日本の戦後経済団体組織・経済同友会、商工会議所、経団連


改めて日本の経済団体について基礎知識を調べてみました。

経済同友会

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公益社団法人経済同友会
Japan Association of Corporate Executives


日本工業倶楽部別館(写真後ろ)団体種類公益社団法人設立1946年4月30日所在地東京都千代田区丸の内一丁目4番6号
日本工業倶楽部別館5階法人番号7010005015184

主要人物新浪剛史(代表幹事)活動地域

日本主眼経済人が個人としての自由で責任ある立場から、わが国の社会と経済の進歩と安定、並びに世界経済の調和ある発展に寄与する。従業員数84名(出向者等含む)(2023年7月21日現在)会員数1,526人
(2023年7月21日現在)ウェブサイト経済同友会テンプレートを表示

公益社団法人経済同友会(けいざいどうゆうかい、英称:Japan Association of Corporate Executives)は、日本企業経営者による経済団体利益団体[1]日本経済団体連合会日本商工会議所と並ぶ「経済三団体」の一つである。

組織概要[編集]

企業経営者が個人の資格で参加し、国内外の経済社会の諸問題について一企業や特定業界の利害にとらわれない立場から自由に議論し、見解を社会に提言することを特色としていた。政府と協調路線を取ることが多い経団連に比べて、物言う姿勢を重視している[2]

発足は第二次世界大戦の敗戦直後で、占領軍による財界の粛清または一掃が背景にあった(公職追放)。その結果各企業では旧経営陣が一掃され、部長クラスの中堅幹部がいきなり経営の舵取りを担うこととなった。戦後の混乱状況が続く中、若手経営者たちが互いに切磋琢磨しながら親交を深める団体が必要であるということから、永野重雄日本製鐵常務)、諸井貫一秩父セメント常務)、堀田庄三住友銀行頭取)、水野成夫国策パルプ常務)、桜田武日清紡績社長)、藤井丙午(日本製鐵常務)、郷司浩平(重要産業協議会事務局長)、大塚万丈日本特殊鋼管社長)らを中心に[3][4]、米国の青年会議所(Junior Chamber International)や全米製造業者協会を参考にしながら骨子をまとめ、1946年4月30日に東京丸の内の日本工業倶楽部2階食堂にて設立総会が開かれた[5]。司会を務めたのは当時は全く無名の日本電子工業常務で36歳の鹿内信隆[5]。鹿内は「財界四天王」からの信任を得ての抜擢[5]。鹿内は、1971年4月14日、同じ場所で開催された経済同友会創立25周年総会では、フジサンケイグループ会議初代議長として開会の挨拶に立ち、感激に満ちた一語一語に昔を知る者は、深い感慨に胸を打たれた[5]

2010年社団法人から公益社団法人に移行した[6][7]

創立時の幹事[編集]

氏名肩書年齢青木均一品川白煉瓦社長48磯村乙巳保土谷化学工業社長41岩井雄二郎岩井産業社長43牛尾健治神戸銀行取締役47大塚万丈日本特殊鋼管社長49金井寛人日本塩扱社長48川勝傳寺田合名理事44川北禎一日本銀行理事49栗本順三栗本鐵工所顧問44小池厚之助山一證券社長47郷司浩平重要産業協議会事務局長45櫻田武日清紡績社長42鹿内信隆日本電子工業常務34島田藤島藤組社長50清水康雄清水組社長45鈴木治雄昭和電工常務33鈴木万平東洋紡績社長42武富英一大成建設会長59寺田栄吉大日本紡績常務44永野重雄日本製鐵取締役45野田信夫三菱重工業調査役53萩尾直東芝柳町工場副工場長48藤井丙午鉄鋼協議会事務局長40帆足計日本産業協議会創立委員40堀田庄三住友銀行東京支店長47松本幹一郎明治鉱業社長51森暁昭和電工社長38諸井貫一秩父セメント常務50渡辺忠雄三和銀行常務47

設立総会後、幹事会が委任を受けて次の13名を幹事に追加した。

氏名肩書刀根文雄三井精機工業社長今井一三三井物産常務二宮善基日本興業銀行理事藤本輝夫理研工業社長水野成夫国策パルプ常務正田英三郎日清製粉社長堀武芳日本勧業銀行理事麻生太賀吉麻生セメント社長熊沢貞夫王子製紙取締役寺岡恭次郎芝浦工機理事瀬戸弥三日本鋼管取締役永井仙吉日興証券取締役中村隆一日立製作所総務部長

企業民主化提案と大塚万丈[編集]

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戦後GHQポツダム宣言に基づき、経済の民主化を推し進めていった[8]。同友会としても議論・見解を整理する必要に迫られ、1947年1月に大塚万丈を委員長とする経済民主化委員会を発足させた。大塚は精力的に調査活動を進め、企業活動の中心は株主でなく経営者に置かれるべきであるとしたジェームズ・バーナムの『経営者革命』などを参考にして試案をまとめ、同年8月に「修正資本主義の構想」という表題で起草された[9]

大塚試案は企業の民主化改革を大胆に謳ったもので、

  1. 企業は経営、資本、労働の三者で構成される協同体とする

  2. 企業の最高意思決定機関として「企業総会」を置き、経営、資本、労働の三者の代表で構成する

  3. 企業利潤の分配は、経営、資本、労働の三者が対等の権利を有する

という画期的な内容であった。しかし、あまりにもラディカルであったため、財界の保守派から資本主義の否定につながると批判を浴び、同友会内部でも青木均一磯村乙巳らの保守派は激しく反発した。事態収拾のため、大塚試案については同友会見解として機関決定しないこととした。全体の合意を得るには至らなかったものの、流行語となった「修正資本主義」という言葉とともに、同友会の進歩性を大きく世間に印象付けることとなった。またこれ以後、労使協調をベースに問題の解決を図る姿勢が同友会に定着することとなり、大塚試案が果たした役割は決して小さいものではなかったといえる。

主な活動・提言[編集]

発足以来、同友会は様々な提言や活動を行ってきた。ここでは以下に主なものを紹介する。

生産性運動[編集]

第二次大戦後の西欧諸国では疲弊した経済を再建するため、米国の生産性の高さに学ぶべきだという気運が高まり、各国で生産性向上運動が展開されていた。日本においても1950年代初頭に大争議を経験し、労使が対決し合うだけでなく経営者の側から新しい経営理念を提示して状況の打開を図るべきであるという意見が強まっていた。

