「首に噛み痕、背中に爪痕」

ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めていた。気だるい気分で俺は頭を動かし時計を見る。午後9時半を過ぎた頃。そろそろあの時間がやってくる。
―コンコン
玄関の戸がノックされる。しかし、俺は無視をする。すると、もう一度ノック二回。そして、ココンと打ち損じたような続いたノック。これが合図である。長い息を吐いて立ち上がる。
「どうぞ。鍵は掛けてないから」
ドアに向かって声をかける。すると、控え目にドアノブが回り、開く。
「お兄ぃ。ごめんね。こんな時間に」
入って来たのはセミロングの黒髪を湛えた女の子―ここでは一応「サキ」と呼ぶことにしよう―だった。
「いい。今更だしな。まぁ、座れよ」
「うん。お邪魔します」
サキは隣の部屋に住む俺の後輩だ。小さい頃から家族ぐるみの付き合いで、昔からよく遊んでいた。マンションの廊下でかけっこだの、かくれんぼだのをしては大人に怒られたり、いろんな階にいる知らない住人に変なアダ名をつけて笑いあったりなど。今思えば下らないことをして遊んでいた。その頃の名残かサキは未だに俺のことを「お兄ぃ」と呼ぶ。もちろん、血など繋がってはいない。サキ曰く、幼いながら「私の理想のお兄ちゃん」だったからだそうだ。
「ほれ、紅茶でよかったか?」
「うん。ありがと」
適当に淹れた紅茶を出す。ティーバッグの渋いヤツ。俺は大して美味しいなどこれっぽっちも思わないのだが、サキの方は割りと気に入っているようだ。両手でマグカップを持ち、ちびりちびりと飲む姿は男ならある一定の人気を得そうな位である。
さて、話が脇道に逸れた。サキがこんな時間に俺の家を訪ねたのには理由がある。それはいつもの『許し』のためである。俺は黙々とその『許し』の準備を進めていく。
「最近、調子良さそうだったのにな」
「そうでもないよ。ストレスばっかり」
吐き捨てる様に言ったサキの顔を盗み見る。なるほど、来たときには気づかなかったが、目の下に深いクマが出来ていた。
「おばさんは?」
「元気だよ。今日は出張でいないけど」
「そうか、大変だな。シングルマザーも」
「そうみたい。…いい大学行かせてもらってるから頑張らなきゃ」
ふわっと笑みを作って見せるサキだが、実際無理して笑っているのが丸分かりだった。
―今回の「許し」は大分手間がかかるかもな。
なんてことを頭の隅で考えていたら、ひとしきりの俺の準備ができた。
「サキ」
準備できたぞ。と声をかけた瞬間、サキはビクリと身を震わせる。
「…どうする?」
「…うん。お願いします。ご主人様」

サキと俺がやってること。
それを単純な言葉にすれば『SM』である。
加虐し、される関係。ご主人様と奴隷。
それが俺とサキの間で行っている「許し」の正体である。
とはいえ、本当に傷つけるとか、理不尽を与えるなんてつもりは更々ない。これは謂わば、二人の間でのみ行う『ごっこ遊び』であり、サキにとっては『ストレスの吐き出し場所』であるのだ。
「…大丈夫か?腕とか痛くないか?」
「大丈夫。へいき」
競泳水着に着替えたサキを後手に縄で縛り、目隠しと首輪を施す。
見た目としては非常にシュールなことだが、これが俺達にとっては当たり前である。
なにせ、『ごっこ遊び』だ。さっきも言ったが、本当に拷問する訳でも、『SMだから』でエッチなことをさせるわけでもない。これくらいの中途半端が俺達には妥当なのである。
「さて、と。じゃあ、始めるよ?」
一応、確認をとる。なにかあってからでは不味いためだ。サキがコクリとうなずくのを確認して、俺は自分の中の加虐スイッチを入れる。
―バチン
おもいっきりサキの右頬を平手で叩いた。「あぐっ」とサキは小さくうめいたが、すぐ元の正座の態勢に戻る。…もう一度。
―バチン
今度は左頬を叩いた。それなりには力を込めているので痛いはずだが、サキは声をあげない。
「なぁ、今回は何したの?なんか悪いことしたんだろ?」
サキの顎をつかんで顔を上げさせる。もちろん目隠しがあるから俺の顔が見えるわけではないが、眼と眼を強制的に合わせている状態をつくりあげる。
「悪いこと…は…」
―バチン
なにか言いかけた所をまた叩く。
態勢を崩しサキはベッドに倒れ込む。
「何したのか。早く言わないとまた叩くよ?」
叩いた所を淡く撫でる。すでに真っ赤になっているため、サキはジンジンとした痛みを感じているだろう。口を真一文字に結んでいる。
「言わないなら、こうしようか」
叩く狙いを頬から次へ移す。水着から伸びる健康的な太ももへ狙いを定め、叩く。
―バチン
頬を叩いた時よりも少し強めに叩く。色白な肌がすぐに赤くなる。
「いたっ…」
「誰のせいで痛い思いしてるのかなっ!」
―バチンバチン
連続して叩く。叩かれる度にサキは身を震わせる。もちろん、耐えられる程度に加減してある訳だが。
「ねぇ。黙ったままだと分かんないんだけど」
繰り返し叩いていく。叩かれる度にうめき、逃げようとするサキを押さえつけて、続けて叩く。
「で…?なにをしたのかな?イイ子のサキちゃんはっ!」
だめ押しの様におもいっきりの力で叩く。今までよりも更に強く行ったので、さすがに耐えられなかったのかサキの口から「痛い!」と声があがる。
「ほら、痛いのが嫌なら言いなよ!早く!」
一番強い力で繰り返し繰り返し同じ所を叩く。「痛い痛い」という声を無視して左右の太ももを叩いていく。

