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WEB特集「今年度かぎり”見敵必撮”偵察航空隊に密着」(5)第501飛行隊”復興の一助”と信じて

今回の取材では災害派遣で撮影された様々な被災地の航空写真を目の当たりにすることが出来た。その中に、福島第一原発の写真もあった。311東日本大震災でも偵察航空隊は連日、情報収集を続けた。3機態勢でそれぞれが要求のあった地域を撮影していたのだ。あの日、第501飛行隊のRFで同じ機体に乗り込んでいたパイロットとナビゲーターが百里基地にいた。多くは異動ですでに百里基地から離れているが、現在も百里基地で任務に就いている同飛行隊の2人に話を聞くことが出来た。

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聞いたことのない声で「うわー大きな地震です」

「局地飛行訓練で発災当時ぼく飛んでいました。」そう切り出したのは第501飛行隊パイロット坂本幸裕3等空佐だ。更に続ける「着陸するために飛行場の20キロぐらい北側にいたんですけれども、ちょうどそこで管制塔から地震だ、って話でありましたので、地上と海岸線との間でホールドして、空中待機をして滑走路の点検が終わるのを待っていたんですが、その間管制塔から、うわー大きな地震です、っていうふうにすごい今までに聞いたことのないような声でそういう情報が入ってきました・・・」百里基地も地震に襲われていた。地震では揺れることでわかるが、待機していた空中からも地震の大きさを実感する光景があった。

3月は花粉の時期

「3月は花粉の時期でしたので山から、もあーっと花粉が上がっているのがわかって、これはすごい地震だなと思ってそこで降りてきました」。着陸しても坂本3佐は地震を感じたという。「降りてきているときでも飛行機が揺れているのがわかるくらい揺れていた」。無事に着陸した坂本3佐が目にしたのは、偵察航空隊がすでに動き出している場面だった。

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「飛行隊に戻ってきたときに、もう偵察に行くっていう準備をしていましたので、それ以降降りた人は偵察の準備だ、という状況です。・・・着陸してからすぐですので発災から1時間半ぐらいで離陸して、津波の状況を見てこいというはなしで、その日は3機で偵察に上がりました。三陸方面、大津波警報がでていましたので・・・」偵察航空隊が被災地の情報収集を始める中、基地自体も被災するなかでの活動となった。「この辺も被災地で停電とかにもあったんですが、発電機を持ってきていましたので発電機をつないで必要なパソコンだとかテレビとかで情報収集をしていましたので、テレビを見ていてひどい状況だなと」。基地内も混乱したことだろう。当時の基地内の様子を語ってくれた坂本3佐も情報収集に飛んだ。そこには訓練で飛行した際に見るいつもの景色はなかった。「初めて離陸したときは、海に見たことのないようながれきが流れていたりだとか、救援物資を積んでいる船がすごいスピードで北に向かっているのが見えたりだとかしました。実際、被災地上空まで行くと今まで飛び慣れたところの街が無くなって、真っ茶色になっていたりとか、陸上に水が入った状態で、壊滅的な打撃を受けているな、という印象がありました。」それ以降、津波の状況を毎日偵察任務で飛行した坂本3佐だが、ある時点から偵察内容が変わったという。

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原発ヲ偵察セヨ

「福島第一の原発の事故がありましたので、それ以降は原発の偵察をしろということで、原発の偵察にも上がりました」原子力の専門家が対応に苦慮する状況下での原発偵察。坂本3佐は当時を振り返りながら、つまびらかに、ある意味では聞いたことのないほど正直に語ってくれた。「当初は放射能の状況だとか、よくわかりませんし、放射能の知識もみんなそんなに詳しくは持っていませんでしたので、真上に行っても良いのかどうか、真上に行ったときに爆発して飛行機に被害があるかもしれないということで、当初は、ある程度離れたところから撮影しろ、というような話がありました」。偵察航空隊の標語は「見敵必撮」だ。見た敵は必ず撮る、だ。だが、放射能という見えない「敵」との戦いを強いられていた。その上フィルムに放射線は大敵だ。フィルム時代には空港のエックス線検査だけでも感光してしまい、油絵の具が水の上に広がるような影響が出たものだ。偵察航空隊にとっては経験の無い「見敵必撮」を要求されていたことになる。それでもRFが搭載している超望遠カメラがあるおかげで、「距離を置いた」撮影が可能だった。カメラの選択肢が多数ある事が、放射線から隊員を遠ざけることを可能にしていた。だが、事態はさらに困難な局面を迎える。

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3号機爆発「もう今離陸しろ」

「たまたま3号機が爆発したときは、ちょうど僕が離陸する予定だったので、前後席でブリーフィングをして、じゃあ何時になったら部屋出て行こうねって話をしていたのですが、そのブリーフィングが終わってちょっと部屋を出た以降に、ちょうど3号機が爆発した映像がテレビで流れて、急遽呼び戻されて、もう今離陸しろ、ということで離陸しました」坂本3佐は原発撮影に向かった。「3号機が爆発した直後に上がったんですけれども離れたところからでも見えるぐらい被害状況がわかりました」緊迫の日々を淡々と語る坂本3佐。その様を見ながら聞いている我々が緊張してくる。しかし、当時の心境を語る上でも坂本3佐の話し方は変わらなかった。

初めて隊長がみんなを集めた

「距離が離れたところで風上側から撮影していたので特に大きなプレッシャーはなかったです。望遠レンズで撮っていましたので、まあ、早くこの情報を撮って持ち帰って必要なところに届けなければいけないというのでやってました。・・・放水するしない、という風になった以降ぐらいから、真上から偵察しろということで、ある程度低い高度で偵察しろという任務がありましたので、そのときもプレッシャーというか撮って当たり前だなと、みんなイヤという人もいなかったですし、でもその時初めて隊長がみんなを集めて「こういう危険な任務だけど行ってくれるか」というのがありましたけど、それに対して異議を唱える連中はいなかったですし、みんな志はある程度高かったのかなと思います。」プレッシャーはない、志は高かった、そう話す坂本3佐だが、日々被災地を飛び、心を痛めた。

