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上手な素人とプロとの決定的な違い

先日ボランティアで、ある映画のロケに同行し運転手の役割を担った。動機は、映画のテーマに共感し、映画作りの現場に興味があったからだ。

初めて体験するロケ現場は想像以上に興味深かった。それは緻密な作業の連続である。移動するクルマを撮影するシーンでも、撮影場所をいくつも変えるのはもちろんのこと、前後の車の行き来、さらには太陽が雲に隠れていないかなど、実にチャック項目が多い。スタジオでの撮影ではないので、こちらでコントロールできる部分が少なく、その分、調整しなければいけない変数が増える。言い換えると、想像以上に丁寧に撮影しているのだ。実際にはどのカットが使われるかわからない。しかし、ロケのやり直しは不可能に近いので、その場であらゆる可能性を検討して、選択肢となりうるカットを収めようとする作業の連続なのだ。

百聞は一見に如かず。こういう現場を一度でも見ると、テレビや映画などプロが製作した動画の見方が一変する。いまでは画面の奥に移る些細な動きにも注目するようになった。

撮影現場のリアルを感じるとともに、改めて実感したのはプロの仕事についてである。撮影班は、いわばプロフェッショナルの集まりである。監督はもちろん、俳優、そしてカメラ、音声など、それぞれの専門家が連携しながら自分たちの仕事をこなしていく。

そんな中、「運転手」という役割を担ってはいるが、プロの運転手ではなく、ましてや映画作り何のプロフェッショナルも持ち合わせていない自分は、正直、居心地が悪かった。「運転手」を買って出たのは、多少なりとも運転に自信があったからだ。クルマ好きというよりとにかく運転が好きなので、疲れても交代してもらいたいと思うことはほとんどないタイプだ。自分がハンドルを握ることを楽しみ、どんな車種でも躊躇なく運転してきたし、苦手意識は皆無であった。しかし運転が上手いのと、プロであることは似て非なるなるものであった。

僕は当日から「言われるままに運転すればいい」という気持ちだった。行き先の詳細も事前に細かく聞こうともせず、当日に指示された通りに運転しようと考えていた。この時点で、プロ意識に欠けていた。そのため、当日はスタッフの人が行き先をナビに入れてくれたり、所要時間を調べてくれたりしてくれて、ハンドルを握ってはいたものの、「移動」についてのほんの一部を担ったに過ぎない。

こちらも段々と段取りは掴んで、途中からは機材のおろしやすい場所は位置を考えたり、休憩時間の取り方も考えるようにはなったが、どこまで戦力になったかは甚だ疑わしい。

改めて思ったのは、プロを雇うとは、ある一定の範囲を「任せる」ということである。カメラマンが撮影を担い、音声係が音源の質を担う。それによって、他の人はそれらのことに神経を使わなくていいので、自分の仕事に集中できる。この連載によって組織は機能的に動ける。「組織とは役割の束である」という言葉があるが、担う役割があるからこそプロ組織の一員となれる。担うための条件は、周囲の人に「任せて安心」という心理的な安心感を与えることである。

この映画ロケの数日後、都内のイベントに登壇する機会があった。僕はパネルディスカッションのファシリテーターという役割であったが、このイベントにはプロのアナウンサーが司会者を務めた。プロの違いは控え室から如実に現れていた。誰よりも早く控え室に入り、彼女は原稿を入念にチャックしていた。名前や肩書きなどの読み方はもちろんのこと、開始から終了までの段取りを丁寧に口頭で確認してくださる。この間、主催者は任せっきりで、控え室よりも会場の様子をチェックしている。つまり、プロの司会者を雇うということはこういうことなのである。単に話し方が上手いだけではこういう仕事を任されない。彼女は、きっと主催者や周囲の人に「進行を全て任せられる」という信頼を得ているからこそ、こういう仕事を任されるのであろう。

「すべてを任される」ためには、あらゆる状況に対応できなければならない。それだけのシミュレーションを事前にし、考えうる想定事項への対応も済ませて本番に挑む。順調に進めば、きっと用意したことのほとんどは使われないであろう。それでも用意し本番に挑む人が「任せられる」存在と言われるのではないか。

プロフェッショナルには、一定のスキルや能力が要求されるが、求められるのではそれだけではない。周囲の人に「任せられる」という安心感を与えられるか否か。これがプロフェッショナルかどうかの分かれ道である。

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