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若年者へのトランス医療問題で訴訟をおこしたキーラ・ベルさん、自身の歩んだ道のりを語る

欧米諸国では、10代または更に幼い子どもへの性別移行医療の問題が注目されるようになりました。キーラ・ベルさんは10代で女性から男性にトランスして、その後、脱トランスしました。彼女は2020年にこの問題について訴訟をおこしました。キーラさん自身が、なぜ彼女が若くしてトランスし、そして脱トランスしたのかを語っています。

マイ・ストーリー   キーラ・ベル 4月7日
 

2020年12月の画期的な判決の後、世界中の人が「キーラ・ベル」という名前を引用しました。ある人は称賛をもって、ある人は敵意をもってです。

幼い頃から、私の家庭生活は不幸でした。私の両親は、白人のイギリス人女性と黒人のアメリカ人男性で、父がアメリカ空軍でイギリスに滞在しているときに一緒になったのですが、私が5歳くらいのときに離婚しました。母は福祉制度の利用者となり、アルコール中毒及びメンタルの病気になってしまいました。父はイギリスに留まりましたが、私や妹との関係は感情的に距離を置いたものでした。

私は典型的なおてんば娘でした。ロンドンから1時間のところにある人口3万人ほどの町、レッチワースでの幼少期の生活においては、おてんばであることは健全な部分のひとつと言えました。子供の頃から、私は男の子に受け入れられていました。典型的な男の子の服を着て、運動もしていました。自分のジェンダーを意識したことは一度もありませんでした。

しかし、思春期になると、すべてが悪い方向に変わりました。多くのティーンエイジャー、特に女の子は、思春期に苦労するものですが、私はそれを知りませんでした。お尻や胸が大きくなるのを嫌がるのは自分だけだと思っていました。その後、月経が始まりましたが、私の月経はたいへん重く、痛みと体力の消耗が激しくなりました。

また、私はもう "男子の一員 "では通らなくなり、男友達のコミュニティにいられなくなってしまいました。しかし、女子の中にも自分の居場所がないように感じていました。母のアルコール依存症がひどくなり、家に友達を連れてきたくないと思うようになりました。最終的には、家に呼べるような友達もいなくなってしまいました。私はますます疎外感を感じ、孤独になっていきました。引っ越しが多かったので、何度も転校して一からスタートしなくてはならず、問題はさらに大きくなりました。

14歳になったときには、ひどく落ち込み、私はいろいろなことをあきらめていました。学校に行くのも、外に出るのもやめてしまいました。ただ部屋にこもって母を避け、ビデオゲームをしたり、好きな音楽に没頭したり、インターネットをしたりしていました。

また、別のことも起こってきました。女の子に惹かれるようになったのです。私は「レズビアン」という言葉にも、女の子同士が付き合うということにも、良いイメージを持っていませんでした。自分には何か先天的な問題があるのではないかと思いました。その頃突然、母から「男の子になりたいの?」と聞かれましたが、言われるまではそんなことは私の頭の中にありませんでした。そして、女性から男性に性別移行することについてのウェブサイトを見つけました。その直後、私は父とそのパートナー(当時)と一緒に暮らすことになりました。父のパートナーは私に母と同じ質問をしました。私は自分が男の子だと思っていて、男の子になりたいと思っていることを話しました。

振り返ってみると、すべてのことが重なって、「女になるのをやめよう」という結論に私は至ったのです。ホルモン剤を摂取すれば、背が伸びて、生物学的には男性とあまり変わらないようになるのではないかと、私は考えたのです。

そこで、NHS(National Health Service、国民保健サービス)を利用して心理学者に相談しました。どうしても男の子になりたいと言い続けたため、15歳のとき、ロンドンのタビストック&ポートマン・クリニックの「ジェンダー・アイデンティティ・デベロプメント・サービス」(Gender Identity Development Service, GIDS) に紹介されました。そこで私は、生物学的な性別と認識されているジェンダー・アイデンティティとの間に不一致があるために心理的苦痛を感じる「性別違和(gender dysphoria)」と診断されました。

タビストックに行ったときには、私は自分について性別移行する必要があると断言していました。それは、10代の若者にありがちな大胆な主張でした。実際のところ私は、自分の体に自信がなく、親に捨てられた経験があり、仲間から疎外感を感じ、不安や鬱に悩まされ、自分の性的指向に悩んでいる、ひとりの少女でした。