今後の復興に役立つという思いで

「実際、東日本大震災を例にして言えば、確かに飛んでいて気が重くなることはありました。さっき行ったがれきのところ、がれきが海にいっぱい流れていて、そこのがれきのところがキラキラしているな、っと思ってひょっとしたらそこに、がれきのところに人が居て鏡か何かを反射させて助けを求めているかもしれないな、ということもあったんですが、実際持っている燃料からすると行って撮って帰ってくると言うのを考えると、このがれきの状況を見に行くような余裕はありませんでしたので、実際そこについては任務優先というところで、そこの撮ってこいと言われたところの写真を撮って持って帰ってきましたので、撮って帰ることが、今後の復興の役に立つという風に思って毎回やってますので、そういう気持ちでやっています。・・・東日本大震災の時には見たことがないくらいの大きな被害でしたので、こみ上げてくるものがありました。けれども自分たちがやっていることは無駄にはならないだろうなって言う復興に少しでも役立てるんだろうなという気持ちがありましたので、そこに関しては、確実に情報を撮って帰ろうというような気持ちでいました。」坂本3佐の淡々とした口調は変わらなかったが、つらそうな表情になったと私は見受けた。

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坂本3佐の後席でナビゲーターを務めていたのが岩山幸樹1等空尉。フライトプランはナビゲーターが中心になって2人で確認するそうだ。そのため、途中の地形などを把握しながら目標が目視できるまではリードすることになる。目視できればパイロットがそこを目指すことになる。だが東日本大震災では被害が広範囲に及んだことが、フライトプランの立案に困難を生じさせていた。

家が浮いていた

「記憶している限りでは具体的にどこが、というのが立てづらかったです。上級部隊の計画としてですね、要するに範囲が広すぎてというところで。飛べる飛行機も3機ぐらい飛んでいましたのでエリアがかぶらないように分担をして広範囲を撮ってくると言うところを意識していました・・・初動につきましては、そこにどういう状況があるかわからないので広域を目視で確認するといったようなところだったと」そうして日々撮影したことで「(要求された地域を)一個一個つぶしていったら海岸線の街ですかね、ほとんど撮ったと記憶しています」実際の撮影は後席が主導するが、岩山1尉も被害を目の当たりにしていた。「川には流された木であるとか、河口付近には家とかが浮いていたと言うところで記憶しています」また、発災当時天候が悪いこともあって、難しい局面があったという。「発災後は天気が悪くて雲の上を行っていたのでどこを通ったかは記憶していません。・・・三陸のあのリアス式海岸なので地形が確認できるまで時間を要したり気象状況で撮れる写真を撮ってきたと記憶しています。」事前に地形の確認をしているそうだが、元々複雑な地形の上、被災したことで街は見たことのない表情になり、いつものようにはいかなかったそうだ。

トレードオフ

後席は写真の撮影を主導することになるが、岩山1尉もフィルムの良さを強調した上で、撮影任務をこう説明した。「主に私達は写真を撮ることになりますので、作業としては撮ってきた写真から情報を読み取る人が居ます。なのでその人が読み取りやすいように。カメラ自体ズーム機能が無いので飛行高度に縛られてしまいます。だから、広い範囲を撮りたいんですがそうした場合ちっちゃい写真になってしまう、見やすいように下で(低い高度で)撮ると狭い範囲にしか撮れませんのでそれのトレードオフですかね。どちらが良いかというところになってきます」何かを捨てて、何かを優先するというトレードオフ。フィルムについてもこう説明した。「フィルムのメリットにつきましてはフィルム自体の粒状性がデジタルよりも細かいので拡大に耐えられるといったところです。どうしても近傍まで行って写真ですかね、データが撮れるとは限りませんので、どうしても距離を取った長距離の場合もあります。そのときはどうしてもひきのばさないといけませんのでデジタルだと、どうしてもドットですかね、拡大するとそうなるのですがフィルムの方は拡大に耐えられるアウトプットになるかと考えられます」そう語る岩山1尉は物静かだ。様々な苦労も困難も、さほどのものに感じさせないほど物静かな口調が印象的だ。さらにその困難に突っ込んだ質問をしても、さらりと「任務ですから」とか「通常任務です」と済ませてしまう。しかし、自らが撮影したフィルムに「家だとか街、流された流木とかがあったり」と、気がかりなままになっていたことも明かした。任務といえども、後ろ髪を引かれることは決して少なくない。岡田隊長の言葉を借りると、皆が同じ思いなのではないだろうか。

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「直接的に我々が被災されている方々を助けることが出来ない。そこがもどかしい。これが、自分がやっている行動が、より正確、より詳細であればあるほど、現地で活動している自衛隊の隊員、地方自治体の方に必ず直結するもんだと思って上空では任務をやっております」

共有できる「何か」がある

地震、津波、原発事故・・・未曾有の災害を毎日それも上空から俯瞰していたのである。任務に当たっている以上、被災地を凝視していることはないだろうが、日々目にする光景が心にのしかかっていたのは疑う余地はない。それでも日々の任務に向かう隊員を支えた「何か」があった。しかし、見えないものと戦いながら「見敵必撮」に取り組み、自らの「もどかしさ」と戦いながら任務に当たる現場の苦労がわかる、というと嘘になってしまう。それでも、復興の一助になることを信じる姿は、自衛隊でなくても、多くの人が共有できる「何か」がある事を明らかにしているのではないだろうか。(続く)

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