1953年にヨーロッパ視察を行った郷司浩平は、ただちに各方面に生産性運動の導入を働きかけていった。経済の復興と成長による資本主義体制の安定化を期待した米国の支援もあって、1955年3月1日に、

  1. 雇用の維持拡大

  2. 労使の協力と協議

  3. 成果の公平な分配

の三原則を柱として日本生産性本部が発足した。初代会長に石坂泰三(東芝社長)、副会長に永野重雄(富士製鐵社長)と中山伊知郎(一橋大学教授)、専務理事に郷司が就任した。郷司は後に第3代会長となる。

生産性運動についての労働界の反応は、同盟は「日本経済の自立と国民生活の向上を目指す総合的施策に貫かれた運動である」と好意的であったが、総評は「経営者側が労使協力、生産性向上の美名の下に、労働強化と賃金抑制を図る」目論見であるとして批判的であった。日本生産性本部は1994年4月1日に社会経済国民会議と統合され、社会経済生産性本部(現・日本生産性本部)に改組されて現在に至っている。

「経営者の社会的責任の自覚と実践」[編集]

1955年頃、政争や汚職による政治不信の蔓延と労働攻勢に危機感を抱いていた大原総一郎倉敷レイヨン社長)は、議会制民主主義擁護のために経済界も積極的に働きかけを行わなければならないと訴え、財界関係者に同調を呼びかけていた。声望の高い大原の問題意識に触発され、同友会も創立10年を期に、企業の社会的な存在意義とかくあるべき経営理念のあり方について、研究を進めることとなった。1956年3月から8ヶ月にも及ぶ研究と議論を経て、同年11月21日に「経営者の社会的責任の自覚と実践」として機関承認された[10][11][12]

概要をまとめると、経営者は「経済体質の改造」と「企業経営の近代化」が最大任務とされ、前者においては

  1. 社会平衡力の形成(各経済勢力間のチェック・アンド・バランスの確立)

  2. 公正競争ルールの確立

が重要な方策であり、後者では

  1. 技術革新と市場開拓を中心とする企業所得の増大

  2. 企業所得の公正な分配

  3. 後継経営者の養成

が企業が維持発展によって社会的責任を果たすための基本的対策であるとしている。これを機に、「経営者(企業)の社会的責任」という言葉が広く知られるようになった。またこの理念をバックボーンとして、後に木川田一隆らによって「民間主体の自主調整」が経済人の社会的責任として唱えられるようになる。

産業問題研究会[編集]

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出典検索?: "経済同友会"ニュース·書籍·スカラー·CiNii·J-STAGE·NDL·dlib.jp·ジャパンサーチ·TWL(2011年6月)

1965年頃の日本経済は、貿易の自由化に伴う国際収支の悪化と、過剰設備投資に起因する需給バランスの崩れにより不況に陥り、山陽特殊製鋼の倒産や山一證券への日銀特別融資の発動などの大事件が連発し、経済界は深刻な危機意識を持っていた。折りしも当時「ミスター通産省」の異名を取っていた佐橋滋通産省企業局長のイニシアティブにより、貿易・資本の自由化に備え、競争力強化のために企業再編を官僚主導で推進することを狙った「特定産業振興臨時措置法案」が国会に提出され、財界に衝撃を与えた。

各経済団体は猛反発して法案成立阻止に動き、結局廃案に終わったが、この経緯から当時の代表幹事・木川田一隆東京電力社長)らは「石坂泰三流のレッセ・フェール(自由放任主義)では危機を乗り切るには限界があり、政府の介入を防ぐためにも、産業界が自主的に調整を行うべきだ」との思いを強くしていた。木川田と中山素平日本興業銀行頭取)、岩佐凱実富士銀行頭取)を中心に民間版産業調整会議の発足に動き、1966年頃から徐々に会合を重ね、「産業経済研究会」(略称「産研」)の名称の下で本格的な活動を行うこととなった。永野、土光敏夫東芝社長)ら財界の実力者が結集し、マスメディアは「財界参謀本部」などと書きたてた。

国際競争に立ち向かうための産業再編成と経済構造の改革について論議され、積極的に社会に提言された。代表的なものとしては、投資の効率的な投入により競争力の向上が期待できるとして八幡製鐵富士製鐵の合併を支持した「『八幡・富士合併について』の見解採択」(1968年)や、1974年参議院選挙での自由民主党大敗を期に別働隊として立ち上げられた「政治資金と議会政治の近代化委員会」(今里広記委員長)による「自民党への政治資金献金を取り止める絶縁提言」の発表がある。 産研は一時期は財界五団体(同友会のほか経団連日商日経連関経連)のトップがメンバーとして顔を揃え、日本の財界をリードする組織として君臨するものと思われたが、皮肉なことに主要団体の協調体制が進む一方で、革新的な提言や行動は次第に影を潜めていった。木川田は1977年に逝去、後継者の河野文彦(三菱重工業会長)も1982年に亡くなり、以後事実上活動は停止した。

政治への関わり[編集]

長年自由民主党を支持してきたが、2007年頃から民主党を容認するようになり[13]、民主党への政権交代後は、内閣の相談役に登用されるようになった[14]。しかし、自民党の政権復帰後は、代表幹事の長谷川閑史が内閣の産業競争力会議の一員になっている。 稀な例としては、終身幹事を務めた品川正治が「平和・民主・革新の日本をめざす全国の会」(全国革新懇)代表世話人として日本共産党と連携していたということがある。

三極委員会の出席者は、経済同友会を中心とした経済三団体が決めているという指摘がある。

歴代代表幹事[編集]

複数代表幹事制をとっていた時期があるため、在任期間が一部重複している。2010年に公益社団法人となった後は、法律的にいう代表理事を代表幹事が務めている[15]

