絵画の読解について

読解とは何か。ちょうどいい事例を思いついたので紹介する。

以下に示す絵画は「ドラえもん のび太の宇宙開拓史」(1981)のラストシーンにおける瞬間である。

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B09RBHXZ9P/ref=atv_dp_share_cu_r

問1.この絵画が何を表しているか答えよ。

まずは映画をみていないと話にならないので見たことない者は見てくるように。ドラえもん映画はほんの90分だ。

……。

…………。

……………………見てきたか?言っておくがリメイクじゃないぞ。

画面に写っているものを全て列挙分類する。
まず場所だ。コーヤコーヤ星という、宇宙の遥か彼方にある座標不明の開拓惑星だ。
人物。全員がコーヤコーヤ人であり、右にいる少年はロップルといってこの映画のメイン級だ。隣の少女はロップルの妹で名前を忘れた。ピンクの毛玉はチャミーといって謎生物だ。以上。
静物。明らかにメイン級の物として、上記三人の視線の先に扉がある。扉しかなく、扉に付随してしかるべきものが何もない、変な扉だ。扉の下に咲いているのはコーヤコーヤ星原生の雪の華という花である。おわり。
背景。画面に散らばっている赤や青の丸は雪である。雪は白いはずであるが赤や青をしており尋常でない。積もっているほうの雪は白く結局どっちなんだいと言いたくなるがこのあたりの事情は追って説明する。背景の空も赤と青であり一見して異常な星であることがわかる。
画面にあるものは以上である。

解例1.この絵画はコーヤコーヤ人三名が寒空の下ヘンテコな扉を眺めている異常な場面を表している。
赤点だ。講義の間ずっと寝ていたんだな。表現とは何ぞやがよくわかっていないようだし、従って読解とは何をすればいいのかがよくわかっていないようだ。やりなおし。

上記列挙したものは表象だ。表象は表だって象られるもの、つまりカタチとなって作品上で目に見えている具体的ナニモノカである。りんごが描いてある絵があれば、これはりんごが描いてありますねというのが表象である。これはりんごが描いてあります、つまりりんごを表しているのです。いかにもバカっぽいせりふだ。セザンヌはりんごが上手に描けたで賞をとって有名になったのではないし、藝大生は腱鞘炎コンテストのために石膏デッサンをしているのではない。ものすごく端的に言えばりんごが描いてある絵はりんごの存在を描いているのだ。ではりんごの存在とは何かというと、これも極端に雑に言えば神の与えたもうた奇跡である。りんごがこの宇宙に(そして目の前に!)存在しているという事態のものすごさである。「りんごが存在している!こいつはオッタマゲー!」←このオッタマゲーの部分が表現としては肝心の部分というわけだ。そう考えると静物画のりんごから何やら後光がさしてくるような気持になろう。ならないのならこのりんごはおいしそうですねとか言ってごまかしておけ。
とにかく、表象だけわかっても、それだけでは何もわかったことにならないのだ。ただし「りんごが存在しているぜ!こいつはすげえだろう!」「確かに!りんごが存在してるってモノスンゲー!」←このツーカー同士の間では面倒がいらず、表象から一足飛びに話がつく。ではツーカーではないみなさんは諦めて不貞寝し石膏デッサンで腱鞘炎になればいいのかというとそうではなく、要するにこの「モノスンゲー!」という仰天部分を見つければいいわけだ。これまた雑で全然的を射てない言い方をすると「りんごが描いてある意味を見つけろ」ということだ。見つけると言ってもそんな途方もない話ではなく、必ず近くにある。そして誰にでも見つけることができる。
これを見つけるのが読解である。

