「ラオスにいったい何があるというのですか?」

「ラオスにいったい何があるというのですか?」
これは村上春樹氏の紀行文集の書名である。ちなみに、この本はラオスだけでなく、ボストンやフィンランドなどの旅行記をまとめたものだ。そして、この本の中で、村上氏がラオスに向かう途中ベトナム人に言われたのが、この言葉である。

タイと言えばトムヤンクン、マッサージ、カンボジアと言えばアンコールワット、ベトナムと言えば、生春巻き、フォーなどと連想するものが出てくるが、ラオスで日本人が連想するものがほとんどない。隣の国のベトナム人にとっても「何がある?」と思われているのがラオスである。

そんな国に僕はいる。この言葉の意味することがようわかる。来る前の予備知識もほとんどなし。実際に住んで見ても「ラオスに何があるのですか」と言われて、簡単に答えられない。ここ首都ビエンチャンには、世界的な観光名所はない。スタバもマクドナルドもなければ、セブンイレブンもない。電車もなければ、バスは一時間に1本で、タクシーもほとんどいない。

そんなないものづくしの町にいて、この村上春樹さんの書名の言葉を何度も噛みしめる。村上氏はこの言葉から、何があるのか分からないところに行くのが旅というものだ、という趣旨のことを書いている。僕はこの言葉に、日々試されているような気がする。ここに来て最初の1か月ほどは、ここでの生活を楽しめなかった。

ここ首都のビエンチャンには、ボーリング場があるそうだ。どうやら最新鋭とはいえない、場末の何ともいえない残念なボーリング場らしい。旅行者向けのSNSサイトでの、このボーリング場のコメントが面白い。誰も絶賛しておらず、誰も全面否定していない。たいして思い出のある経験にならないようだが、否定されない理由は「pastime(暇つぶし)としていいよ」というコメントに代表される。

ビエンチャンにはバックパッカーが多い。彼らは長期間ここに滞在するが、行くところがなくなり、やることがなくなり暇をもてあますとこのボーリング場に行くようだ。そして、書き込みの行間には、「ここに行ったら負けだよね」という皮肉が漂う。ここでの面白いことを見つけられなかった人がいく場所、それがこのボーリング場が代表しているようだ。

「ラオスにいったい何があるというのですか?」。
僕がラオスでの生活を楽しめなかったのは、2つの理由がありそうだ。
ひとつは、その前住んでいたハノイと比較していたからだと思う。ハノイの英語学校、カフェ、パン屋さん、バーベキュー屋さんなどなど、楽しい思い出となった人と場所に代わるものを無意識に探した。面白くなってきたのは「ない」状態に浸り、そこから考えるようになったからだ。そこから、「ラオスならでは」が見えてきた。

もう一つは、受け身だったからだ。東京などの都会にいると、町が僕らにたえず何かを訴えてくる。それらはコマーシャリズムに基づいた購買意欲を掻き立てるものだけでなく、町を歩くだけでさまざまな提案を受けている。僕らは受け身でも多くの情報がやってくる。ラオスは人に干渉してこない国である。しかし、閉ざされているわけではなく、踏み込んでみると中まで入ることができる。

「ない」ものを見つけるのは簡単である。引き算をすればいい。「ある」ものを探すのは簡単なようで難しい。ここにあるすべてのものはここにしかないものだが、それらを「ここならではもの」にするのは、受け取り手にかかっている。それは何かとの比較から見つけるものではなく、向き合って感じるものである。「ある」とか「ない」は、ものや場所の問題じゃない。自分にあるのだ。自分が動くことで見える風景が変わってくる。

ラオスにも流れる時間があり、ラオスの空気、ラオスの風、ラオスの夕日がある。そこで何かを感じ自分、何かを考える自分もいる。一つのことに考えをめぐらす自分も、ぼーっとする自分もラオスだ。すべては僕ら次第である。ボーリングに行って負け感を味わうのなら、それもラオスである。

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岩佐 文夫

#エッセイ 記事まとめ

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