ソーシャルワーカーとの表面的な会話を経て、私は16歳のときに思春期抑制剤(puberty blocker)を投与されました。その1年後には、テストステロンの注射を受けはじめました。20歳のときには、二重乳房切除術を受けました。その頃には、体格も男性的になり、声も男性的、ひげも男性的になり、名前も男性的になっていました。クインシー・ジョーンズにちなんでクインシーと名乗っていました。

しかし、移行が進めば進むほど、自分は男性ではないし、これからもそうなることはないと実感しました。最近では、性別違和を呈している人は、その人の「本当の自分」を反映していると言われ、性別を変えたいという気持ちは定まったものになっていると言われています。しかし、私の場合はそうではありませんでした。大人になるにつれ、性別違和は私の全般的な不幸の原因などではなく、私の不幸がひとつの症状となって表れたものだったのだと認識しました。

男性への医学的な移行を始めてから5年後、私はデトランジション(元の性別に戻ること、脱トランス)のプロセスを開始しました。トランスジェンダー男性(※元の性別は女性)の多くは、テストステロンの量が多いと泣けないという話をしますが、私もその影響を受けました。感情を解放することができなかったのです。自分がキーラに戻りつつあることを示した最初の兆候のひとつは、ありがたいことに、ようやく泣けるようになったことでした。そして、私には泣きたいことがたくさんありました。

私が受けた性別移行治療の結果は、非常に重いものとなりました。不妊の可能性、乳房を失って授乳できないこと、萎縮した性器、永久に変わってしまった声、顔の毛などです。タビストック・クリニックで診察を受けたとき、私はあまりにも多くの問題を抱えていましたが、解決しなければならない問題はたった1つだと思うと安心できました。つまり、私は女性の体を持つ男性なのだと考えればよかったのです。一方、専門家がするべきだった仕事は、ホルモン剤や手術ですべてが解決できるという私のナイーブな希望を肯定することではなく、私の抱えていた病的状態をすべて考慮することでした。

昨年、私はTavistock and Portman NHS Foundation Trustに対して、原告として司法審査請求をおこないました。司法審査とは、英国の公的機関が法的義務に違反していると判断した場合に、請願者が訴訟を起こすことができる制度です。司法審査が成立することはほとんどなく、完全な審理が行われるのはごく一部です。しかし、今回の裁判では、3人の高等裁判所判事が、クリニックで治療を受けている若者が、このような医療介入に意味を充分わかったうえでの同意をすることができるかどうかを検討しました。

私の訴訟チームは、タビストック・クリニックがそのサービスを求める若い患者を保護することを怠り、慎重で個々人に合わせた治療をおこなう代わりに、私たちを対象とした無秩序な実験を行っていたと主張しました。昨年12月、私たちは満場一致の勝訴判決を得ました。判決では、タビストックの最年少の患者が、人生を左右するような実験的な治療の意味を理解できたかどうかについて、深刻な疑問が示されました。

裁判官は判決の中で、タビストッククリニックで行われていたこと、特に患者に関する基本的なデータを収集していなかったことに対して、何度も驚きを示しました。10歳の子どもに思春期抑制剤を投与することについて、根拠がないことを指摘しました。この治療に引き続き、世界中と言っていいほど多くの国々では、異性のホルモンを投与します。異性ホルモンは性別移行を維持するために生涯服用しなければならないものです。また、「この治療法は実験的であり、大きな影響を与えるものである」という点で、追跡調査のデータが不足していることも懸念されました。

注目すべきは、性別違和の治療を求める少女の数が増えていることです。2009年から2010年にかけて、ジェンダー・アイデンティティ・デベロプメント・サービスに紹介された子どもは77人で、そのうち52%が男の子でした。その比率は、数年後に全体の紹介数が急増したことで逆転し始めました。2018-19年のイングランドでは、男の子の紹介数は624人で、女の子は1,740人で、女子が全体の74%を占めました。紹介者の半数以上は14歳以下の者で、中には3歳の者もいました。裁判所は、タビストック病院の医師が、女児の急激な増加について「臨床的な説明」を行っていないことを指摘し、思春期抑制剤を開始した患者の年齢に関するデータを収集していないことに驚きを示しました。

今回の判決は、未成年者が医学的な性別移行を始めることを完全に妨げるものではありません。しかし、裁判官は、16歳から17歳の患者に対しては、治療を開始する前に裁判所の許可を得ることを検討するよう勧告しました。また、14歳と15歳の患者が治療の結果を十分に理解して同意できるかどうかは「非常に疑問」であり、13歳以下の患者に対しては「非常に可能性が低い」と結論づけました。

