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自分がいかに自由なのかを思い知る

表面的にはいろんなことが上手くいっているようにみえる知人の話を聞きながら、彼女と知り合った当初からずっと感じていた違和感の正体がようやくわかった。

お金も時間もかなり自由で、
好きなことを存分にして、
家族との関係も良さそうで。

目に見えるもの。話に聞くもの。
彼女を取り巻く環境の多くを羨ましいと思った。

それなのになぜか、彼女と話すたびにわたしは違和感を覚えていた。
それは彼女の圧倒的な不自由さに対するもどかしさなのだと、最近になって気が付いた。

お金が自由でも、時間が自由でも、
彼女は自分で自分のことを縛り続けている。
妻として、とか、母として、とか。
許される(と彼女が思い込んでいる)範囲の中で好きなことをしているけれど、いつもそのことに罪悪感を持っている。

好きなことをしているようで、
それらはすべて、不自由な土壌の上に成り立っている。


翻って、
お金や時間が彼女ほど自由にならなくても、
わたしは自分がどれだけ自由なのかを思い知った。
むしろ、自分が自由であること。
わたしがそれを思い知るために、彼女がわたしの世界に存在してくれているのかもしれないとさえ今は思う。

自分が20年かけて耕してきた自由の土壌が、こんなにも尊いものだとは気が付かなかった。
彼女に限らず、これまでにも目に見えるいろんなものを羨ましいと思って来た。社会的に価値があるとされている、けれど自分が持てないあらゆるものを眺めては、それらを持たない自分を低く小さく感じた。

自分はちゃんとしていないと思い、
頑張りが足りないと思い、
その代償として、ありとあらゆることが不自由なのだと思った。

それでも、自分の心の声だけは聞き続けた。

自分の感覚にだけは抗えなかった。

バカなこだわりだと言われたり、社会的に大人としてダメだと責められたりしても、意に沿わないことはしなかった。
やりたくないことはやらない。
魂だけは何にも売らない。
思ってもいないことを、その場の都合や付き合いのためだけに言ったりもしないし、当たり前だと強いられる我慢にも、納得できる範囲で着地点を探した。

これらは、自分に対して守ってきた、というほどのことでもないかもしれない。
ただただ、普通のことができなかっただけ。


けれどその年月が、こんなに豊かさの元になるのだと、自分を自由にするのだと、あの頃のわたしは知らない。

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