氏名所属(当時)在任期間諸井貫一秩父セメント常務1946年4月~1947年3月大塚万丈日本特殊鋼管社長1947年4月~1948年4月堀田庄三住友銀行常務1947年4月~1948年4月永野重雄日本製鐵常務1948年4月~1950年4月工藤昭四郎物価庁次長1948年4月~1952年4月
1955年4月~1957年4月浅尾新甫日本郵船社長1950年4月~1951年4月藤山愛一郎日東化学工業社長1951年4月~1952年4月山際正道日本輸出入銀行専務理事1952年4月~1955年4月東海林武雄旭電化工業専務1952年4月~1955年4月岸道三同和鉱業副社長1955年4月~1958年4月中山素平日本興業銀行副頭取1957年4月~1959年4月井上英煕日本セメント社長1958年4月~1960年4月岩佐凱実富士銀行副頭取1959年4月~1961年4月木川田一隆東京電力副社長1960年4月~1962年4月
1963年4月~1975年4月水上達三三井物産社長1961年4月~1963年4月二宮善基東洋曹達工業社長1962年4月~1963年4月佐々木直前日本銀行総裁1975年4月~1985年4月石原俊日産自動車社長1985年4月~1991年4月速水優日商岩井会長1991年4月~1995年4月牛尾治朗ウシオ電機会長1995年4月~1999年4月小林陽太郎富士ゼロックス(現:富士フイルムビジネスイノベーション)会長1999年4月~2003年4月北城恪太郎日本IBM会長2003年4月~2007年4月桜井正光リコー会長2007年4月~2011年4月長谷川閑史武田薬品工業社長2011年4月~2015年4月小林喜光三菱ケミカルホールディングス会長2015年4月~2019年4月櫻田謙悟SOMPOホールディングス社長2019年4月〜2023年4月新浪剛史サントリーホールディングス社長2023年4月〜

脚注[編集]

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出典[編集]

  1. ^ 小項目事典,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典 第2版,ブリタニカ国際大百科事典. “圧力団体とは”. コトバンク. 2021年5月16日閲覧。

  2. ^ 読売新聞2018年10月27日付経済面

  3. ^#山下、10-11、190頁。

  4. ^桜田武鹿内信隆『いま明かす戦後秘史(上巻)』サンケイ出版、1983年、186頁。『私の履歴書 経済人12 永野重雄』日本経済新聞社、1979年、58頁。永野重雄『わが財界人生』ダイヤモンド社、1982年、237-238,273-277頁。『君は夜逃げしたことがあるか』にっかん書房、1979年、84,119-122頁。「永野重雄追想集」刊行会『永野重雄追想集』日本商工会議所東京商工会議所、1985年、174-177,190-191頁。「永野重雄回想録」編集委員会 委員長 武田豊『永野重雄回想録』新日本製鐵、1985年、204-248,256-258頁。朝日新聞デジタル:経済同友会(上) 焼け跡で生まれた勉強会麻生百年史 〈麻生グループ〉第5章戦後期

  5. ^ abcd 針木康雄(『財界』編集部次長)「●人物クローズアップ/1 『未来を先取りする"職業財界人" 鹿内信隆』」『月刊ビデオ&ミュージック』1971年6月号、東京映音、36–39頁。

  6. ^“公益社団法人 経済同友会への移行および2010年度の事業展開について”. 公益社団法人 経済同友会. (2010年4月1日) 2017年12月28日閲覧。

  7. ^“同友会、公益財団法人に移行”. 日本経済新聞電子版. (2010年4月1日) 2017年12月28日閲覧。

  8. ^“経済民主化”. コトバンク 2017年12月28日閲覧。

  9. ^“企業民主化試案:修正資本主義の構想”. 国立国会図書館デジタルコレクション 2017年12月28日閲覧。

  10. ^“日本企業のCSR-進化の軌跡-自己評価レポート2010”. 公益社団法人 経済同友会. (2010年4月) 2017年12月28日閲覧。

  11. ^“企業の社会的責任”. ニッセイ基礎研究所. (2004年5月) 2017年12月28日閲覧。

  12. ^“新たな企業の社会的責任と経営者の課題 ―持続可能は発展と企業価値―” (PDF). 高松大学・高松短期大学. (2010年11月30日). オリジナルの2017年12月27日時点におけるアーカイブ。 2017年12月28日閲覧。

  13. ^“小沢民主党の育成図る財界 二大政党制あおり策動強める”. 労働新聞. (2006年6月5日). オリジナルの2006年6月15日時点におけるアーカイブ。 2023年9月10日閲覧。

  14. ^長谷川閑史経済同友会代表幹事の記者会見発言要旨(経済同友会ホームページ 2011年11月01日)

  15. ^経済同友会・活動と組織2010

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]



日本経済団体連合会

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一般社団法人日本経済団体連合会
Japan Business Federation


経団連会館団体種類一般社団法人設立1961年6月29日所在地

日本東京都千代田区大手町一丁目3番2号 経団連会館

北緯35度41分19.2秒東経139度45分48.6秒座標:

北緯35度41分19.2秒 東経139度45分48.6秒法人番号1010005018440[1]

起源経済団体連合会、日本経営者団体連盟主要人物会長 十倉雅和活動地域

日本主眼日本経済の発展を促進活動内容経済法制、金融資本市場の整備収入65億円(2020年度)従業員数228人 (2022年現在)会員数企業会員:1,494社
団体会員:155
特別会員:33
(2022年4月1日現在)ウェブサイトhttps://www.keidanren.or.jp/テンプレートを表示

一般社団法人日本経済団体連合会(にっぽんけいざいだんたいれんごうかい、英語: Japan Business Federation)は、日本の大手企業を中心に構成された経済団体利益団体)である。略称は「経団連」。

日本商工会議所経済同友会と並ぶ「経済三団体」の一つで、その中でも影響力は際立って大きく、会長は「財界総理」と称される[2]。かつては経済産業省所管の社団法人であったが、公益法人制度改革に伴い内閣府所管の一般社団法人へ移行した。

組織概要[編集]

経団連は、2002年5月28日、経済団体連合会(1946年8月16日発足)が、日本経営者団体連盟(以下「日経連」。1948年4月12日発足)を統合して発足した団体である[3][4]

「企業の価値創造力強化、日本と世界の経済の発展の促進」を目的としている[3]。経営者の意見の取りまとめ、政治・行政・労働組合・市民などとの対話、会員企業への憲章遵守の働きかけ、各国政府・経済団体や国際機関との対話をしている[3]

東証第一部上場企業をはじめ、日本経済の有力企業が多く加盟しているため、その利害が社会問題に対する見解や主張に反映されている。「経団連成長戦略」などの経済発展、企業利益増加を図る政策の提言を行っていて、自由民主党政治献金を行い、政界・経済界に大きな影響力を持った組織と言われている。経団連の事務局職員は官僚になぞらえて「民僚」と呼ばれ[5]、会長が出身企業から連れてくる政策担当スタッフと共に、会長の記者会見の想定問答や政策提言の文案の作成などの事務作業を一手に引き受ける。