「…で、言うつもりになった?」
言わせるつもり無い位に連続して叩いた後。サキは肩で息をしていた。多分、目隠しの下ではうっすらと涙を溜めているだろうことは、予想ができる。
「もう、許してください…」
震えた声でサキがお願いを言葉にする。
それに対して俺はわざとらしいため息をついてから、サキの首にはまった首輪を乱暴につかんで、無理やり顔を引き上げる。
「質問はただひとつしかしてないよ?サキはなにをしたのかな?」
今度はさっきと違った優しい声音で問いかける。ふるふると唇をふるわせながら、サキは口を開く。
「私は、今日。人の悪口を言いました」
「ふぅん?それだけ?」
「あ…あと、出さないといけない提出物を遅れて出しました」
ポロポロとサキの口からこぼれてくるのは、ともすれば下らない「悪さ」。誰しもが日常茶飯事にやる凡ミスやちょっとした人への妬み。人によっては「そんな程度の事?」と鼻で笑うレベルの悪さを次々と吐きだしていく。
「へぇ、そんなに悪いことをしてたんだ」
いろいろと自分の悪行を吐き出したサキに俺は優しくそういった直後、おもいっきり頬を叩く。「あぐっ!」とうめいて再びサキはベッドに倒れ込む。
「そんなことをして、よくイイ子だなんて言えるね。あぁ、他人の前ではイイ子ぶるの得意だもんな。サキは」
「ちが…違う…」
「違うことは無いもんなぁ!イイ子ぶってるだろう?誰の前でもニコニコして、頑張ってる姿を見せて。皆から偉いねって言われて、天狗になってるんだろ」
今度は理不尽に怒鳴り付ける。いつもサキがやっていることを否定していく。
「頑張ってます。イイ子ですってやってて気持ちイイだろうな!本来のお前見せなくていいからな!内心他人の事を見下して笑えるんだからな」
背中で纏められた縄を乱暴に掴み、起き上がらせる。そして、そのまま正面から抱きすくめる形で背中に手を回し、おもいっきり爪を立てる。
「いっ…たい…」
ただでさえ細身で脂肪も筋肉もついていないサキの背中を鷲掴む。叩かれた痛みとはまた別種のギリギリとした痛みを与えていく。
「なぁ、なんとか言ったらどうなんだ?それともこのほっそい喉には声帯なんてついてねぇのか?」
痛みに耐えているため、うめくしかできないのを承知でなじってゆく。多分、このままでも。いや、むしろ、既に泣き始めているだろうことは察しが付いているが、このとき、俺にちょっとしたいたずら心が芽生えた。ギリギリと背中に爪を立てたまま、気取られないように顔を近づけると、首筋から肩口の辺りに向かって噛みついてみた。
「んぐっ!?あ…づっ…」
サキは瞬間、息を飲んだ。唐突に俺が噛みついてきて、予想もしてなかったためだろうが、すぐに痛みに耐え始める。
「我慢すれば許してもらえるとおもってる?」
耳元でささやくように問いかける。ビクリと体を跳ねさせるサキを俺は更に精神的に追い詰めていく。
「我慢したとこで、俺は許さないから。お前がちゃんと泣いて許しを乞うまで続けるから」
今度は首輪を掴んで上へ引っ張る。必然的にサキの首がしまり、彼女は酸素を求める魚のように口をパクパクとさせる。
「さ、いつまでもつかな?」
ふるふると首をふるサキ。それを見て掴んでいた首輪を離す。ケホケホと咳き込むサキ。締め上げられていたため、顔は叩かれた後以上に真っ赤になっていた。
「さぁ、次はなにをしてやろうか?」
目隠しを雑に取り払い、顎を掴み自分の方を向かせる。案の定、サキの眼には既に涙が浮かんでいた。
「もっと締めてやろうか。物分かりの悪い、バカなサキにはこれくらいしないとわからないもんな」
『物分かりの悪い』だの『バカ』だのをわざと強調して投げ掛ける。普段から言われない言葉を突き付けて、心を折る。
「ご、ごめん…なさい…。ごめんなさい…」
「あ?聞こえないんだけど」
最後の一押しに頬を叩く。ギリギリのラインで堪えていた涙がこれをきっかけにボロボロとこぼれ始める。
「ごめんなさい!悪い子でごめんなさい!人を見下しててごめんなさい!」
堰が切れたように泣き出す。 ぐずぐずと鼻をすすり、顔をくしゃくしゃに歪める。理不尽に叩かれ、理不尽に罵られて、最早堪えられずサキは泣き出したのだ。
―やっと泣いたか。
俺は脳内で一息ついた。
そう、これが俺の仕事。『サキを泣かせる』というのがこの『ごっこ遊びの目的』なのだ。