これを受けてNHSは、タビストックが「16歳未満の者への思春期抑制剤と異性ホルモンの新規紹介を直ちに停止し、今後は裁判所が明確に許可した場合にのみ認められる」と発表しました。タビストックはこの判決を不服とし、裁判所は6月にその控訴を審理する予定です。

私が16歳のときに受けた思春期抑制剤は、私の性的成熟を止めるためのものでした。これ以上の性別移行を続けるかどうかを考えるための "小休止 "という考えのもとでそうしたのです。このいわゆる「休止」によって、私は更年期障害のような状態になり、ほてりや寝汗、頭のぼんやり感を感じるようになりました。このため、自分が何をすべきかを明確に考えることが難しくなりました。

この治療を1年間続けた後、男性ホルモンであるテストステロン投与に移行するという選択肢が提示されたとき、私は飛びつきました。老婆ではなく、若者のような気分になりたかったのです。注射を開始し、このことがもたらす変化を楽しみにしていました。最初のうちは、テストステロンは私に大きな自信を与えてくれました。最初の効果としては、声が低くなり、より威厳が感じられるようになりました。

それから2年間、私の声はさらに深くなり、ひげが生えてきて、体脂肪再分布症候群が見受けられるようになりました。私は男性として完全に通るようになってからも、チェストバインダー(胸部を圧迫して平らに見せる下着)を毎日つけ続けていましたが、痛みがあり、呼吸も妨げられました。20歳の頃には、成人向けのクリニックで治療を受けていました。テストステロンとバインダーの影響で、胸の見た目が悪くなり、ますます嫌になりました。また、顔と体を一致させたかったので、二重乳房切除術を紹介してもらいました。

両親との関係はずっと悪いままでした。母とは口をきかなくなりました。父は、私が17歳になってすぐに私をアパートから追い出し、私はユースホステルで暮らしていました。父と私は連絡を取り合っていましたが、父は私の性別移行に断固として反対していました。しかし、彼はしぶしぶ私を手術に連れて行ってくれました。手術を受けたとき、私は法的には成人でしたし、私は自分の責任を免れることはできません。しかし、私は問題を抱えていた10代の頃、思春期抑制剤→テストステロン→手術という道筋に連れてこられたのです。手術の結果、胸の神経にダメージを受け、以前のような感覚がなくなってしまいました。もし子供を授かることができても、母乳で育てることはありません。

術後1年目の終わり頃から、あることが起こり始めました。脳が成熟してきたのです。私は自分がどのようにしてここまで来たのかを考え、自分自身に問いかけてみました。その中でも特に大きかったのは "何が私を男にするのか?"ということでした。

私は、自分の思考プロセスにどれだけ多くの欠陥があったか、また、それらの欠陥は、一般社会の文化の中でますます多く見うけられるようになったジェンダーに関する主張や、タビストックで採用されているジェンダーに関する主張とどのように相互作用していたかに気づき始めました。ホルモン剤と手術で男性のように見える人になれるという、14歳のときの考えを思い出しました。私はそのような人間になりました。しかし、私は自分が男性とは身体的に大きく異なることに気づきました。トランス男性として生きることで、自分がまだ女性であると認識することができるようになったのです。

また、私が性別移行によって実現していた姿はステレオタイプに基づいており、"男性的な男性 "という狭いアイデンティティを想定しようとしていたこともわかり始めました。性別移行は私にとって次第に意味を持たないものになってきました。また、自分の性別移行が性的パートナーを見つけることに影響するのではないかという不安もありました。

さらに、治療の長期的な影響については誰も知らないという事実もありました。例えば私は、思春期抑制剤とテストステロンの影響で、通常の場合は閉経後に起こるヴァギナの萎縮、つまり膣壁が薄くなり脆くなってきたことに向き合わねばなりませんでした。私は再度、自分自身について本当に嫌な気持ちになり始めました。

私は性別移行を断固としてやめようと決めました。次のテストステロン注射の予定日には、その予約をキャンセルしました。

この決断をした後、私はデトランジショナー(性別移行をした後で元の性別に戻った人、脱トランス者)のためのsubreddit(インターネット上の交流サイトReddit内のサブグループ)を見つけました。このsubredditの参加者数は増えていきました。それはまるで、私たちもその当事者であるところの医療スキャンダルを、若い女性たちが集団的に認識したかのようでした。そこは、私たちが自分の経験について話し、お互いに支え合うことができる場所でした。私は解放された気分になりました。