歴史[編集]

1922年大正11年)8月1日に井上準之助内藤久寛池田謙三第百銀行頭取)、中島久万吉井坂孝串田万蔵大橋新太郎藤山雷太和田豊治郷誠之助団琢磨の11名を発起人として日本経済聯盟会(経済聯盟)が結成され[6]1923年(大正12年)に日本工業倶楽部にて財界から代表者が出席し、第一回会議総会が開催された。

  1. 大正11年8月1日より同12年3月31日に至る事業及事務報告の件

  2. 前記期間の収支計算報告及其承認の件

  3. 大正12年度予算書承認の件

  4. 定款第7条第2項中「常務理事12名」を「常務理事18名」を改むる件

出席者[7]

日経連と経団連[編集]

もともと、経団連は日本の経済政策に対する財界からの提言及び発言力の確保を目的として結成された組織であり、日経連は労働問題を大企業経営者の立場から議論・提言する目的で結成された組織であって健全な労使関係を哲学としていた。加盟企業のほとんどが両者で重複しており、日経連は労使間の対立の収束とともに役割を終えつつあるとの理由から統合された。

入会資格[編集]

  1. 経団連の事業に賛同し、「企業行動憲章」の精神を尊重・実践すること

  2. 経済事業を営む法人で、事業内容等が当会会員として相応しく、社会的に有用な商品・サービスを継続的に開発・提供していること

  3. 純資産額(単体)が1億円以上であること[8]

  4. 3期以上連続して当期純損失を計上していないこと

  5. 財務諸表に関する公認会計士等の監査報告書が適正意見であること(または、同等の内容が確保されていること)

  6. リスク管理体制・内部統制システムが導入・整備されていること

  7. 過去3年間において重大な不祥事の発生がないこと

人事一覧[編集]

創立時会長・常務理事・名誉会員[編集]

  • 設立時における日本経済聯盟会では、第8回定時会員総会にて定款を改正して名誉会員制度を導入し現在に連なる陣容を整えた[6]

日本経済聯盟会理事会役職氏名主な所属会長団琢磨男爵
三井財閥総帥常務理事井坂孝東京瓦斯社長伊藤次郎左衛門名古屋商法会議所会頭稲畑勝太郎稲畑染料店創業者池田成彬三井銀行常務取締役堀啓次郎大阪商船社長大橋新太郎博文館創業者大澤徳太郎大沢商会社長渡辺千代三郎大阪瓦斯社長鹿島房次郎川崎汽船社長串田万蔵明治生命保険会長藤山雷太藤山コンツェルン創業者児玉謙次横浜正金銀行頭取郷誠之助男爵
東京株式取引所理事長阿部房次郎東洋紡績社長木村久寿弥太三菱合資会社理事湯川寛吉住友財閥幹部土方久徴日本銀行幹部

日本経済聯盟会名誉会員役職氏名所属名誉会員渋沢栄一子爵
渋沢財閥総帥大河内正敏子爵
理化学興業会長藤田譲明治生命保険専務岩原謙三芝浦製作所社長石井健吾第一銀行頭取西野恵之助山陽鉄道幹部星野錫王子製紙幹部小倉正恒住友財閥幹部武智直道台湾製糖創立者長尾良吉鐘淵紡績社長中村房次郎日本カーボン創業者松永安左衛門東邦電力社長増田義一実業之日本社創業者深井英五日本銀行理事深尾隆太郎男爵
南洋拓殖社長三好重道三菱石油社長白石元治郎日本鋼管社長四条隆英安田財閥幹部諸井恒平秩父セメント創業者森賢吾大蔵官吏森広蔵台湾銀行頭取遠藤三郎兵衛郡是製絲社長

会長・副会長・理事・監事・審議員会議長・副議長[編集]

会長については「日本の中心となる産業」の「中心となる企業」のリーダー(社長会長相談役)から選ばれる傾向にあり、歴代会長は原則として製造業のトップが就くという暗黙のルール[9] がある。また「会長としての適性」、「会長活動に必要な資金を企業が捻出できるか」などを判断の上で決定される。会長は俗に「財界総理」[10]、「財界天皇[要出典]」とも呼ばれる。かつては日本の民間人としては唯一、警視庁のセキュリティポリスから身辺警護を受けていた。会長は後任や副会長を選ぶ事実上の権限を持つ[9]。なお、経団連会長職はかなり多忙な役職であるため、歴代の多くの会長は就任時に出身企業の会長(もしくはそれに類する役職)に就任し、出身企業の経営自体は社長など後任に任せているケースが多い。

副会長については、各産業(製造業・非製造業)のバランスを考えて選ばれる。現職副会長から次期会長を選ぶのが慣例である[9][注釈 1]。また、審議員会議長(旧評議員会議長)は経団連におけるいわゆるナンバー2のポストとされ、主に非製造業のトップが務める。

経団連首脳(会長・副会長)には共通点があり、ほぼ全員が60歳以上の日本人男性で[注釈 2]、サラリーマンとして経営トップに上り詰めた「生え抜き」経営者である[9]。若者や女性が少なく単一的な首脳人事に対し多様性がないと批判されている。

日本経済団体連合会[11][12]役職氏名所属会長・代表理事十倉雅和住友化学会長副会長・理事佐藤康博みずほフィナンシャルグループ特別顧問菰田正信三井不動産社長太田純三井住友フィナンシャルグループ社長安永竜夫三井物産会長東原敏昭日立製作所会長橋本英二日本製鉄社長津賀一宏パナソニックホールディングス会長南場智子ディー・エヌ・エー会長小路明善アサヒグループホールディングス会長永野毅東京海上ホールディングス会長遠藤信博日本電気特別顧問小堀秀毅旭化成会長永井浩二野村ホールディングス会長筒井義信日本生命保険会長澤田純日本電信電話会長垣内威彦三菱商事会長泉澤清次三菱重工業社長野田由美子ヴェオリア・ジャパン会長亀澤宏規三菱UFJフィナンシャル・グループ社長事務総長・代表理事久保田政一専務理事・業務を執行する理事椋田哲史根本勝則常務理事・業務を執行する理事藤原清明井上隆原一郎長谷川知子監事内田晴康土岐敦司

