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花粉と歴史ロマン 「桑海の変」

 令和5年度 九十九里郷土研究会の総会で私の講演に参加された山本郁夫(寒苦)様より、いただいた絵手紙です。「桑海の変」とは、なんのことだろう。

1 「森が動いた」中村先生の古生態学

 50年前に高知大学で受けた中村純先生の講義で受けた一言「森が動いた」は、動かない森を動的に扱う「推測の科学」であった。以来、時間と空間を圧縮できる「花粉」の魅力に惹かれ今日に至りましたが、34年間の教員生活の中で、十分に伝えられませんでした。それが、退職してから社会人とくにシニアの方々からは好意的な反響があり、私の教師歴の中でいつの間にか様々な事象が圧縮され、聞くに耐えうる?筋書きが生まれてきたように思います。
 さて、今回の「桑海の変」は、海進・海退を一言で表現した熟語であることを知りました。私の拙い講義の感想として、この言葉を教えていただけたこと、有難い経験になりました。
 講演内容は、これまでの note記事から選んだものでした。太平洋側に拡大してきた九十九里海岸平野は、西方の東金から東に向かう路線バスの停留所の名前からも集落と湿地が繰り返されており、縄文海進や弥生の海退を知る身近な場所でした。
 「桑海の変」を調べたところ、大地だったところが桑畑となるような、あるいは逆に桑田が変じて海となるような、世の中の移り変わりの激しさを表現したものとありました。漢詩にたとえられた自然界の変化は、実際には短期間に生じたものではないけれども、長い歴史を文字で伝えてきた中国ならば、世代を超えて圧縮された人々の記憶に根拠を感じます。

 また、この熟語が、夏目漱石の「三四郎」で使われているとの情報を発見しました。改めて「三四郎」のページを検索したところ(漱石全集 第7巻)、ありました。p.192でした。初めからページをめくる宝物探しの作業は、退職した者にしか味わえない贅沢な時間となりました。まるで、熊本から出てきた「三四郎」が「学問の世界」や「都会の女性」に憧れを感じる経緯をなぞるような、青春期へのタイムスリップになったのです。この続きは、最終章に続きます。

2 長崎県壱岐・対馬の植生変遷

長崎県壱岐・対馬両島周辺海域の等深線(青50m、赤120m)
同僚だったEgamix氏が作成してくれました。

 両島の植生変遷を花粉分析で示すことが目標でした。が、リアス式海岸が卓越した対馬では平野も小さく、連続した堆積物の採掘は困難でした。結論として十分な堆積物の発見が遅れ、研究活動は未完となりました。
 ただし、最終氷期最盛期(1.5万年前)とヤンガードライアス期(1.2万年前)の堆積物が壱岐島から得られ、亜寒帯性の針葉樹の時代の後に寒の戻りを示す年代にヨモギ属を主とする草原の成立が推定されました。
 寒くても森林が成立するのが現在の日本列島の植物世界です。草原になるのは樹木の生育が制限されるような局地的環境、例えば強風とか乾燥が卓越する気候が想定されるのです。
 最終氷期最盛期は100m以上海面が低下しており、50mの低下でも壱岐島は九州北部に含まれ、対馬より内陸的な地形環境に置かれていました!ビンゴ!
 おそらく、壱岐の1.2万年前は、内陸地にあって乾燥・寒冷な気候下にありました。この草原植生は韓半島の状況と類似する結果でした。

2 玄界灘を越えて

 壱岐の若宮島がきっかけとなった、壱岐・対馬の植生変遷に関する研究は学生時代に知り合ったNさんに協力で成立しました。自家用車まで用意してくださるとのこと、博多港を夜12時出港のフェリーで出かけることになりました。灯のない玄界灘の夜空を見上げながら、デッキでビールを飲んで過ごしました。
 早朝、厳原港に着岸、7時までは船内に待機できるので仮眠、文系大学に就職した者同士、互助の精神か、この先、数年にわたって堆積物探しの調査が始まりました。
 堆積物は人力で掘削するものなので、二人ではできません、さらに、協力者が必要です。この後、さらに強力な協力者が現れました。Sさんです。Sさんは国立の研究機関で研究者として活躍されている方でした。
 Nさん、Sさん共にシベリア調査で苦難を共にした仲間でした。狭いテント内で同宿し、寝返りを打つとSさんの顔という体験や、凄まじい蚊と乾燥の中での野外生活を共にした経験が基盤になっていました。さらに、各自の研究目的に合わせて堆積物の獲得に協力することも前提となりました。

3 桑海の変

 四字熟語である「桑海の変」は、海退を示す「滄海変じて桑田となる」(四字熟語辞典(https://yoji.jitenon.jp)意味もあり、逆に「桑田変じて滄海となる」は
海進を意味しています。
 東シナ海は浅い海です。この海域の海面が100mも低下した場合、広大な低地が形成されていたことでしょう。たとえ10mでもその影響は大きかったはずです。
中国の約5000年の歴史の中には、海進や海退も含まれています。衛星画像で見える上海沿岸の画像には、揚子江の濁った水が沿岸に注がれています。淡水で運ばれてきた濁り(コロイド粒子)は、海水に混じると沈澱します。
 河の流れに身を任せ変転を続けてきた濁りは、大海の塩分と出会うと凝集して沈澱します。雑多な知識を濁りに形容するのも変ですが、沈殿物としてのまとまることに自分の紆余曲折の履歴を感じました!

4 三四郎

 夏目漱石の作品は、小説の筋書きとは別の魅力がありました。自然界を形容する表現が本来、人格に関わる言葉であるとか、こういった難解さに触れることは憧れでもありましたが、現在のようにググれなかった当時、難解さの解消はできないまま、読み終えていました。
 この歳になって、また、ネット社会の力を借りて漱石の作品に向かうことができました。「三四郎」には「桑海の変」ではなく、「滄桑の変」とあり、カギカッコで引用された部分は、「ハイドリオタフヒアの末節」とあり、注解には、17世紀の「古代の骨壷」の発見をもとに考察したものらしいことが書かれています。
 いずれにしても、今も昔も人の願いは「朽ちざる墓に眠り」「伝わることに生き」「知らるる名に残り」しからずば「滄桑の変に任せて」「後の世に存せんと思うこと」である。
 そうだったのか!多くの人々に共通する煩悩とも言えるこの願い、私自身もこの世に生きてきたのだ。

 さて、このくだりを、院生時代の先輩のTsuさんや、Haさんにお話ししたところ、Tsuさんは、ところで「三四郎に出てくる美禰子の姓は、里見だったんだよね」と抜群の記憶力を示されました。また、三四郎が公表された明治41年は、漱石41歳の年です。老成していたとうべきか?この年齢で、引用箇所に目を向けていた漱石の知識力にも凄さを感じるとTsuさんに伝えますと、後日、漱石も捻り出すように創作していたとの返事。うーむ、たとえ漱石でも努力した結晶だったとする観方。
 この人生上の願いに関する部分、漱石自身も共感したからこそ小説に引用したんだと、さらに記憶力抜群のTsuさんも「絞り出す」努力を日々されていることを感じた次第です。了!


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