つまりこの「表象」たちをそれぞれ「意味」に変換しろということだ。それではやってみよう。ええと、花があったな。確か白百合の花は聖母マリアを表していて……。こんなのは一番やっちゃいけない読解のやり方だ。大方ネットに転がってるアトリビュート事典でも拾って来たんだろう。こんな答えでにっこりしてくれるのは美術教師くらいのもので美術の神は微笑まない。「表象Aは象徴Aを表しています」これを数式に変換するとどうなるか。「1=1」この式には何の意味もない。時間の無駄だ。
「白百合の花は聖母マリアを表しています」この駄文の一体どこに「オッタマゲー!」の要素が含まれているんだ?白百合の花が聖母マリアを表していることなどお前に言われなくとも全宇宙の誰もが知っている。肝心なのは「白百合の花が何故聖母マリアを表すのか」だ。答えは清純だからだ。白百合といえば清らかで穢れなきものであり、穢れなきものといえばマリアだからだ。要はマジカルバナナだ。と言ってもただのマジカルバナナじゃなく、少なからず「おっ」と思うような気の利いた答えじゃないといけない。美術の神は気の利いた、心をくすぐるような解答が聞きたくて美術の神なんかをやっておられるからだ。
例えば君が信心深いものなら聖母マリアが清純派なことなんて親の年齢よりも知っていることだろうから、このマジカルバナナを一手省略できる。そのぶん少しだけ有利だという、それだけのことだ。ところがアトリビュート事典を見てきた君はこの清純派というワードに一生かかってもたどり着けない。況や清純派というワードに興奮することができない。そこにワンダーを感じられないのだ。そもそもの話二つの事象を都合よくイコールでくっつけるなんてそんな便利な話があるわけもなく、表象Aと象徴Aは共通する友人、つまりミスターワンダーの紹介によって渋々ラインを交換する。そもそも表象は意味ではないし、象徴も意味ではない。意味って何か。絵画の、美術の意味って一体なんなのさ。それは心うち震わすことである。我々を感動させることである。表象は、象徴は、画面の奥にある。よってそれらは意味ではない。画面から飛び出してきて、我々の心臓を銅鑼のように打ち鳴らすのはワンダー以外にありえない。だから彼こそが追い求める「意味」なのだ。
ところが君にはワンダーを見つけられない。マリアが清純派であることを知っても、その事実に心が打ち震えることはない。そこには感動がない。だからなにがそんなに凄いのか「意味がわからない」意味が分からずに「意味」が分かるはずもない。ではなぜ君だけがワンダーを見つけることができないのか。その理由はたった一つだ。先にネタバレを踏んだからだ。

君はストーリーをスキップしただろう。

何故私がドラえもんの映画を見てこいと言ったのかが分かったろう。それ以上に、何故私が映画の一場面を切り取ってこれを「絵画」と言い張っているかが分かったではないか。

そうだ、ストーリーを見ずに感動しろと言ったって土台むりな話なのだ。だからストーリーを見ろ。ストーリーの中に答えはある。たったそれだけのことだ。それだけのことが分かってから、最後のステップに入ろう。と言ってももう答え合わせだ。ストーリーをちゃんと見てきた今の君にはもう全部の問題が解けるだろうから。


この扉は何であるか。映画のストーリーを見てきた君ならもう答えられるだろう。この扉はロップル君のカーゴの貨物室の扉であり、その扉は超空間のねじれによって偶然にも何億光年も離れたのび太君の部屋の畳の裏に繋がって、彼らをこの星に導いた。そしてそれ以上に重要なことは、この場面が映画のラストシーンであることだ。これまたストーリーを見てきた者ならわかる通り、映画のラストで超空間のつながりは断ち切られ、扉はただの扉に、畳はただの畳に戻り、コーヤコーヤと地球は二度と往還叶わぬ永久の別れとなった。つまりこの場面の時点で、扉はモノとしてはもはやただの扉、ひしゃげたくず鉄同然の扉でしかない。それなのに三人は扉を見上げているという、そこにこそ「意味」が宿っている。
ここに一つ肉付けを加えよう。映画では別離の場面にて、コーヤコーヤ星を救ったのび太たちを称え、銅像まで建立しようという話まで上がっていた。つまりのび太たちの姿や名前は、星を救ったスーパーマンとしてこの開拓星に、おそらくは永遠に残るであろう(本当に永遠に残るかは置いといて、この場面で言われている意味はそういうことである)。にもかかわらず、ロップル君たちは銅像ではなく、このくず鉄同然の扉を見上げている。そこに託されている意味は何か、もはや問わずもがな答えは明確なはずだ。
ロップル君にとっては、のび太は星を救った英雄なんかではなく、遠い遠い星からやって来たかけがえのない友達だからだ。たとえ二度と会うことがないのだとしても。
さあ、一人目の「意味」を捕まえた。続いて行ってみよう。次は雪の華だ。雪の華はコーヤコーヤに咲く花でこのようにいくらでも咲いている珍しくもなんともない花だがこの映画のストーリーにおいてこの花のもつ意味はたった一つきりだ。「別離に際し、クレムがのび太に手渡した花」だ。足元の畳をじっと見下ろすなんてのは画角的にいかにも様にならない。のび太の側では雪の華こそが彼らとの友情の象徴なのだ。今こそカンニングの時、アトリビュート事典の代わりに「大長編」の宇宙開拓史を引いてみたほうがこの際分かりやすいだろう。

