D2021 Demonstrationに参加

 神宮外苑地区の再開発に伴い、およそ1000本の樹木が伐採/移植になるとSNSで知り、再開発の見直しを求めるデモへ参加しました。

 ここへ初めて訪れたのは、
日本ラグビートップリーグのチームに在籍する同僚の活躍を観戦しに秩父宮競技場へ行った時のこと。
「夜曲(セレナーデ)に見合う見事ないちょう並木ですね。なるほど。」と思いながら踏み入れた足で、軽く思深みなエリアだという印象を持っていて、
ある種今回の出来事は、90年代の日常から現世代へのシフト、という意味合いもあるかもしれないと思っており。また並行して、
新規の開発案を通して、そのエッジ立つ人々の実際はどのような景色を見ているのか、との好奇心を持ち寄り参加させていただきました。
私的な見解は、まずはNOです。

 ですが、功利的という言葉がある。
それは最大幸福を中心に考える行為。
しかし、多様な現代において一選択である最大幸福は100%の解ではない。と認識している。
何らか組織を率いるものはそれを最優先に選択を進める。
組織において最大幸福から<こぼれ落ちた者たち>へのフォロー、
私はそこに関心がある、判断をする人と下された人の間に、ギャップやボタンのかけ違えレベルの齟齬、ないし、
彼方の食い違い。が存在するのか。
生の声に関心があった。だから参加した。

 参加状況は、居住地域が近郊の方々がメイン、
地域外からの私のようなものは一部の状況。

#有識者たちによる投げ掛けられる言葉は説得と重みがあり、
#私含めたこぼれ落ちるかもしれない者たちへ切に響いていた。

 デモの後半、参加者同士の平場での話し合いが用意された。
そこではみなさんまずおっしゃられるのは「政府は何も分かってない」「一方的な計画。」という見解をお持ちでした。

森林を<世界>と捉えるに一千年の価値を、<社会>においてこの先百年の価値に置き換える短絡。
と理解しましたが、「選択者は本当にその点に関して咀嚼なしに判断しているのか?」という疑問が払拭できず、モヤモヤする。

<d2021>
そのモヤモヤへのスタートラインとして、この<対話>が配置されていたのかと理解。

訴えるという行為に、あくまで抵抗/反するというスタンスは意味薄く、
あくまで、どちらも正さを持ちうる<可能性>という面に強く作用するような印象を受けました。

また、異なるバックボーン同士の人々がお互いの主張に意見を重ねることで
交差し新しい解を見出す行為にワクワクしました。

 考えをもっとよく纏めたい、みな色々な景色を見ている、
その様な中で、
<何くそ、自分にもできるんじゃないか。>
<ソフトな訴求!>といったささやかな思考運動を継続していきたい。云々、と強く思えた夜でした。

ありがとうございました。

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