サキはイイ子だ。それは彼女と接した人間誰しもが思うことだろう。いつもニコニコと明るくて泣かない、気遣いができる、勉強も得意で、運動もそれなりにできる。ビジュアルもアイドルとまではいかないが、それなりに端正な顔立ちをしている。
幼なじみの俺からしても、「アニメやドラマのヒロイン」といわれても納得するくらいのスペックをサキは持っている。
しかし、彼女にも難点が1つだけある。
それは、『完璧を目指しすぎる』ことである。
元々、小さい頃から今の「イイ子なサキ」であったため、周りからは常にさらなる上を求められ、そしてサキ自身も上を目指すのが当たり前になっていた。そして、それなりにサキは上を目指すことが出来てしまった。その結果、彼女は自分にある『少しの失敗』『少しの欠点』が許せなくなってしまった。
許せなくなってしまった結果、その不満をだんだんと積み重ねてしまったサキは次第に自分自身を傷つけるようになっていった。他人からわからない程度に打撲をつけたり、指先を切ってみたりと、自傷行為に走っていった。
そんな時だった。偶然、俺の部屋に遊びに来たサキがSMグッズを見つけたのは。
なんで、そんなものを持っていたかは告白するのも恥ずかしいが俺にはそういう趣味があった。
とはいえ、別に女の子にむやみやたらと乱暴を働きたいだの、ご主人様と呼ばせていやらしいことをしたいという訳ではない。ただ、『自らの手の中で理不尽に必死に耐える姿を愛でたい』という普通の人にとってはそうそう理解されない歪んだ趣味である。
その現実にはそうそう行えない趣味を、空想で補完するために、ちょっとした拘束具―とはいっても一介のアルバイターに買える程度―を集めていた。
それが見つかった時には、一巻の終わりだと思ったのを覚えている。今までみたいな気楽な関係が終わりを迎えたんだとさえ思った。
が、その時サキが言ってきたのは軽蔑の言葉や、なかったことにする気まずいフォローの言葉ではなく、「自分を罰してみてほしい」というものだった。
それからというもの、サキの自分自身に対する不満が募った時にだけ、こうして俺にサキを加虐させ、『なかなか自分から泣けない自分を無理やり泣かせる』とともに、『自分自身に罪の告白をさせてそれを俺が許す。』ことでサキの中の罪悪感を無くすのがお決まりとなっていった。
「ほら、ほどけたぞ」
サキの体を拘束していた縄をほどいてさっさと片付ける。
自由になったサキは少し放心したように脱力したままベッドの上に座っている。
「ほら、氷枕。あと、紅茶」
縄を片付けたついでに台所から氷枕と紅茶を持ってきた。これもいつもお決まりのアフターケアである。
「…あぁ、うん。ありがと」
すこし、緩慢な動きで氷枕を手に取ったサキは叩かれた頬に当てる。毎度のことながら、自分でもやり過ぎたかと心配する時間でもある。
「ちょっと体触るぞ」
サキの二の腕や肩のあたりを揉んでほぐしてやる。
それなりに長い時間拘束していたため、血流が滞ったり、怪我をしてないか確認をすることを忘れない。
「痛い所はないか?」
「んー…まだ、ほっぺたと太ももが痛いかな?」
ふざけたように笑いながら答えるサキの顔は来た時よりほんの少し明るくなったような感じがした。
「そういうことじゃねぇっつの」
ぺちんとおでこにデコピンを食らわす。へへへと笑うサキ。
「着替えて来いよ。いつまでもそのかっこじゃダメだろ」
ひとしきり確認をして、問題ないと判断したので着替えを促す。ちょっと気だるげにしているが、サキは従って脱衣場へと向かって行った。