藤子・F・不二雄『大長編ドラえもん2 のび太の宇宙開拓史 』小学館, 2014

映画の方でものび太は部屋に雪の華を飾っており、ちゃんと窓越しに星が映るように置いてあるあたり気が利いている。

映画版ではどちらのカットもセリフがないのがまた気が利いている(それ以上に、映が絵的な読解を要請する芸術である証左にもなっているわけだが)まあそれは置いといて、どちらも言いたいことは同じだろう(というより、この程度の翻訳ですら正確に訳出されないような脆弱な意味ならばそもそも読解の対象として取ることができない)まあそれはさて置いて、要はこの雪の華はのび太の側から見た友情のiconだ。そしてそれと扉とを同じ画面に配置することで、友情のまなざしが一方通行ではなく、双方向であることが示されている。この雪の華はリザーブ(予約)だ。この次のカットで描かれる、のび太の部屋に飾られた雪の華から(あるいは別媒体である「大長編」の一コマから)つまりは未来から意味が投影されている。要するにどういうことか。
この一枚の中に、ロップル君からのび太への友情のまなざしと同時に、この場面にいないのび太からロップル君たちへの友情のまなざしがあらかじめ内包されている。これが「扉と共に描かれる雪の華」の持つ「意味」である。
そしてお待ちかね、マジカルバナナの時間だ。雪といったら?→解ける。こんなことは瞬発で答えなきゃいけない。さて、雪の華が解けるのかは知らない。劇中でも明言されていない。だが雪と言ったら?→解ける。のマジカルバナナは既に劇中で示されている。という具合でうまいことお鉢が回ったので、いよいよ雪の謎を解くことにしよう。赤と青の雪、といっても単純で、コーヤコーヤには赤い月と青い月の二つの衛星があり、赤い月が昇れば赤い夜に、青い月が昇れば青い夜になる。そして一年にたった一度、冬の終わりにのみ両方の月が一時に昇り、紫の光が荒野を照らす紫の夜が訪れる、その光景を私たちは既に目にしたはずだ。コーヤコーヤ暦でちょうど一年前にあたるその夜こそは「雪解け」の大洪水の夜であり、そしてドラえもんとのび太がはじめてコーヤコーヤに降り立った夜だからだ。

