これまでの書き言葉と話し言葉との付き合いについて

日頃のもやもやを整理するために日記を書いてみてはどう?と0円ハウス主催の村上さんに勧められたので書いてみることにした。私は元々そんなに文章を書く方ではないし、書くのに時間がかかるし書く作業が最近は面倒に思えて更に全く書かなくなっていたのだけど、時間はあるわけだし、やってみることにした。この話の流れのまま、私が今まで書き言葉や話言葉、活字とどう付き合ってきたかを題材にして書いていくことにする。

書くことから遠ざかっていたのには他にも理由がいくつかある。自分の文章が自分で読んでてつまらないのと、オンラインに接続すれば同じ様なことを考えたり思ったりしている人はいくらでもいるので自分が書く必要性を感じなくなっていたこと、SNS、特にLINEでは短文を好まれるしオンライン記事の傾向としても短文でわかりやすいものが多い印象があったのでそれに随分と影響されていたこと、今思いつくのはこれくらいだ。

そして今こう書いていて気がついたことだけどオンライン活字の世界に自分は結構毒されていたみたいだ。自分が書くというアウトプットだけじゃなく、インプットに関しても長文から遠ざかっていた。自分自身は多少難解でも中身があるそれなりの長文になるべく触れたいと思っているのに、スマホで活字を摂取する生活を長くしていたせいでそれらから余計に遠ざかっていた。Twitterやサイトの記事など、オンライン上に溢れかえるファストフードの様な気軽に読める雑文を読んで惰性的に活字欲を満たすことが多くなった。

そんな風にスマホで無料の軽いカジュアルな記事を読んだり、SNSを使って活字欲を満たす様になったのは体調が悪化して大学卒業と同時に東京から九州の実家に療養のために戻ってからだ。元々読書量は多くなく、新書は好きでよく読んでいたけれど断然漫画や雑誌の方が好きだった。子供の頃は歳の離れた上の姉兄の漫画や雑誌を没頭して食い入る様に読んでいた記憶がある。

東京にいた頃は環境が環境だけにあらゆる活字と触れ合う機会が意識せずともあったし、まだ携帯電話の時代だったのでスマホに全てが集約されているわけでもなかった。九州の田舎というのか郊外と言うのか、人口6万人ほどの、モールがあってその他店というと飲食店と美容院という場でお金をかけずに活字にふれられる場というと小さな図書館くらいだ。だけれども田舎で平日昼間に出入りするのは私の場合人目がとても気になってしまって東京にいた時ほどは利用せず、よってオンラインの比重が自ずと圧倒的に高くなった。それに加えて私は小学校低学年から高校まで不登校で、実家のある地域にはまったく友達がいなかったし、新しく知り合ったとしても何故か長くは続かなかった。東京から戻ってきた当時の自分には九州で知り合った人には何か物足りなさを感じたし、九州のノリや雰囲気にも馴染めなかった。なので実際の話し相手もいなかった。元々17歳くらいから人と交流するのが好きだったのでこの実家での療養期間にはリアルではなくSNSでの人との交流に多大な時間を費やしていたなと振り返って思う。

当時使っていたSNSは主にmixiとskypeで、mixiでは今書いている様な日々思ったこと、日記を書いていた。skypeではいろんな国に住んでいる人と英語で主にテキストチャットで話していた。音声通話は聴き取りが全然出来なかったのでほとんどしなかったけれど、テキストチャットのおかげでよく使うフレーズはたくさん覚えられたし、英語での文章の組み立て方も身についた。オンラインなことをいいことに変な人も沢山いたけれど取り合わなければすぐにいなくなったので私にとってはskype は外国人との楽しい交流の場だったし、英語を習得するのに良い環境だった。

しかしこう振り返ってみるとそれなりの弊害もあったのだなと思った。SNSで文章を書くとなると人の目があるので例えば政治的な内容のものは書きづらくなるし、いろんな立場の人に配慮するとだんだんのびのび書けなくなっていた。小沢健二の歌の歌詞とは違うけれど、ありとあらゆる人のことを考えると何も言わないのがいいのではという気持ちになってきてだんだん萎縮して書かなくなった。さみしがりやだし人と交流はしたいけれどぶつかりたくない自分はFacebook に移行してからは余計に書かなくなり、日々の思うことはLINEで話す様になった。

