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自傷行為からの脱却。自分を許したい

自分を許したい。いや、赦したいなのか。

自分がいないほうが全てがうまくいく。そんな妄想が頭に浮かんだのは、高校1年生のときだった。
授業の合間の数分の休み時間のたび、私はトイレにカッターを持ち込んで、泣きながら二の腕を切り付けていた。撫でるように切っているから、傷自体は浅いのに、大げさなくらい血が出る。「ごめんなさい」と呟きながら、なぜか私は涙を流しながら傷つけ、そんな自分を嫌悪していた。

高校を中退して、このままじゃだめだと思い、自傷行為をやめようと思った。思うだけじゃ簡単にはやめられないし、心療内科には行きたくなかった。行けば、私は自分に甘えてしまうと思った。引きこもる自分が嫌で、何の役にも立たない自分が嫌いで、やめようと思っているのに傷が増え続ける体が嫌で、部屋に首をかける紐を設置した。それは母親に見つかって、「どこにやったの」と聞いても無視されたけれど。

二十歳になって、初めて恋人ができて、その恋人に「リスカをやめないと無視するよ」と言われた。自傷行為に対しての対応としては、専門的な観点では悪い対応だったと思うけれど、私にはこれが効いた。何となくで衝動的にやっていた分はぴたりと止まった。けれど、たまにバイトで疲れてしまうと、訳も分からずに恋人に当たり散らし、そんな自分が嫌で、何とか落ち着きたくて、カミソリを手にしてしまう。

24歳になった今でも、私の二の腕には傷がある。古傷の上に、まだ赤い線がいくつもある。温泉には行けそうもない。それでも、少しずつ頻度は減ってきたから、そんな自分を認めたい。

自分を許したい。というのは、ふとした時に、自分は何をしているのだろう。こんな自分はいらない。使命はあるのだろうか。という考えがたどり着く先だ。
まだどうすればいいのかがわからないため、うまく説明できないのだが、とにかく、「私は」「私自身を」「許したい」のだ。他者に「そのままでいいじゃん」「頑張ってるよ」といくら言われても、私は今の私を認められないし、何の努力もしないでのうのうとしている自分を許せないのだ。そうか、何もしないことが許せないのだ。今、これを書いていて急に思い至った。

あれをやりたい。これをやらなきゃ。そんな思いが次々あふれて、身の程をわきまえずに次々手をつけて、収集がつかなくなる。飽き性のなれの果てかもしれないし、要領が悪くなった最終形態なのかもしれない。とにかく、今の自分も、過去のどの私も、私は嫌いですべての言動が許せないのだ。

そんな状態を、情報収集の安易な手段であるネットで調べると、パーソナリティ障害や愛着障害が近いのではないかと感じる。もっとも、専門家ではない私がネットだけで判断するのは愚かとも言える行為だから、参考程度にとどめるように意識している。
自分を許すとか、自分のすべてが嫌いなのが、人間の「当たり前」だとは思いたくなかった。

私のこの状態は「異常」で、改善されるものであると思いたい。しかし、そのために何をすればいいのかがわからず、結局自分を許せないと言いながら、のうのうと生きるしかない。

もし、私と同じような状態の人がいたら、話をしてみたい。けれど、私は人と満足に話をすることができないから、きっと無理なのだろう。

未熟な私には、noteを誰にも言えない感情の吐露にしか使っていないけれど、こんな私の呟きが、誰かに共感され、その誰かが少しでも呼吸しやすくなったなら、書いた甲斐がある。

最後まで読んでくださったあなたに、「虹を見た」程度の小さな幸せが訪れますように。

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