バザー

そもそも市場とは、人と人が出会う場

先日の休日、自宅の近くでバザーが開かれていたので行ってみた。僕の住むタイホー地区はハノイの中心部から少し離れていて、湖が近いこともあり外国人が多く住むエリアである。

バザーでは、ベトナム人による民族衣装や工芸品のお店もあれば、ベトナム料理を食べられる屋台もある。一方でこちらに住む外国人の人も出店していて、チーズや絵葉書、雑貨店、あるいは韓国食材なども販売されている。来ている人もベトナム人はもちろん、フランス人、アメリカ人、韓国人など、このエリアならではの多様な顔ぶれだ。

会場をぶらぶらしていると、同じアパートメントに住むフランス人が家族総出でオレンジジュースを売っていた。一人ひとりのお客さんと冗談を交えながらジュースを作っていて、高校生の娘さんもとても楽しそうに接客している。

「踊る阿呆に見る阿呆」と言うが、市場をうろうろして、猛烈に僕も何か売りたくなった。何かを売ってお金を得たいわけでも、買ってもらいたいものがあるわけではない。ここでお店を出して、いろんな人と話しができたらさぞ楽しいだろうと想像したのだ。

遡ること数週間前のこと、ベトナム北部にあるバックハーという村に行った。ハノイからはバスで5~6時間。中国の国境にも近い山間部で、このあたりはベトナムの少数民族が暮らす村が集まるところとして知られている。この村の見所は日曜日に開催されるマーケットである。周辺の村から少数民族の人たちが集まるのだが、中には3、4時間歩いてくる人もいるという。

市場は、色鮮やかな各々の民族衣装を来た地元の人で溢れている。肉や野菜、果物といった食品から、衣類、籠、食器などの生活用品までそれはそれはありとあらゆるモノが売られている。犬や家畜用の豚まで売られていた。

ここに来る人は、どうやら売りに来る人と買いに来る人が分かれていないようだ。大きな荷物をもってお店を出している人も、他の店に行って買い物している。サトウキビを持ってきて売って、そのお金で衣類とお鍋を買って帰る、そんな感じなのだ。そう、限りなく物々交換に近い場なのである。

この市場は周囲の村に住む人にとって、生活に必要なものを揃えるための欠かすことのできない場となっているのだ。どこの集落も小さいので、その中だけで必要なものがすべて揃うわけではない。週に一度、この市場にもってきて自分たちの作ったものを売り、そして必要なものを買いそろえる。まさに市場が「交換」の場であることが再認識できる。

さらに印象的だったのが、みな綺麗な恰好をしていたことだ。彼らをよく見ていると、特に女性はとても綺麗な民族衣装を着ている。普段もそのような衣類をまとっているのかもしれないが、一張羅を着てここに来ているのではないか。10代の女の子などを見ていると、休日に原宿にやって来る日本の女子高生のように、「おめかし」をして来ている。

なかには、買い物目当てではなく、「デート」としてここに来ていると思われる若いカップルもいる。違う集落の人達とはいえ、毎週ここで顔を合わせていると、きっと知り合いもできる。お友達になる人もいれば、勝手な想像だが中にはカップルも誕生するのかもしれない。

そう、物と物との交換の場が、人と人の出会いの場になっているのだ。

原始的に考えると、知らない人に出会う場とは、物の売り買いの場がほとんどだったのではないか。物の売買を通して人は知り合う。そして新しいネットワークが築かれ、繋がりのなかった集落と集落に関係性が生まれる。

「市場」(しじょう)という言葉を見ると、僕などは、すぐに競争、差別化という言葉と連想してしまう。ビジネス誌の読み過ぎというか、そういう情報をあまた出してきた張本人でもあるのだが、いかに競合に勝つかが市場の命題だと。しかしそれは、高度に発達した市場の一側面に過ぎないのかもしれない。

僕がバザーに行って「何か売りたくなった」のは、まさに、ここハノイで新しい交流が生まれることを期待したからだった。知らない人に物を買ってもらうと、その人から信用された感覚が得られるのではないか。人から信用されると、その地の一員として認められた感覚が得られるのではないか。

もちろん社会のなかで人と人との出合いがある場は市場だけではない。しかし経済活動や市場での行動が、物の売買に向けて効率化が進む一方で、本来果たしてきた役割の一部が失われてきたのも確かだ。自動販売機はもとより、クリック一つで購入できるネットショッピングも、あたかも人間が介在しないような購買体験である。市場は人と人が出会うという機能を取り戻すか。それとも、人と人が関係をつくる機能として、市場に変わるものが発達するのか。


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