スマホとストリート

子どもの頃から場、居場所のなさという困難を抱えていた。8才で完全に不登校になり、学校という場を失う流れに勝手になった。10才で引っ越した母の実家はあれこれあった家庭の事情でずっと居心地が悪く、私はそれから心地よい場を失った。そしてそんな風に自然な流れで自分は東京の街に流れ着くしかなかったのだった。仕送りをもらいながらの親公認の家出生活の始まりだ。

私が東京に住み始めた1997年、その頃の東京にはストリートがあった。場があった。リアルがリアルだった。今はどうだろう。今の現実、リアルはスマホの中に半分以上があるような気がしている。人同士がスマホを通して知り合うことも増え、路上や電車、お店などのリアルな場での出会いややり取りはおそらく減っているだろう。場や居場所がオンラインにも存在する様になったのだから当然の流れだ。またオンラインというのは物理的距離も超えてしまう。遠く離れた海外に住む友人とも毎日テキストチャットできる日常になった。たまに送っていた手紙や葉書も送ることは随分と少なくなった。

リアルな場、居場所の存在意義は薄まっているのだろうか?私はそうは思わない。むしろ以前より濃くなっている場合もあると思っている。オンラインの顔の見えない関係性というのは他人も自分と同じ人間、存在だという事実を忘れてしまうところがある様だ。表立っては言えない様な言葉や思いがオンライン上には文字として溢れかえっている。それを鑑みると実際に人同士が出会って交流することは、人が人を深く知り、表層的な理解ではなく、根底で我々は繋がっているということを知る為の1番の方法なのではなかろうか。

オンラインを否定するわけではないし、今の時代うまく付き合っていかなければならないものだけど、90年代に青春時代を過ごした自分としてはなんだか情緒がない様でさみしくもつまらなくも感じる。海外に行ったって今はスマホで何でも調べられるので現地の人にたずねる必要も減ってしまった。

肯定的な受け取り方をするなら、オンラインという場が生まれたことで場に多様性が生まれたし、ノマド化が加速して場から場への移動がリモートワークなどで促進され、場の持つ物理的性格から自由になった。私が思うにこれからますます場というのは解体されていく。学校も会社も解体する。そしてサードプレイス、第3の場の重要性はますます高まるし、自然発生的に増えるだろう。そんな希望的観測をもってこの文章を終えることにする。ここ20年の場の変遷を私的に簡単にまとめただけのつまらない文章になってしまった。読めば暇つぶしくらいにはなるかも知れない。場についてはまだ語りたいことがありそうなので次はもっと深めに語りたいと思う。

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