着替えを終え、サキと俺は部屋でぼんやりと紅茶をすすっていた。
ひとしきり落ち着いた後は二人とも精神的に疲れてぼんやりしているので、無言で過ごすことが多い。
「ねぇ、お兄ぃ」
「あ?どうした?」
マグカップを口につけながら、サキが声をかけてきた。
「今更だけど、さ。なんで、お兄ぃはこんなことに付き合ってくれるの?」
今までなかった質問に俺は返答に困る。なんで、と言われてもこれといった答えが無いのが現実で…。
「そうだなぁ…。Win-Winだからか?お前はストレス発散できるし、俺はまぁ、なんちゃってだが、SMっぽいこと出来るわけだし」
なんとか答えらしい答えをする俺に「ふぅん」と言い、再び紅茶に口をつけるサキ。
「なんだよ?」
「いや、お兄ぃもさ。一応、男な訳じゃん?襲いたくなったりしないのかなぁ…って」
少しサキの言葉にドキリとした。図星だった。
「まぁ、否定はしないな」
「でも、しないよね。お兄ぃ」
「お前とはそういう関係じゃないだろ?彼氏でもない訳で…」
「じゃあ、私が彼女になったらする?」
「あの…なぁ…」
珍しく饒舌に質問を投げ掛けてくるサキに俺は少したじろぐ。単なるアフタートークなのか、そういう関係を望むとカマをかけているのかが読めない。
「とりあえず、俺はむやみやたらと女の子に乱暴したい訳じゃないの。それとこれとは話が別!」
「なぁんだ。逃げられた」
口をとがらせながら拗ねるサキ。こういうところは昔から変わっていない。
「ま、そんな律儀なお兄ぃだから委ねられるんだけどね」
ふふんと鼻歌を歌い出しそうな勢いでサキは紅茶を飲み干し立ち上がる。
「ごちそうさま。イイ息抜きになったよ」
「そっか、ならよかった」
玄関に向かうサキの後ろをついて行く。
「それじゃ、またね。お兄ぃ。おばさんたちによろしく」
「あいよ。伝えとく」
ヒラヒラと手を振って隣へサキは帰る。
こうして、俺達二人の「ちょっと歪んだ非日常」は終わって行くのである。

==========
自室に帰った私はおもむろに着ていた服を全て脱いで、姿見の前に立ってみた。
さっきまで縄が通っていた場所にはうっすらと縄の痕がついていて、ほんのり赤みがかっていた。
毎回、『息抜き』が終わった後こうやって自分の体についた痕を見るのが癖になっていた。
お兄ぃによって付けられたこの痕が『悪い子のサキ』を消してくれたような気がするからだ。
ただ、今日は少し特別だったきがする。
首もとについた噛み痕。キレイな歯形がくっきりと残っていた。それを見た瞬間思わず私はその痕を指先でなぞっていた。ほんのりとにやけそうになっているのは、堅物であまり激しいスキンシップになりそうな責めかたをしないお兄ぃが始めてやって来た行為だったからなのかもしれない。
残念なのは背中についてるだろう爪痕が見えないこと。抱きすくめられて付けられた時、痛みか
走ったのは当たり前なのだが、それと同時にどこか安心感を覚えた自分がいた。
そっと、まだほんのりと痛みの残る背中に指を這わせてみる。そこにはちょっとだけ、立てられた爪痕の感触が残っていた。
フフッと私は笑みをこぼした。自分でもこの感情がなんなのかはあまりちゃんと理解はしていない。けれど、ある意味ちゃんと『私』をわかってくれる『お兄ぃ』という存在に感謝と信頼を抱いているのは確かだった。
明日にはおそらく消えているだろう痕を少し名残惜しく撫でた後、私はパジャマに着替えて寝ることにした。
―たぶん今日はスッキリ寝られそう。
そんなことを思いながら私はベッドの中でまぶたを閉じた。

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