日本経済団体連合会[13]役職氏名所属審議員会議長冨田哲郎東日本旅客鉄道会長副議長宮永俊一三菱重工業会長小林健三菱商事会長早川茂トヨタ自動車副会長根岸修史積水化学工業相談役斎藤保IHI取締役畑中好彦アステラス製薬会長井阪隆一セブン&アイ・ホールディングス社長新浪剛史サントリーホールディングス社長柄澤康喜三井住友海上火災保険会長國分文也丸紅会長筒井義信日本生命保険会長日比野隆司大和証券グループ本社会長市川秀夫昭和電工相談役鈴木善久伊藤忠商事副会長吉田憲一郎ソニーグループ会長兼社長野田由美子ヴェオリア・ジャパン会長武内紀子コングレ社長出雲充ユーグレナ社長二宮雅也損害保険ジャパン会長相川善郎大成建設社長永井浩二野村ホールディングス会長時田隆仁富士通社長

(2022年4月1日現在)

名誉会長[編集]

  • 歴代会長が就任している。

日本経済団体連合会[14]名誉会長所属企業豊田章一郎トヨタ自動車名誉会長今井敬日本製鉄名誉会長奥田碩御手洗冨士夫キヤノン会長CEO榊原定征東レ社友 元社長・会長

(2019年7月1日現在)

旧経団連・旧日経連における歴代会長[編集]

旧経済団体連合会代数歴代会長所属企業在任期間初代石川一郎日産化学工業1948年3月~1956年2月2代石坂泰三東京芝浦電気1956年2月~1968年5月3代植村甲午郎経団連事務局1968年5月~1974年5月4代土光敏夫東京芝浦電気1974年5月~1980年5月5代稲山嘉寛新日本製鐵1980年5月~1986年5月6代斎藤英四郎新日本製鐵1986年5月~1990年12月7代平岩外四東京電力1990年12月~1994年5月8代豊田章一郎トヨタ自動車1994年5月~1998年5月9代今井敬新日本製鐵1998年5月~2002年5月

旧日本経営者団体連盟代数歴代会長(代表常任幹事)所属企業在任期間初代諸井貫一秩父セメント1948年3月~1968年4月2代三鬼隆八幡製鐵1949年4月~1952年4月3代加藤正人大和紡績1949年4月~1963年8月4代櫻田武日清紡績1960年4月~1979年5月5代大槻文平三菱鉱業セメント1979年5月~1987年5月6代鈴木永二三菱化成1987年5月~1991年5月7代永野健三菱マテリアル1991年5月~1995年5月8代根本二郎日本郵船1995年5月~1999年5月9代奥田碩トヨタ自動車1999年5月~2002年5月

※初代の諸井貫一から3代目加藤正人までは『代表常任幹事』制を採用。
4代目の櫻田武から単独会長制に移行。

日本経済団体連合会歴代会長[編集]

日本経済団体連合会代数歴代会長所属企業在任期間初代奥田碩トヨタ自動車2002年5月~2006年5月2代御手洗冨士夫キヤノン2006年5月~2010年5月3代米倉弘昌住友化学2010年5月~2014年6月4代榊原定征東レ2014年6月〜2018年5月5代中西宏明日立製作所2018年5月〜2021年6月6代十倉雅和住友化学2021年6月〜

歴代評議員会議長〔審議員会議長〕[編集]

  • 評議員会議長〔審議員会議長〕は経団連におけるいわゆるナンバー2のポストとされる。

旧・経済団体連合会[15]代数歴代評議員会議長所属企業在任期間初代斯波孝四郎日本海事協会1946年8月16日 - 1948年3月16日2代高橋龍太郎日本商工会議所1948年3月16日 - 1952年3月27日3代石坂泰三東京芝浦電気1952年3月27日 - 1956年2月21日4代菅礼之助東京電力1956年5月24日 - 1968年5月24日5代佐藤喜一郎三井銀行1968年5月24日 - 1974年5月24日6代河野文彦三菱重工業1974年5月24日 - 1980年5月23日7代岩佐凱実富士銀行1980年5月23日 - 1986年5月28日8代山下勇三井造船1986年5月28日 - 1990年12月21日9代松澤卓二富士銀行1990年12月21日 - 1994年5月27日10代齋藤裕新日本製鐵1994年5月27日 - 1998年5月26日11代関本忠弘日本電気1998年5月26日 - 1998年10月23日12代那須翔東京電力1999年5月25日 - 2002年5月28日

日本経済団体連合会[15]代数歴代評議員会議長〔審議員会議長〕所属企業在任期間初代那須翔東京電力2002年5月28日 - 2002年9月9日2代森下洋一松下電器産業2003年5月27日 - 2006年5月24日3代西室泰三東芝2006年5月24日 - 2008年5月28日4代米倉弘昌住友化学2008年5月28日 - 2010年5月27日5代渡文明JXホールディングス2010年5月27日 - 2014年6月3日6代岩沙弘道三井不動産2014年6月3日 - 2018年5月31日7代古賀信行野村ホールディングス2018年5月31日 - 2022年5月31日8代冨田哲郎東日本旅客鉄道2022年6月1日 -※2012年4月より、審議員会議長。

旧経済団体連合会の略歴[編集]

  • 1922年(大正11年)8月 日本経済聯盟会(経済聯盟)結成[16]東京大阪神戸の3都市に支部が設けられる。

  • 1940年(昭和15年)8月 戦時統制のため、日本経済聯盟が中心となって、重要産業統制団体懇談会を設立。

  • 1941年(昭和16年)1月 懇談会、重要産業統制団体協議会(重産協)に改称。

  • 1942年(昭和17年)6月 重産協、重要産業協議会に改称。略称は変わらず。

  • 1943年(昭和18年)6月 当時の内閣総理大臣東條英機や商工大臣岸信介らが提出した法案により商工経済会法が成立し、日本商工経済会と47都道府県単位の商工経済会が発足。同法により日本商工会議所は権利義務を日本商工経済会に承継し清算(解散)となった。商工会議所が都市単位で置かれていたのとは異なり、商工経済会は一府県に一つ置かれ、商工経済会が会員に対し経費を賦課し、市町村による徴税と同様に賦課金を徴収することが承認された[17]

  • 1945年(昭和20年)9月 敗戦後、日本経済聯盟会・重産協・日本商工経済会商工組合中央会によって、経済団体連合委員会を結成。

  • 1946年(昭和21年)1月 当時の内閣総理大臣吉田茂らは18日、GHQ覚書に基づき商工経済会の廃止法案を提出。

  • 1946年(昭和21年) 日本商工経済会国際局が国際経済事情叢書を発行[18]