私に起こったことは、他の西欧諸国でも起きています。ここ数年、タビストックの内部告発者たちがメディアに向けて、時には匿名で警鐘を鳴らしていることに注目してきた人たちにとって、私のケースはほとんど驚きではなかったようです。このような懸念からタビストックを離れた人もいます。しかし、トランスジェンダーの問題は、今や非常に政治的であり、アイデンティティ・ポリティクスの問題に巻き込まれています。若者の医学的な性別移行に疑問を呈すると、危険なのです。そのようなことをした人は、中傷されたり、キャリアを脅かされたりしています。

タビストックでは、医者は「ジェンダー・アファーマティブ・ケア」(gender affirmative care)を行っています。その現実的な意味は、子どもや10代の若者が性別移行を希望する場合、彼らの主張は通常、決定的なものとして受け入れられる、ということです。ジェンダー・アファーマティブ・ケアは、多くの場所でモデルとして採用されています。2018年、アメリカ小児科学会は、トランスジェンダーやジェンダーが多様であると認識する若者の治療に関する方針声明を発表し、"ジェンダー・アファーマティブ・ケア "を提唱しました。

しかし、タビストックので以前働いていた医師らは、助けを求めた子供たちがこうむっていたさまざまな問題を挙げています。性的虐待、トラウマ、親からの放棄、家族間や学校でのホモフォビア、うつ、不安、自閉症スペクトラムであること、ADHDであることなどです。このような深刻な問題、そしてそれらがどのように性別違和と結びついているのかということは、しばしば無視されてきました。それは性別移行を万能の解決策としたいがためなのです。

高等裁判所が認めたように、このクリニックの治療の多くは確かな証拠にも基づいていません。私たちのケースが受理された時点では、NHS(国民保健サービス)は思春期抑制剤の効果は「完全に元に戻る」と主張していました。しかし最近になって、NHSは「10代の若者の体や脳に及ぼす "長期的な副作用 "についてはほとんど知られていない」と認め、立場を逆転させました。しかし、NHSは私のような人々にこの薬を処方することを止めませんでした。

スウェーデンのヨーテボリ大学の児童青年精神医学教授で、自閉症の専門家であるクリストファー・ギルバーグ博士は、私たちの訴訟の専門家証人でした。ギルバーグ博士は法廷で、45年間にわたって自閉症の子どもたちを治療してきた中で、性別違和の患者はまれだったが、2013年からその数が爆発的に増加し、そのほとんどが生物学的には女の子だったと述べています。ギルバーグ博士は法廷で、タビストックで起きていることは、子どもや青年に対する「人体実験」であると述べました。

自分の子供たちが医学的な性別移行を始めることに抵抗があったり、警戒したりする親は、"死んだ娘と生きている息子のどちらがいい?"(または"死んだ息子と生きている娘のどちらがいい?")と警告されることもあるでしょう。私は10代の頃、自殺願望がありました。自殺願望があるということは、深刻なメンタルヘルス上の問題があるということであり、診察と適切なケアが必要です。私がタビストックでそのことを話したときには、彼らにとってそれは、私の健康状態を改善するために早くホルモン剤を投与しなければならない理由になりました。しかし、判決後、タビストックは、12歳から15歳で思春期抑制剤の服用を開始した44人の患者を対象とした内部調査の結果を発表しました。それによると、この治療法は患者の精神状態を改善することができず、"心理的機能、自傷行為への思考、ボディイメージに有意な影響を与えなかった "とのことです。さらに、その44人の患者のうち、43人が異性ホルモン投与に移行しました。このことから、思春期抑制剤の投与は成長の一時休止を提供するものではなく、異性ホルモン摂取への後押しをしていることがわかります。
テストステロンの投与を開始する前に、私は子供が欲しいかどうか、あるいは性別移行によって不妊になる可能性があるので卵子の凍結を検討したいかどうかを尋ねられました。10代だった私は、子供を持つことなど想像もできませんでしたし、その一連の措置はNHS(国民保健サービス)ではカバーされませんでした。私は、できなくても構わないし、卵子を凍結する必要もないと言いました。しかし、若い大人になった今、当時の私は不妊の意味を本当には理解していなかったことがわかりました。子供を持つことは基本的な権利であり、それが私から既に奪われたのかどうかはわかりません。

