見出し画像

甲斐よしひろと熱狂

 彼は地元商業高校を卒業し就職。約3ヶ月間のサラリーマン生活も経験したが、歌うことを捨てることができず、以前のように弾き語りを選んだ。彼が出演していたフォーク喫茶は、そこから巣立っていったミュージシャンが東京で成功していたため、全国的に知られるようになる。「照和」といった。
 彼は、地元放送局主催のフォークコンテストで優勝する。そしてレコードデビューが決定すると、彼はメンバーを集めた。プロになるなら、バンドを組んでロックをやりたかった。
 バンドのギタリストは、ライブハウスで見かけたフォークデュオをしていた男に決めていた。男はレコードデビューが決まって始めてエレキギターを弾いた。ベースギターの男はライブハウスに出入りしており、セッション仲間だった。ドラムは学生服姿でタバコを吸い、彼からバス賃を借りたことで因縁の付き合いが始まる男。その男も別のバンドのリードギタリストだった。
彼はメンバーをテクニックで選ぶことはせず、一緒に活動する上で、雰囲気と人間性で選んだという。

『らいむらいと』(1974)は、フォーク喫茶で弾き語りをしていた時の曲を集めた作品なので、正確にはバンドのファーストアルバムとは呼びがたい。しかし、レコードの帯には
「九州最後のスーパースター・甲斐バンド」という宣伝文句が掲げられていた。

 セカンドアルバム『英雄と悪漢』(1975)から音楽性はガラリと変わり、ロック色が強く押し出された。甲斐バンドストーリーの始まりである。「裏切りの街角」のヒットはあったが、日本でのロック市場の貧弱さからか全国的な知名度はさほど上がらず、彼らは地道に精力的なライブを続けた(多い時は年間200本)。甲斐バンドの熱狂的なステージは徐々に話題となり、地方会場の中では床が抜ける騒ぎも起き、出入り禁止になったというニュースも音楽雑誌を賑わすようになっていった。

 「HERO ~ヒーローになる時はそれは今~」の大ヒットがバンドに勢いをつけた。テレビ出演も果たし、話題になる。そして時代は1980年代に入り、彼らの音楽性と日本でのレコーディングやミックスダウンの質に乖離が起きるようになっていった。

 彼は日本では出せない音を求め、ニューヨークへ飛んだ。パワーステーションスタジオにおける3部作が甲斐バンドの頂点だ。ボブ・クリアマウンテンの手から繰り出すミキシングは甲斐バンドに新しい血を注ぎ込んだ。中でも『虜・TORIKO』(1983)はその完成形といえる。
「ブライトン・ロック」に代表される熱いロック、「観覧車’82」に代表される郷愁の情景など、彼の作り出す作品はひとつの映画を見るような作品だ。ハードボイルドあり、爽やかな恋愛があり、男の生き様があり・・・。彼は言う。
「日本ではフォークシンガーにはいい詩を書くアーティストがいっぱいいる。昔から俺はそういった曲を歌ってきた。しかし、ロックの詩が書けるアーティストがいないと思う。俺はロック詩人になりたい」
彼の詩は、ビートに乗せた活きる詩だ。そしてそのビートが彼のアドレナリンをヒートアップさせる。彼は、ステージで自己陶酔する稀有なアーティストである。

 甲斐バンドは1986年7月にギタリストの大森信和の難聴による障害からバンドの終止符をうった。なんとも彼ららしい解散の理由だ。解散ツアーと並行的に制作されたソロアルバムは、バンドでは表現できない彩られた世界が広がり、男らしいバンドの印象から少しだけ軽い印象に変わった。シングルで発表された「電光石火ベイビー」はデジタルなコンピューターサウンドで、時代の音だったが悪く言えば甲斐バンド解散後、空虚感に苛まれていたファンの気持ちを逆撫でした。それくらいギャップがあった。

 そんな中、彼はソロ活動を進める。賛否両論渦巻く中、甲斐バンドのイメージは中々払拭できず、アルバムセールスも落ち込む。そしてソロからKAI FIVEへ・・・。バンドサウンドを求めた彼の答えだった。ステージでは旧い歌も取り上げ、KAI FIVEで甲斐バンドサウンドの再現も行っている。
「甲斐バンドは8ビートのバンドだった。KAI FIVEは16ビートのバンド。今の時代の速さについていけるサウンドだよ。」
彼はKAI FIVE結成時に語っている。
しかし、そのバンドも長くは続かず、再びソロへ。そして甲斐バンドの再結成へとつながる。
では、彼はソロアーティストとして魅力がないのか?  
それは違う。
 私は彼こそ日本のロックヴォーカリストとして最高の部類に入るシンガーだと思う。彼について良し悪しを決めることは、彼の作り出す音をソロとして聴くか、甲斐バンドとして聴くかの差だけのような気がする。

 彼は甲斐バンド在籍中、「HERO」が出る直前の1978年にソロアルバムをナッシュビルで録音した。彼のオリジナルは1曲だけで、あとはカバー曲である。「グッド・ナイト・ベイビー」「サルビアの花」「喫茶店で聞いた話」「10$の恋」・・・彼の好きなアーティストの好きな曲が彼のアレンジで歌われた。
 それらの曲は、カバーというカテゴリーから離れ、彼自身の歌になっており、活き活きとしていた。彼は、そういった他人の歌を歌いこなす天才でもある。
大森信和が彼を「照和」で初めて見たとき、ニール・ヤングの「HELPLESS」を弾き語りしていたそうだ。その時、大森はニール・ヤングの歌は認識できたが、どこかのブルースシンガーが歌っているように聴こえ、鳥肌が立ったという。
 彼はライブでもよくカバーを歌う。しかも、その歌を自分のモノにして歌う。
そこには、彼の歌いたい歌があり、そこには利害関係も無い。本能で歌う彼がいる。
 甲斐バンド時代は本能で歌う彼がいた。時にはそれが男臭く、それが格好悪く映ることもあったが、彼はお構いなしに私たちを引っ張っていってくれた。
 彼の居場所として甲斐バンドがしっくりくるというのは、昔からのファンなら誰もが思うことだろう。
大森がいて長岡がいて松藤がいる。1980年代であれば長岡の代わりに田中がいる。
そして彼がいる。
 甲斐バンドのレコードをターンテーブルにのせると、どこか懐かしい音ともに古いアルバムを見ている錯覚に陥る。ライブ盤を聴くとステージで汗だくの彼が甦る。
 彼=甲斐よしひろ。熱狂のステージはソロになった今でも続いている。甲斐バンドをもう一度見たいと思ったが、それは昨年の夏にかなわぬ夢と消えた。大森の死である。甲斐バンドは封印された。

私は画面の中の甲斐バンドに熱狂をみていた。
旧い映像の甲斐よしひろも今の甲斐よしひろも熱狂は変わらない。

2005年7月5日
花形

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?