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「字は読めるけど文章が理解できない人たち」

先日、ちょくちょく会って一緒に遊んだりする友人(上場企業の役員や関連会社の社長を歴任後、今は悠々自適な生活をしている)や仲間たちと、日本人のメタ認知の欠如や、明治維新から変わらない知識詰め込み型教育の弊害、同調依存、境界知能の問題などについて話しをしていると、「関係するかどうかわからないけど、日本人って識字率は高いし、文章は読めるんだけど、その文章の意味が理解できない人が3割いるらしく、実際に何人かそれを実感したことがある。でも、一度や二度の面接などでは、なかなか判別できない。」ということを言いだしました。

私は、その話しを聞いて「そういう人って、高学歴でもある程度はいますね!」とすかさずコメントしたのですが、それは、20年以上のお付き合いのある善良なる人達(善良でない人達とはお付き合いしません)の中で、良い意味では変わらない、悪い意味では進歩のない人達が少なからずいるということと符合したからです。

確かに、日常生活において様々な苦労があるという境界知能範囲内(IQ70以上85未満)にいる方の14%を含んでいるとし、またIQ70未満の知的障碍の方9%加えても23%です。30%が正しいとするなら、つまり残り7%はIQ85以上の一般カテゴリーの方に存在しているということです。

この7%は、普段の生活で接する機会のある77%のうちの7%、つまり約10%、10人に1人という結構な割合いです。私が頭に浮かんだ人達は、全員大卒で、入学するにはそこそこの学力が必要ですが、大切にしている矜持のようなものの認識や生活スタイルがアップデートされることがなく、ピンボケな反応や論理的っぽい否定反応が特徴で、とどのつまりは、自分はこうありたいという意志を感じないのです。

この場合の習熟はしても学習しない、行動変容しない(アップデートされない)真の原因は、所謂、心理学的に言う「認知的不協和」によるものではなく、知識詰め込み型の教育の弊害なのではないかと。つまり、さまざまなことを覚えることはでき、さもわかっているかのような客観的論評はできても、当事者として主体性をもって考える力が失われてしまったからではないか?あるいは自己を切り離す事で苦痛の努力に耐えてきたという仮説、まさに「手術しないロボトミー」そんな言葉が頭に浮かびました。

字は読めるけど文章が理解できない、字面や話し自体は理解できても、常に他人事であり、アナロジーを見い出せても、常に自己とは切り離されている。ということではないかと。つまり、「認知的不協和」状態にすらならないということです。

長く付き合わないとわからないのですが、自分自身に対する本質的課題認識の乏しい人は、この7%(普段付き合いのある人の10%)に該当しているのかも知れません。「認知的不協和」によってわかろうとしない状態の人、課題認識はあるけどやらない人、つまり「不確実性の恐怖」に負けている人は、双方ともこの外側にいる人ってことです。

#認知的不協和
#不確実性の恐怖

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