タビストック側は弁護の一環として、性別移行ケアに満足している何人かの若いトランスジェンダーの人たちの声明を出しました。その一人、Sは13歳のトランスの少年で、ジェンダー・アイデンティティ・デベロプメント・サービスの待ち時間があまりにも長かったため、民間の業者から思春期抑制剤を入手しました。Sは法廷で、子どもを持つことについて「将来の自分がどう思うかはわからない」とし、「恋愛関係」になったことが今まで一度もないため、子どもを持つことは「今のところ考えていない」と述べました。

多くのティーンエイジャーが、将来の性的関係について考えるとき、困惑し、不安を感じることがあります。 同じ人が大人になると、まったく違った気持ちを持つことが多いのです。私も同様だったから分かるのです。私は性別移行までに誰とも一度も性的関係を持ったことがなかったので、性別移行が性的にどのような意味を持つのか、よく理解していませんでした。

Sの発言は、未成年者がまだ理解できない処置に同意することがいかに難しいかを示しています。裁判官が書いているように、"生殖能力や完全な性機能を失うことが後年になってどのような意味を持つのかを説明するにあたって、このような年齢の子供たちの多くに説明できる適切な方法はない"。

24歳の今、私は初めて真剣な交際をしています。パートナーは、私がすることすべてに協力的で、私も彼女に同じことをしています。彼女には私を受け入れてくれる大勢の女性の友人がいて、とても癒されています。今のところ、私は両親とは話していませんし、かかわりも持っていません。

今でも時々、男性に間違われることがあります。私はそれを予期していますし、そのことに怒りはしません。これからの人生、そのことを背負って生きていくことになるからです。私が怒っているのは、こんな若い時に自分の体が変えられてしまったその道筋についてです。人々は、私が胸の再建手術を受けるのか、あるいはもっと女性らしく見えるように他のことをするのかを知りたがります。私はまだ乳房切除術のプロセスの途中でした。今のところ、これ以上はこのような外科的な手術は避けたいと思っています。

この訴訟に参加したときは、これほど大きな訴訟になるとは思っていませんでした。判決後の展開は、まさにジェットコースターのようでした。多くの人が私に感謝してくれました。また、ネット上で攻撃を受けたこともあります。性別移行を後悔している人が自分の経験を語ろうとすると、偏見の塊だと思われてしまうのです。「トランスジェンダーの権利を奪おうとしている」「子どもたちは自分と自分の体にとって何がベストかを知っている」「子どもたちの人生を台無しにしている」などと言われるでしょう。

しかし、私は悩める若者にとって何がベストなのかを重視しています。多くの少女たちは、メンタルヘルス上の疾患や人生のトラウマなどの理由により苦痛を感じているからこそ性別移行するのです。性別移行すればすべてが解決するという夢にとらわれてしまう気持ちもわかります。

自分の話をすることはカタルシスをもたらしますが、私はまだ苦闘していますし、適切なセラピーを受けていません。私は自分の人生を歩みながら、この問題のためにアクティヴィスト(活動家)になるつもりです。他の子供たちが誤った道を歩まないようにする助けにするために、私のようなケースの人たちからのメッセージを集めたいと考えています。今年、私は3月12日の第1回「デトランス・アウェアネス・デイ」(脱トランスを知るための意識啓発デー)の開催に協力しました。 今後、この日が他の人々を勇気づける道標となることを願っています。

私は柔軟性に欠ける性表現には賛成しません。自分を表現するさまざまな方法を模索するにあたって、人は安心した状態のもとで、受容されていると感じるようでなくてはと思います。判決後の声明で述べたように、これは、同性愛嫌悪、女性嫌悪、そして異なる人々へのいじめを止めることを意味します。

また、専門家や臨床医には、性別違和を抱える人々を支援するためのより良いメンタルヘルスサービスやモデルを構築することを求めます。私のように悩んだり、混乱したり、孤独を感じたりしている若者たちを、性別移行することが唯一の可能な答えだなどという結論に追いやってほしくないのです。

私は助けを必要とする不幸な少女でした。それなのに、私は実験のように扱われたのです。



原文 https://www.persuasion.community/p/keira-bell-my-story

訳文担当:YW


※キーラ・ベル (KEIRA BELL) さん   twitter   @KLBfax