  • 1946年(昭和21年)8月 重産協を継承して、日本産業協議会(日産協)設立。

  • 1946年(昭和21年)8月 日本経済聯盟会・日産協・日本商工経済会・商工組合中央会・全国金融団体協議会・日本貿易団体協議会が中心となって経済団体連合会設立(日本経済聯盟会が解散)。

  • 1946年(昭和21年)9月 帝国議会は5日「商工経済会法を廃止する法律」を可決し日本商工経済会を解散。

  • 1947年(昭和22年)8月 日本貿易会を傘下とする[19]

  • 1952年(昭和28年)11月 経済団体連合会が日本産業協議会を合併。

近年の動き[編集]

事件など[編集]

  • 1977年3月3日、経団連ビルの会長室に銃で武装した右翼4人が押し入り人質とともに立てこもる(経団連襲撃事件の項を参照)[20]

  • 2005年6月に発覚した橋梁談合事件によって、経団連からは三菱重工新日本製鐵(新日鉄)が起訴処分となった。それを受けて、経団連内では西岡喬(三菱重工会長)と三村明夫(新日鉄社長)の処分を如何にするかで難航。結局、更迭等の処分にはせず「謝罪」にて事態を収めたが、これは以下の要因が役員の政策決定の場に影響を与え結果的に「軽い処分」となったものと考えられる。 

    1. 現職役員が所属する社の刑事処分は過去にも例があること。 

    2. 新日鉄の三村、三菱重工の西岡とも社の談合関与を率直に認め経団連の定例会見でもその旨、説明責任を果たしたと認められたこと。

    3. 三村は最年少副会長であると同時に次代の会長候補であり、その芽を摘むことは避けたかったとの思惑があったこと。

  • 2005年12月5日ライブドアの経団連入会を全会一致で承認した。だが2006年1月16日にライブドアが東京地検証券取引法違反容疑(ライブドア事件)で家宅捜索を受けたのを受け、時の会長・奥田碩はライブドア入会は時期尚早過ぎたと発言し今後は経団連入会について基準見直しを行う意向を示した。

  • 2008年6月11日午後、東京・大手町の経団連会館受付に40歳くらいの男から爆破予告の電話があり職員30名ほどが自主的に館内から一時避難した。しかし、館内を警視庁丸ノ内署が捜索したが爆発物は発見できず。又、午後3時の爆破予告時刻を過ぎても異常はなかったため悪質ないたずらと見られる。

  • 2009年1月6日JMIUいすゞ自動車支部など8つの労働組合が会長・御手洗あての公開質問状を経団連側に提出したが、「アポイントがない」として受け取りを拒否した[21]

  • 2019年5月中西宏明会長が東京都内の病院入院し、日本経済団体連合会会長としては初となる会長職の休業をした[22]。会長代行は置かれず、筆頭格の岡本毅副会長からは「18人の副会長が力を合わせ、業務を遂行する」との説明がなされた[23][24]

  • 2021年5月10日、中西会長がリンパ腫再々発の疑いにより、定時総会が行われる同年6月1日付で会長職を辞任することが明らかになった[25]住友化学会長の十倉雅和が5月10日の理事会において後任の会長候補に選出され、6月1日付で正式に会長に就任する予定[25]

推進する政策・主張[編集]

財政・金融政策[編集]

  • 法人税の税率を30%前後の水準に、2011年度までに消費税を7%(提言時は5%)程度まで引き上げ[26]

    • 家電メーカーを中心に最終赤字が続出している状況で、経済活性化の為に消費税増税(を含む社会保障改革)と法人税の減税を主張しており[26]、2012年8月11日には実際に「社会保障と税の一体改革関連法案」が成立している。

  • 環境税には反対していたが、2012年10月1日から実施が決まっている[27]道路特定財源に関しては暫定税率の引き下げを求めており[28]高速道路の整備などが縮小された分の還元が必要だとしている。2009年以降、 民主党マニフェストに沿って暫定税率の廃止を目指したが(ガソリン値下げ隊)、失敗に終わっている。

  • 公務員制度改革行政改革、歳出改革[26]

通商・市場政策[編集]

労働政策[編集]

  • 1995年、当時の日経連が「新時代の『日本的経営』 ―挑戦すべき方向とその具体策」の中で労働者を長期蓄積能力型、高度専門能力活用型、雇用柔軟型の3グループに分けるべきと提言。そのうちの高度専門能力活用型と雇用柔軟型の2つが、非正規雇用の温床になるという批判がよくなされる[31]

  • 2005年6月21日、 ホワイトカラーエグゼンプション(労働時間規制適用免除制度)の実現を促す提言を行い、2007年9月11日には厚生労働大臣舛添要一がそれを「家庭だんらん法」と呼んで導入を図った。しかし、「残業代ゼロ法案」と揶揄され国会にも提出されていない。スキル向上のために手当なし・休日返上で出勤したいような若者はこの法案の対象の年収900万円以上である可能性はほとんどないなど、提案理由が不透明だと言える。ちなみに、残業禁止のドイツオランダワークシェアリング(パートタイム経済)で失業率を抑制している。

  • 2009年10月5日金融郵政改革担当大臣亀井静香は、東京都内で行われた講演会で、「日本で家族間の殺人事件が増えているのは、(大企業が)日本型経営を捨てて、人間を人間として扱わなくなったからだ」と述べ、時の会長・御手洗冨士夫に「そのことに責任を感じなさい」と言ったというエピソードを紹介した。御手洗は「私どもの責任ですか」と答えたという[32][33]。「ため込んだ内部留保をそのままにしといて、リストラをやっている。人間を人間扱いしないで、自分たちが利益を得る道具として扱っている」「昔の大企業は苦しい時に内部留保を取り崩して下請けや孫請けに回した。今はリストラだけをしている」とも述べ、派遣契約解除問題を批判している[34]。しかし、製造業派遣の全面禁止などが雇用情勢の悪化や工場の海外移転を促進するという観点から、民主党政権はマニフェストを撤回し2012年3月に改正派遣法が成立している[35]

  • 2008年10月14日、「人口減少に対応した経済社会のあり方」[36] と題する報告書を発表、従前の移民受け入れ政策を改めて強調している。

社会保障政策[編集]

国家体制[編集]

エネルギー政策[編集]

この節は中立的な観点に基づく疑問が提出されているか、議論中です。そのため、中立的でない偏った観点から記事が構成されているおそれがあり、場合によっては記事の修正が必要です。議論はノートを参照してください。(2012年9月)