赤と青の雪は、あの夜から一年が巡ったことを示している。「一年が経ったということは、一年が経ったのです」例によって「リンゴが描いてある絵はリンゴが描いてあるのです」あるいは「1=1」だ。求めているのはそれじゃない。
「ぐるっと回ってはじまりにぴったり重なった」のなら、それは円環を成したということだ。円環にはゴールはない。サイクルが回ったということは、必然的に次のサイクルが回る。一年が巡ったのなら、その次の一年も巡るし、その次も、その次も……ずーっと巡ってゆくのだ。つまり無限の時間がそこには内包される。厳密にきっかり一年かは分からない。コーヤコーヤ閏年で一日ずれているかもしれない。だがそんなことはどうでもよく、肝心なのは「あの時と同じ」紫の夜が描かれているということだ。(あるいは紫ですらなく、単に赤の夜→青の夜→赤→青→……と繰り返す反復数列を一つの視覚に圧縮したというだけなのかもしれない。しかしその場合も時間の厚みはゼロになり、無限に重ねることができる。)肝心なのは、紫の夜は一年が巡ったことを示しており、それはまたコーヤコーヤに春が訪れること、そしてそうやってはるかに時は流れていくことを示している。つまり描かれているのは一つの瞬間ではなく、無限大の時の流れだ。
雪の華が生態として解けるのかは分からない。だが少なくとも再び雪解けの時が巡り来ることは明確に語られており、そもそも永遠に咲く花というのは常識的にありえない(常識的にありえないことは読み取れない)。「雪」の華という名称意匠はいつか消えゆくことを順当に暗示しているだろう。
そして、扉もだ。コーヤコーヤを救った英雄の銅像はきっと永遠に残るだろう(実際に残るかどうかではなく、その「つもり」であるという話だ)では扉はどうだろうか。ひしゃげたくず鉄同然の扉は永遠に残るだろうか。どう見てもそんな風には見えない。いずれは錆び朽ちて崩れおち、コーヤコーヤ星が開発されていけばそのうちコンクリートの下に埋め立てられるかもしれない。そしてそれ以上に、この扉の持つ意味を知っているのはロップル君たちだけだということだ。彼らが年を取り、子供世代に、孫世代に移り変わった時に、あるいはそれからさらに数百年が経ち、彼らの誰もこの世にいなくなった時に、この扉は荒野に突き刺さったままだろうか。この扉の意味を知るものが誰か一人でも残っているだろうか。なんでそんな先のことまで考えるのかというとこの映画が「宇宙開拓史」だからだ。彼らが開拓民だからだ。開拓民の本願は、彼らの子々孫々の代に彼らの星が大いに栄え、その未来が輝かしく希望に満ちていることだ。それこそが彼らが開拓民である「意味」だからだ。ゆえにこの映画内で描かれない遥かな未来までもが、この映画の持つ「意味」に含まれている。
つまるところこの赤と青の光に照らされた雪はコーヤコーヤ星の遥かな(そして希望に満ちているであろう)未来を暗示しながら、それと同時に「その頃には彼らの友情の碑であるこの扉も、雪の華も、消えてなくなっているだろう」と囁いているのだ。言っておくがこれは全くもって誇大した読解ではないし、よしんば作者であるF氏がそんなことを全く意図していなかったとしても、間違いなく正確な読解である。なぜなら全てこの映画のストーリー内から明確に、そして澱みなく読み取ることができるからだ。この映画自身が示す意図に、不自然なく沿って居るからだ。これが読解のやり方である。作家が何を言いたいかではなく、自分が何を読みたいかではなく、Q:この作品が表すものは何か?という設問に答えるのならば君がどう思おうがお構いなくこのアプローチで辿り着いた答えだけが間違いなく正答である。ストーリーを読み、そこから「あまりにも妥当に」判明することを並べて行って、最後に辿り着くものが真実だ。それだけがこの問題の解き方だ。
それでは最後に、ここまでで判明したところをまとめて解答をバシッと出そう。いい加減文字もかさんできたので一発で決めてもらいたい。ここまでの話を全部まとめて、果たしてこの絵が表すものは何か。友情の碑はいずれ消え去ってしまってむなしいということか。そんな答えを言ったらもう一度映画を見に行かせるところだ。もう君にも分かっているだろう、そんな話は映画の中で少しだってしていなかったではないか。映画はずっと、友情の話をしていただろう。真実の友情は決して滅びないという話をしていたではないか。たとえケンカをしても、ピンチの時には友達はかけつけてくれるし、彼らの友情によって巨悪は砕かれ、星の危機は救われたという、その話をずっとしていたではないか。だからロップル君たちはただの壊れた扉を見つめているのではないか。即ち判明したことを繋げると、次のようなことになる。

たとえ超空間の扉が閉じて、二度と会えないのだとしても、たとえ遥かな時間が流れ、彼らの友情の碑が崩れ落ちたとしても、それでも彼らの友情は、永遠に残るのだ。彼らがたとえ、この世からいなくなってしまっても、その友情は決して滅びはしないのだ。

なぜそうまで言い切ってしまえるかというと、この答えもちゃんと映画のストーリーの中にある。それはこの扉の名前だ。正確には、この扉のついていた船の名前だ。遠い遠い遥かな星から、友達をここへ導いた扉。その扉のついていた、もうこの世に存在しない船の名前を、この映画を見た方なら当然ご存じだろう。その名は――フレンドシップ号という。

オッタマゲー!

以上で講義を終わる。次回までよく復習しておくように。

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