「好き・嫌い」のほとんどは「慣れ親しんでいるか否か」ではないか

ハノイに来て毎日のようにベトナム料理を食べている。もちろん日本でもベトナム料理を食べたことがあったが、好きでも嫌いでもなく、自分で好き好んで食べに行くことはほとんどなかった。そのため、フォーや生春巻き程度しか知らなかった。

こちらに来て、いろんなベトナム料理を知ることになる。ブンチャーという麺料理は、日本のつけ麺のようなもので、つけ汁の中に焼いた豚肉が入っていてとても香ばしい。お米の麺と一緒にレタスやミント、大葉など大量の葉物野菜を食べるのだが、つけ汁との相性が抜群である。

バインセオは日本でいうお好み焼きである。ライスペーパーに包んで食べるのだが、具材が口の中で溶け合う味わいは病みつきになる。

こうやって何度もベトナム料理を食べていると、好きでも嫌いでもなかったものが、好きに変わってきた。それはもちろん、日本人の口に合うということや、僕の好みに合うという点も大きいと思う。しかしそれ以上に、繰り返し食べて「馴染む」ことで、好きになるという現象があるのではないか。

控え目に言っても、好きと嫌いの分かれ道は、実はちょっとした最初の「好感」の差ではないか。最初にフォーを食べた時に「あ、いいな」と思ったとする。するともう一度食べようとなり、それもよかったとなれば、繰り返しフォーを食べるようになりそのうちに「フォーが好き」となるのではないか。逆も然りで最初にちょっとした「あれ?」を感じて、もう一度食べようとしなくなる。そして、そのうちに「嫌い」と認識してしまう。

嫌いなものを無理に好きになる必要はないが、食べ物に限らず自分が「苦手」だと思っているものは、実は経験した量が少ないだけで、慣れ親しんでみると苦手ではなくなることが結構多いような気がする。

慣れているものは安心である。口の中に入れてみるまで、何の食材なのか分からないということはない。いわば、コンフォートゾーン(居心地のいい世界)に浸っている状態である。よく知っていることは自分で評価基準も出来上がっており、ラーメンが好きな人はどんなラーメンを食べても自分なりの判定を下すことができる。

僕がこちらでフォーを最初に食べたとき、特に印象がなく「どの店も大きな差はない」と思っていたが、そのうち繰り返し食べるようになり「この店は美味しい」などとも思えるようになった。フォーが好きか嫌いか、というよりフォーに慣れ親しんできたのである。

この「慣れる」という行為はよくわからないことを繰り返すことなので、そのプロセスは決してコンフォートゾーンではないし、意識的な行動が必要になる。しかし、そのプロセスを経ることによって、よくわからなかったものを好きになったり、自分で判断基準が持てるようになったり、苦手だったものがなくなったりする。これは、自由を一つ手に入れることではないか。

僕は小さい頃、こんにゃくが苦手だったので、おでんも豚汁も避けていた。次第に苦手意識がなくなり、いまではこれらも好きなように食べることができる。大袈裟な言い方ではあるが、つまり、僕はこんにゃくに慣れ親しんだことで、自由を一つ手にいれ、人生の選択肢が増えたのだ。同時に避けるべきものが少なくなったことで、見える世界が広がったのだ。

慣れていないことをやるのは、誰でも不安だし、手間である。とりわけ年齢を重ねるだけで、新しいことを経験するのがさらに億劫になる。それは、すでに自分が好きなものが多く見つかっているので、いまさら新しい「好き」を見つける動機が弱くなってしまうからである。しかし、自分の好きなこと、慣れ親しんだこと、コンフォートゾーンの中だけで生きていると、人生の選択肢は広がらない。人はその気になれば、いつでも新しいものに慣れることはできるし、人生の選択肢を広げることができる。

(追記)
最初の写真はブンチャー。
ベトナム料理でときどき見かける「カエル」をまだ食べていません(笑)。


この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

99

岩佐 文夫

ハノイ滞在日記

2018年3月19日から3か月の予定でハノイに短期滞在します。現地で感じたことを書き残す。
3つのマガジンに含まれています
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。