本当に久々にこうやって文章にして自分の気持ちを外に出してみると体に入ったままの体験や気持ちを排泄するような感覚で集中も出来るしすっきりする。自分は多人数の場で話すことに苦手意識があって、話はしたいけどうまく話せないし、声が大きい話し好きな人がその場の主導権を握って話し続けていると、目立ちたがり屋なので面白くない気持ちにもなる。とはいえそういう場での快適さや立ち位置をいまだに見出せていない自分にこそ改善点があるわけで、話したがりの人は話すわけで、人のせいには出来ないし人のせいではない。そうやって人前で自分の思うように話せないのもあり10、20代の頃は自然と自分の悩みやもやもやを紙に書いて発散していた。

しかし歳を取るとともに文章を書きたくなる様な刺激や出来事も減っていったし、若い頃は考え事をするのが好きであれこれ考えていたものだがその考えたことをそんなに文章にもしてこなかった。そして自分は何万字も量のある文章は書いたことがない。卒論も書き方が分からず形だけ整えて提出した。文章を書くのは嫌いではないけれど、なにぶんさみしがりやの交流好きなので文章を1人黙々と書くより会話や対話の方に意識やエネルギーが自然と向かう。なので窮屈さを感じながらもブログではなくSNSにずっと書き込んできたのだろう。また何かについて長い文で書きたいという情熱や気持ちも特になかった。

療養を終えて東京でまた暮らし始めてからもオンラインに偏った生活は変わらなかった。10代の頃住んでいた時にいろんなとこを見て回って十分文化的なものにふれていたし、30代も半ばになっていた自分はもうそういった刺激を求めてもいなかったので、美術館に行ったり、オルタナなスペースに行くこともめっきり減って、専業主婦をしていたので家にいることが多かった。かつ物をなるべく所有したくない、身軽でいたいミニマリストなところもあるので本も滅多に買わなくなった。活字だけではなく文化全般に対して興味も接する意欲もめっきり薄らいでいた。2015年くらいから消費型の所謂普通のライフスタイルから脱却して生きるために移住先を日本全国見てまわる様になり、その行く先々で紙の本を読んだり、実際に会って交流する機会が以前の様に増えた。そして今この0円ハウス生活でもその傾向が続いている。スマホより自然の風景や土の方に勝手に意識が向く。オンラインに溢れている活字のすべてが雑文ではないし、読もうと思えば論文だって読めるしKindleも青空文庫もある。だけど元々そんなに読書しない自分は雑文をぼんやり読んでぐだぐだ過ごしてしまう。元々漫画や雑誌が好きだったわけだから変わっていないと言えば変わっていないが、紙媒体が主流だった頃に比べて記事や文章の質は落ちている様な気がする。少し話が脱線した。

書き言葉にせよ話言葉にせよ、アウトプットを躊躇してしまうのには他にも理由がある。うちの親は子供に関心がないので、例えばこの本が面白かったと勧めても特に読みもしない。そういう環境で育ったので周りの人は自分に興味を持っていないんじゃないか、という思い込みもあり、自分のことを話すというアウトプットがおろそかになって話をしていてもつい聞き役になってしまう。そして昨今は情報過多で多くの人が話したい人の様に思える。聞くのが好きな人はあまり見かけない。自分にしか興味がない人も少なくない印象だ。

いつだったかずっと前に聴くことが大事だと何かに書いてあったのを読んで、私は外で働いていないし人の話を聴くことで役に立てればいいなと思いよく人の話を聴くようにしていた。元々そんなには話さないし、口は災いの元とさらに慎む様になった。しかし今ではその聴くことが自分の負担や大きな疲れに繋がっている。今は外で働いたり自給自足に近づく様自分の生活をつくっているのだし、自分の体調のためにも積極的に話して上手い具合に聴かない技術を身につけるつもりだ。

10代後半から今までの、約20年間の言葉との付き合いについて書きたい分だけ書いてみた。何が誰に響くかはわからないし、投げてみるだけ投げてみようという気になった。そして書いていると世の中や人に伝えたいこともそれなりにあることに気がついた。そして文章なら会話と違って遠慮なく言いたいだけ書きたいだけのことが書けるし、これは自分の心のケアになるということに気がついた。なかなかうまくちゃんとは書けないけれど、これからもこの調子で書き続けていきたいと思う。


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