設立当初から、東芝(傘下にウェスティングハウス・エレクトリック)、日立(関連企業にGE日立ニュークリア・エナジー)、三菱重工業など原子力プラントに技術力をもつ企業や日本の主要電力会社(東京電力中部電力など)が経団連に参加している。なお、3.11の東日本大震災以降、エネルギー政策の見直しや脱原発運動が高まる中、経団連内部においても再生可能エネルギーの普及を推進するソフトバンクや、電力会社のあり方に疑問を呈する楽天など一部の会員企業から経団連の原子力推進姿勢の堅持に対して内部批判を受けたが、現執行部は少数意見だとしている。 なお、楽天は2004年に加盟したが、経団連が発送電分離や独占自由化に対して後ろ向きであることが原因で[38]、2011年6月に退会した[39]

経団連の原発政策に関するスタンス

  • 2011年、3.11震災後のまだ福島事故が収束には程遠い中で7月14日には早くも、エネルギー政策に関する第1次提言を表明し、「原子力については、定期点検終了後も停止したままとなっている発電所を、速やかに再稼働させることが何よりも重要である。」と述べて、いち早く再稼動に向けたアクションを取るように働きかけを行った。

  • 2012年9月14日に民主党政府が「30年代の原発稼働ゼロ」を掲げるエネルギー戦略を決定したことについて、会長の米倉弘昌は野田に電話で直接抗議し「承服できぬ」と批判した[40]

政治への働きかけ[編集]

  • 1954年造船疑獄事件が政財界を揺るがす大事件を中心になったこと、東西冷戦構造の中、経営者は資本主義体制を支える政党をする必要があったことから、経団連が献金を取りまとめる「経団連方式」の政治献金が開始された。「経団連方式」とは、経団連が総額を決めた上で企業に負担能力に応じた献金額を割り振る方法であり、ほぼ100%の会員企業が斡旋の呼びかけに応じていた。毎年、自民党本部に100億円以上、民社党に10億円程度寄付していた[41]。また経団連は「自民党の金庫」と呼ばれた[42]

  • 1955年に造船疑獄事件の反省から経済人が経済再建懇談会を結成し、事務を経団連総務部長の花村仁八郎、同次長の久保田富雄が担当した。1959年安保闘争に対抗して政財界や中小企業、文化人、婦人・青年団体等の代表者が自由国民連合を結成したが、両者は1961年に合併し、国民協会(後に国民政治協会に改称)が発足した。経団連は国民協会を支えてきたが、第10回参議院議員通常選挙の金権選挙批判やロッキード事件を受け、会長の土光敏夫は国民協会との関係を破棄した。国民政治協会への改称後、組織を建て直し1981年の協会創立20周年記念式典には会長の稲山嘉寛が招かれている。

  • 献金斡旋を1993年に一旦中止した。理由は、1988年に発覚したリクルート事件、ゼネコン疑獄などの汚職が大問題となり、国民からの批判が高まったこと、バブル崩壊で各企業の売り上げにばらつきが出て業界ごとの献金調整が破たんしたことだと一般に言われているが、55年体制の終焉で保守が並び立つようになったという時代背景も影響している[41]。中止以降は自民党の政治資金団体である、前述の国民政治協会が直接、業界や企業に献金を要請していたが、企業・団体の献金は2002年には26億円と、かつてより大幅に減少した。

  • 2004年には企業への献金の斡旋を再開した。「経団連方式」とは違い、冷戦終結後の政治状況の中、「優先政策事項」に対して自民党と他の野党をそれぞれ評価し、各企業の「自発的な」献金を促進する方式にした(#経団連による「政策評価」と会員企業の政治献金も参照)[41]。2004年度の会員企業の政治献金は自民党向けが22億2000万円、民主党向けが6000万円。両党以外の他党への献金は無かった[43]

  • 以前は自民党だけでなく野党第一党の民主党と勉強会・懇談会を開催するなど、特定政党への偏りをなくすため「幅広い政党支持」を打ち出していたが、2005年第44回衆議院議員総選挙では同年8月24日に自民党の単独支持を決めた。

  • 2010年3月8日に、経団連としての会員企業へ政治献金の斡旋を取りやめ、献金は各企業ごとの自主的判断に任せる旨の声明を出した一方で、アメリカ合衆国などを参考に、個人献金の拡大策を検討し、政府に働きかける意向を示した[44]

  • しかし2014年9月8日、経団連は再び政策評価に基づく会員企業への政治献金の呼びかけを再開すると発表した。米倉弘昌会長による安倍晋三の金融緩和政策批判を機に政府自民党と経団連の関係が悪化しており、経団連会長の指定席だった経済財政諮問会議の議員ポストを剥奪されるなど冷遇を受けていたため、自民党への金銭支援をテコに関係回復と影響力強化を図るものと見られている。経団連側から献金呼びかけ再開について伝えられた政府は、榊原定征会長を経済財政諮問会議の議員として登用することを決定した[45][46]

経団連による「政策評価」と会員企業の政治献金[編集]

経団連は、会員企業が政治献金を行う際の政策評価基準となる「政策評価」を年度毎に発表している。税財政など複数の項目に対し最も評価が高い「A」から最も評価が低い「E」まで、アルファベットでランク分けされているのが特徴である。以前は共産党などの少数政党の評価もしていたが、最近は自民党と民主党の評価のみを発表している(共産党は財界団体が政党を比較評価すること自体を非難し、財界が金で与党を支配している実態があらわになったものだと主張している)。

2007年度の政策評価は自民党は去年と代わらず高い水準だったが民主党への評価は6項目で評価が下がるなど、大幅ダウンとなった。特に民主党の雇用、労働政策には「ホワイトカラーエグゼンプションに絶対反対の立場をとっており、労働者の均等待遇原則や有期契約の規制強化等を盛り込んでいる」と激しく批判しており評価も「D」という低いものだった[47]

また、2007年2月23日に行われた衆議院予算委員会の中で共産党の佐々木憲昭は、経団連が自民党に対し2004年に22.6億円、2005年の25億円の政治献金をしていると述べ自民党に対する政策評価表の中にある「A」の数と献金額が比例して増えている事から「経団連の言いなりになればなるほど献金額が増えている」「官邸が経団連に直接支配されている」と批判している[48]

