16-3山居倉庫

宿のご主人は「東京で画商をしていました」――山形県酒田市にて

気仙沼ニッティング「東北探検隊」17日目は山形県の酒田市へ。
「いらっしゃい。長旅ですか?」
宿に入ると、滑舌のいい大きな声でこう話しかけてくれました。昔相撲でもされておられたかのような巨漢のこの方は、「日和山ホテル」のご主人でした。ちなみに、お相撲さんではなく高校時代の応援部だったとのこと。
旅人を親身にかまったくれる方です。宿帳に名前を記入しながら「酒田は初めてなんです」と話すと「この町は昔、物流の港町として栄えた町で『西の堺、東の酒田』と言われていました。江戸時代には、・・・・・・」と町の説明をしてくださる。しかも流暢で、年号なども正確に話される。思わず「ご主人、なんでそんなにご存知なのですか?」と聞いてしまいました。

この宿の仕事をする前は、「東京で画商をしていました」と仰います。地元の高校卒業後、バンカラにあこがれて東京の大学に進学。作家志望ということで文学部に進まれました。ところが、学生時代にヨーロッパを放浪していたら、気がついたら、東京で画商の仕事をしていました。旅先で覚えた英語、フランス語、イタリア語を駆使し、独自の目利きで百貨店などに絵画を卸していた。自分で自分の道を切り開いてこられた方です。

40歳の頃、地元酒田の同級生から連絡が相次ぎ、それがきっかけで、これまで地元を拒絶していた自分に気がついたそうです。「20年間、自分や家族のことで精一杯で、地元のことを考える余裕がなかった」そうです。その後、自ら東京で高校の同窓会を開くなど、酒田に対する自分のアイデンティティを再確認することになりました。
「ヨーロッパに行くと、自分が日本人であることを強く意識します。同じように東京にいると、自分が酒田の人間であることを意識するんです。それをあえて拒絶してこれまで生きて来たことに気がづいたんです」。

「地元に恩返しをしたい」と思った後は、持ち前の実行力を発揮されます。東京から酒田に戻って来て、地元でさまざまな活動を開始しました。いまから10数年前のことだそうです。街中にネット接続の基地を設置したり、地元の閉店したキャバレーを市民が音楽を楽しめるようなイベントを開催したり、東日本大震災の時には、被災地の子どもたちに玩具を届ける活動を立ち上げた。NPO法人をいくつも立ち上げ、酒田市の活性化に尽力されてこられたのです。

親から引き継いだ宿の仕事が忙しいにも関わらず、いまでも地元の活動に熱心です。酒田を題材にアート活動をしてくれる美大の学生には無料で宿を提供する「アート・イン・レジデンス」という活動も始め、県内や東京の美大生がこれまで泊まりに来てくれたそう。

「宿の仕事としては関係ないかもしれないけど、地元の活動をすればするほど、不思議と宿の仕事も回るんです。誰かに何かをしたら、回りまわって帰ってくる。地元にもどってそれが分かりました」と。

「20代や30代の人が、地元に残っても希望がもてる町にしたいんですよ」と熱く語る姿は、まるでスタートアップ企業の経営者にようでした。「酒田は大陸に向かって開けた町。だから、昔から進取の気質をもった人が多かったんです」と。確かに酒田市は写真家・土門拳さんの出身地である。
お話しがあまりに面白く、宿帳に記帳してから部屋に入るまでに1時間半も経っていました(笑)。その間、出入りするお客さんに、かならず名前を呼んで声を掛けられます。常に人と正面から向き合う人。翌朝もまた1時間、お話しの続きを伺いました。

***この日見て風景から(山形県酒田市)***

山居倉庫。かつて屈指の貿易港と栄えた酒田市の象徴。

山居倉庫の中

地元出身の写真家・土門拳記念館。日本初の写真専門の美術館。

酒田を支えた豪商・本間家旧本邸。米の相場師・本間宗久が編み出したローソク足チャートの考案者と言われる。

酒田市の市街。映画『おくりびと』のロケ地に。

酒田市市街。地元で人気の居酒屋。

酒田市市街。通称「舞子坂」。段差が低く登りやすい。

酒田市市街の街灯。

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