが、X JAPANのTOSHIさんの、音域が近い私にはどうしても到達すべき周波数まで上げ切ってないように、つまり、はっきり言うと世界的ボーカリストに失礼ですが「下手に」聴こえてしまうフラットなボーカルを、なぜ音感がいいはずのピアニスト、YOSHIKIさんが耐えられるんだろうと想像していた時でした。

もしかして、YOSHIKIさんの耳には、TOSHIさんのフラットさがちょうどいい、というか、ピアノの音が相対的に高くなってクラシカルにきらびやかに聴こえ、一方、ボーカルはロックっぽくブルージーに聴こえているのでは?と。

4.
極端な例ですと、ジミー・ヘンドリックスの歌がギターよりハッキリとあえてのフラットなので、私にもギターもボーカルもかっこよく聴こえます。あと、はっぴいえんどの細野晴臣さんの「風をあつめて」もかっこよく聴こえます。これがロックだ、ブルースだと。

で、それが、「ロックやポピュラーミュージック耳」でかつ音楽全体のために、あるいはギターの音が高く聴こるためにはボーカルが楽器群に埋もれて沈んでしまっても構わないという「非=ボーカリスト発想」。

5.
ところが、バーンスタインは、フィッシャー・ディースカウの声が沈まないよう、むしろ楽器群を突き抜けてベルカントの響きを引き立てるために、つまりフィーチャリング・ディースカウ、ウェルカム・ディースカウな音楽にあえてプロデュースして、オーケストラ全体のピッチを意識して下げたのか、もしくは、自然にボーカル中心に聴こえる「プロデューサー耳」なのか。

6.
このロック(ブルース)耳とクラシック耳の横軸と、ボーカル耳と非ボーカル耳の縦軸で区切られる四つの象限のスペクトラムで、どの組み合わせが一番かっこよく聴こえるか、あるいは、音作りとして自然に聴こえるか、で、作り手と聴き手の相性も相まって、複雑なグラデーションをなしているのでは?と、ぼんやり考えているところです。


7.
そして、この投稿に続きます。

バーンスタインと、ウェストサイドストーリーを歌う若きカレーラス!

バーンスタインがシンガーの「声」をいかにリスペクトして、フィーチャーしているかがよく分かる貴重な映像ですね。

タイムラインでのシェアとは違う観点は、私の、というか、私と野村ぜんしょーさんとのやりとりで浮かび上がった仮説、「ボーカル耳」「ギター耳」「クラシック耳」「ポピュラー音楽耳」「プロデューサー耳」に、光を当てて記録するためです。


8.
で、以下がタイムラインにシェアした方のコメントに書いたもの。

バーンスタインが「ポピュラー音楽 "耳"」で、かつ「ボーカルを大切に扱ってくれる」からこそ、平均律ちょいと苦手な私も、クラシックではバッハのほかに、ヘヴィローテーションで繰り返しループ再生しても大丈夫なのが、ドイツシンガーなのにベルカント唱法のバリトン、フィッシャー・ディースカウをフィーチャーしたマーラー「大地の歌」のバーンスタイン盤なのかもしれません。

ここ数日、別のところで、ひとかたならずその、「ボーカル耳」仮説で盛り上がりました。

バーンスタインの「大地の歌」はこちら。

すっかり昔に処分してもアタマの中で鳴り続けているので、もしやサブスクであれこれ探しても見つからないと諦めてたら「YouTubeにありますよ」と教えてくださった方がいて感謝します。(あれ?どなたでしたっけ?身近な人でした。あまりの衝撃でどなたか忘れました。教えてくださった人。あれから聴きまくっています。落ち着くので。)

https://youtu.be/TUYTIQ5kHcw

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