民主党代表岡田克也も、「政策の合致度によって、献金額を決めるのは贈収賄の問題になりかねない、かなりきわどい問題だ」「経団連という1つの経済界の団体が、そういう形で各企業の政党に対する献金について、いわば介入をするというやり方が、決して良いとは思わない」と批判している[49][注釈 3]

2010年3月8日、この“政策評価に基づく献金”を取り止め、各企業ごとの自主的判断に任せる旨の声明を出した一方で、アメリカ合衆国などを参考に、個人献金の拡大策を検討し、政府に働きかける意向を示した[44]。しかし前述の通り、2014年9月に再び政策評価に基づく献金を再開すると発表した。

書籍[編集]


日本商工会議所

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日本青年会議所」あるいは「商工会」とは異なります。

日本商工会議所
The Japan Chamber of Commerce and Industry


日本商工会議所(丸の内二重橋ビル)団体種類特別民間法人設立1922年6月29日 (101年前)所在地東京都千代田区丸の内3-2-2 丸の内二重橋ビル 6F

北緯35度40分41.5秒東経139度45分41.7秒座標:

北緯35度40分41.5秒 東経139度45分41.7秒法人番号5010005003975

起源商業会議所連合会主要人物会頭 小林健活動地域

日本主眼商工会議所の健全な発達、商工業の振興収入78億円(2008年度)[1]
*会費収入 7億7,000万円
*事業収入 31億6,000万円(検定事業収入等)
*委託費・補助金 35億円従業員数事務局員数:105人(2021年)会員数会員:515商工会議所(2021年)
特別会員:34団体(2021年)ウェブサイトhttps://www.jcci.or.jp/テンプレートを表示

日本商工会議所(にほんしょうこうかいぎしょ、略称:日商[2]: The Japan Chamber of Commerce and Industry, JCCI)は、日本各地の商工会議所を会員として組織される団体。日本経済団体連合会経済同友会と並ぶ「経済三団体」の一つである。

組織概要[編集]

商工業の振興に寄与するため商工会議所間の意見の総合調整や国内外の経済団体との提携を図る機関である。中小企業など約125万社が参加する[3]

「経済三団体」の中で最も歴史が古く、唯一商工会議所法という単独の法的根拠に基づく。

代表者[編集]

商工会議所の代表者は会頭と呼ばれ、慣例として東京商工会議所の会頭が日商会頭を兼務する。歴代の日商会頭については下記を参照。会頭の他、副会頭11人(副会頭に準ずる者6人を含む)が会員の商工会議所会頭から選任される。

沿革[編集]

人事一覧[編集]

2022年11月17日現在[7]

役職氏名所属出身母体会頭小林健東京三菱商事相談役副会頭鳥井信吾大阪サントリーホールディングス副会長嶋尾正名古屋大同特殊鋼会長上野孝横浜上野トランステック会長塚本能交京都ワコールホールディングス会長川崎博也神戸神戸製鋼所特任顧問福田勝之新潟福田組会長岩田圭剛札幌岩田地崎建設社長泉雅文高松四国旅客鉄道相談役池田晃治広島ひろぎんホールディングス会長谷川浩道福岡西日本シティ銀行会長藤崎三郎助仙台藤崎会長兼社長専務理事石田徹資源エネルギー庁長官(経済産業省)常務理事久貝卓元内閣府大臣官房審議官(経済産業省)理事・事務局長荒井恒一(日商)

歴代会頭[編集]

代会頭在任出身母体 初藤山雷太1922年6月 – 1925年3月大日本製糖藤山コンツェルン)2指田義雄1925年4月 – 1926年6月3藤田謙一1926年7月 – 1930年3月4郷誠之助1930年5月 – 1936年12月5結城豊太郎1937年1月 – 2月日本銀行安田銀行安田財閥)6門野重九郎1937年4月 – 1938年9月大倉組大倉財閥)7伍堂卓雄1938年10月 – 1939年8月海軍工廠南満州鉄道8八田嘉明1939年10月 – 1941年2月鉄道省 → 南満州鉄道9藤山愛一郎1941年4月 – 1946年1月大日本製糖(藤山コンツェルン) –関桂三 (代理) 1946年2月 – 9月東洋紡10高橋龍太郎1947年2月 – 1951年8月大日本麦酒11藤山愛一郎 (再任) 1951年9月 – 1957年7月大日本製糖(藤山コンツェルン)12足立正1957年7月 – 1969年9月王子製紙三井財閥)→ ラジオ東京13永野重雄1969年9月 – 1984年5月富士製鐵新日本製鐵14五島昇1984年5月 – 1987年12月東京急行電鉄15石川六郎1987年12月 – 1993年7月鹿島建設16稲葉興作1993年8月 – 2001年7月石川島播磨重工業17山口信夫2001年7月 – 2007年11月旭化成18岡村正2007年11月 – 2013年11月東芝19三村明夫2013年11月 – 2022年11月新日鐵住金20小林健2022年11月 -三菱商事


検定事業[編集]

日商検定[編集]

日本商工会議所・各地商工会議所主催

東商検定[編集]

東京商工会議所・各地商工会議所主催

大商検定[編集]

大阪商工会議所・各地商工会議所主催

カリアック(商工会議所福利研修センター)[編集]

カリアック(商工会議所福利研修センター)は、日本商工会議所と全国の商工会議所が共同で1993年に運営を開始した研修・福利厚生のための宿泊施設であった。浜名湖畔にあり、商工会議所の会員以外でも利用できたが、経営不振と建物の賃貸借契約の終了により、2013年9月末に閉館した。なお、運営会社だった株式会社カリアックは、簿記検定や販売士検定のテキストを出版する企業として存続している。

脚注[編集]

[脚注の使い方]

出典[編集]

  1. ^平成27年度収支決算書 日本商工会議所 上位URL=日商:情報公開 2017-05-13閲覧

  2. ^“日商会頭 震災復興の加速要望”. NHKニュース (日本放送協会). (2013年3月21日). オリジナルの2013年3月21日時点におけるアーカイブ。 2013年3月21日閲覧。

  3. ^ 読売新聞2018年10月27日付経済面

  4. ^商業会議所条例』(明治23年9月12日法律第81号)、官報国立国会図書館

  5. ^商業会議所法』(明治34年3月25日法律第31号)、官報国立国会図書館

  6. ^商工会議所法』(昭和2年4月5日法律第49号)、官報国立国会図書館

  7. ^https://www.jcci.or.jp/about/board-members.html

  8. ^ https://www.kentei.ne.jp/15083

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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