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拒否する自由と限界までの距離

いつも、限界の少し手前まで行ってみてはじめて気づくのだ。
「ああ、わたし、これが嫌だったんだなあ」
ということに。

“これ”というのは、たとえば他人からの頼まれごとや、コミュニティの中での役回りや、自分に対して定型になった冗談だったりする。

それは無理ですというような頼まれごとを引き受けてしまうとか。
別にそんな風にしたくないのに、場を盛り上げる役を買ってしまうとか。
冗談にされたくないことをいじられても、笑って乗っかってしまうとか。

要請を拒んだら役立たずだと思われるかもしれない。
嫌われるかもしれない。
拒めば嫌な顔をされるだろう、それを見たくない。

それなら、とりあえずなにもかも請け負って、この場をやり過ごそう。

こうして文字にして書いていると、なんてバカバカしい考えとふるまいなんだろうと苛立ちさえするのに、その場になると全然それが分からない。
脊髄反射的に、他人の要望に応えようとしてしまう。
そうして他人からの良い心証を得て、ホッとして得意になったりするのだ。
本心では、面倒だ、不快だ、やりたくないと思っているのに。

どうせならそういうことが始まる前に、そうでなくてももう少し早めに、「嫌だ」と気づくことはできないんだろうか。
気づいて回避できていたら、苦労はしないのだけど。

この1年くらいの間に、そういう、わたしを不快にする相手2人から遠ざかることに成功した。
ひとりにはそれまでの経緯を説明したが理解されなかった。
もうひとりには説明するのも嫌で無言で距離をおいた。
多分どちらの相手も、わたしが“いきなりキレて”わけの分からない行動に出たと感じていると思う。
実際、それまでにこにこしていたのだから、豹変したように見えるだろう。
それは自覚している。

でも、限界の直前まで行って、崖の先端からつま先がはみ出さないと、わたしはわたしの限界に気づけないのだ。

それが嫌だったと気づくのは、いつも崖まで追い詰められた時だ。
いや、違う。もっとずっと早く気づいているのに、わたし自身がそれを無視している。
わたしを便利に使おうとしている相手から嫌われたくないがために。

書きながらまた段々腹が立ってきた。笑

わたしを不快にしたり、一方的に便利に使おうとする人間とはこれからも出会うと思う。
相手にそのつもりがなくても、人間関係がそういう形に転がることは往々にしてあるし。
「早く返事をしなければ」「相手の利益になる返事をしなければ」と焦る自分を落ち着かせて、自分の快や益を優先して行動したい。

したいと思ってできるようになれば、これまた苦労はしないのだけど。


安全な部屋があり少なくとも路頭に迷うことがない、というのがどれだけ大切なことか、こういうことを思い返すと身に染みる。

わたしは長いこと、拒否を封じられて生きてきた。
他人を拒絶すること、「触るな」と言うことを、封じ込めて生きてきた。
無条件の受容こそが、金を稼いで食って生きるための基本技能だった。
手も脚も髪も乳房も口の中も膣も、明け渡すことが必須だった。
自分を守るために相手を拒んでいては、生活費は稼げないのだ。電気代は払えなかったし、家賃も借金の返済も滞納する羽目になった。

一番はじめにわたしの拒否を封じたのは、性風俗ではないと思う。
でもそれを強化したのは間違いなく性風俗だった。
拒否すると路頭に迷うし、相手を怒らせたら死ぬかもしれないのだから。

自分を守るために相手を拒否したら、
怒られる/嫌われる/怖いことが起きる(かもしれない)。
だったら、今の一瞬だけ我慢してしまおう。

その連続は、自分を守る力をわたしから奪っていった。


今のわたしには安全な家があって、食べることができて、人間関係に拘泥する必要もない。
なので、まあ時間はかかったけれども、自分を不快にさせる事象や相手を拒絶して遠ざけることができた。
それをしても家を失うことはないし、死にもしないので、思い切ることができたのだ。


いい大人なので、他人を拒絶してばかりいては生きられないというのは分かっている(つもりだ。多分)。
でも、もううんざりだなとも思うのだ。

生活保護で生きることが守られている間に、自分がどっちにどう進んだら限界の崖に至ってしまうのか理解したいし、もっとうんと早く、穏当に、「嫌だ」という術を学べたらいいのにと思う。


今日はこんなところ。

では、また。

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