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VERITAS Seminarii [ヴェリタス・セミナリー] 第二楽章 「キリストに導くための横断性」

キリストの受肉(incarnation)はキリスト教において、どのように位置付けられるだろうか。キリストの受肉を祝うクリスマス、キリストの復活を祝うイースター、聖霊降臨による教会の誕生を記念するペンテコステは三大祝祭日とされるが、しかし本来、受肉と復活と聖霊降臨を同一の地平に並べて、霊的な優劣をつけることはできるのだろうか。

或る説教者は受肉よりも復活が大切であると強調して、真理に優劣をつけることを事実上、認めている。

キリストが甦らなかったら、キリスト教は全くあり得なかったのです。ですから私たちにとってはイエスの生まれなさった日を祝するクリスマスも大切でありますが、この日はもっと大切な日であります。この日がなかったなら、このキリストの復活がなかったなら、キリストの降誕を祝うことも全く考えられません
丹羽鋹之著
『エマオへの道』(9)
憩のみぎわ社

キリストの復活が起こらなければ、キリストの十字架の死という贖罪的意味は空虚なものとなり、教会も存在することはなかったであろう。

キリスト論を最優先にすることは私たちをキリスト中心の信仰に導くという点で、一にも二にも神学的な真理なのだと断言することができる。

他方、キリストの受肉はどうしても、マリアの信仰(Fiat)抜きには語ることさえ不可能である。

キリストの受肉は処女マリアが聖霊によって身籠ったという特殊啓示のため、これを「非科学的である」「あまりにも荒唐無稽で信じることができない」として斥けるのは簡単であろう。

そのような方々はキリストの復活も、聖霊降臨による教会の誕生も信じることができず、躓くのも時間の問題であろう。

Lucas  1
38. Dixit autem Maria: Ecce ancilla Domini, fiat mihi secundum verbum tuum. Et discessit ab illa Angelus.
VLGT

ドイツの哲学者カント(1724-1804年)に言われるまでもなく、限られた理性的認識の下、私たちはキリストの受肉の神秘を完全に汲み尽くすことはできないのだ。

中世の代表的な神学者トマス・アクィナス(1225-1274年)は、プラトンの「普遍」「絶対」「イデア」を批判して、アリストテレスの「特殊」に注目したが、それらの「特殊」が「普遍」と「絶対」から独立して、自律的なものにされた結果、「特殊」が普遍化・絶対化して逆に「特殊」の意味が消えてしまった。

これこそ、理性的な信仰の限界である。

人間の理性は、ある種の認識について特殊の運命を知っている、即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である。
斥けることができないというのは、これらの問題が理性の自然的本性によって理性に課せられているからである、また答えることができないというのは、かかる問題が人間理性の一切の能力を越えているからである。
カント著
『純粋理性批判・上』(13)
岩波文庫

ローマ・カトリック教会に対して、改革者として立ったはずのプロテスタント諸教派が、現在に至るまで分裂に分裂を重ねて、剰え、プロテスタント諸教派という諸教派の特殊性が普遍化し絶対化している惨状を果たして、単純に〈多様性〉と呼ぶことはできるだろうか。

[ヤコブの手紙 1:1]

神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、離散している十二部族にあいさつを送ります。
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会 許諾番号4-2-3
[ホームページ]
https://graceandmercy.or.jp/app/

主の兄弟ヤコブは「十二部族」に宛てたのだが、それらの称号はキリストを信じている私たちの称号である。

カトリック、正教会、聖公会、プロテスタント諸教派という基礎的な範疇が存在しているが結局、神の民である私たちは使徒パウロが「神のイスラエル」(ガラテヤ書6章16節)と呼ばれている者たち、即ち、キリストに愛された教会なのである。

[使徒の働き 20:28]

あなたがたは自分自身と群れの全体に気を配りなさい。神がご自分の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、聖霊はあなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
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「神がご自分の血をもって買い取られた神の教会」と書いているように、神は「主イエス・キリストの父なる神」なのであり、同時に「わたしは、わたしの父であり、あなたがたの父である方、わたしの神であり、あなたがたの神である方」(ヨハネの福音書20章17節)なのである。

特殊的な多様性を拡散させても、究極的には「離散」(ヤコブ書1章1節)することになる。「離散」は「キリスト者が離散して各地に住んでいる」というニュアンスである。

主の兄弟ヤコブの意図がどうあれ、キリスト者たちの離散は教団教派における分裂分派でなく、あまりに拡散してしまって信仰的な接合点さえ失ってしまう、アリストテレス的な「特殊性」を自律存在として教会と主張するものでもない。

彼は教会を、キリストの十二使徒の治める霊的な十二部族として扱っている。キリスト御自身が教会の礎石であり、使徒たちと預言者たちが土台となったのである。

聖書正典はそのような意味で、神の言葉の権威が存在しているのである。

尚、教会とは何かと問うならば、キリストという礎石、及び、使徒たちと預言者たちの言葉が記された聖書正典を土台としながら、キリスト者たちが使徒的な務めを継続させ、神の愛において建て上げていくものなのだ。

[エペソ人への手紙 4:11,12,13,14,15,16]

こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。
キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。
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現状、神のイスラエルは霊的な十二部族として離散しているかもしれないが、キリスト者の一致という視点で洞察すると、神の言葉としての福音が聖書と教会を通じて宣教されていることが了解できるはずである。

制度的な、組織的な一致でなく、霊的な体験の一致でもない。
神の言葉であるキリストの愛による一致は静態的なものでなく動態的なものであって、すべての時と場所を越えて聖霊に導かれながら、自由自在に横断していくものなのであろう。

[ヨハネの福音書 10:7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18]

 そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。
わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。
牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。
彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。
わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。
わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。
だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」
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その上で、キリストを信じて離散した私たちは定立-教派主義(These)にはならないし、反定立-教派主義(Antithese)にもならない。

言うまでもなく、定立と反定立の間を揺れ動く不安の塊になることもしない。
総合-教派主義(Synthese)で包括的に福音を妥協することもできない。

[コリント人への手紙 第一  9:16]

私が福音を宣べ伝えても、私の誇りにはなりません。そうせずにはいられないのです。福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいです。
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この「わざわい」は「ουαι」(オヴェー)で、罰を恐れるような響きなのでなくて「福音を伝えずに「天幕を商品として売るだけならば〈ウェー〉というしかない」「何と情けないことか」「あまりに悲惨である」という感情の嘔吐と理解できる。

加えて言うならば私たちは、脱-教派主義でもなければ、超-教派主義に陥ることもしない。ならば福音宣教をせず、キリスト者として引き篭もるというわけでもない。

そのようなわけで初め、主に導かれて福音を宣教した時、自分自身という〈私〉をどのように自己規定すれば良いのか、理解不能であった。アリスター・マググラス(1953- )が自らの信仰の系譜に関して嘆いたように、キリストを信じる者として無知蒙昧という荒野を彷徨うしかなかったのである。

神学的な共同作業は、アリスター・マググラスが抱いたような自分自身の信仰の系譜に対する渇望を動機とする。

福音主義者は、自分の家族の歴史を知らない傾向がある。われわれは、過去において福音主義がたどってきた非常な苦闘──その勝利と敗北──について、十分に知らずにいることが多い。われわれの前を歩んで、われわれが今いる道を備えてくれた著作者、思想家、説教者、牧師たち、そして普通のキリスト者たちの小さな星の群れに気づいていない。
アリスター・マググラス著
『キリスト教の将来と福音主義』(21-22)
いのちのことば社

ローマ・カトリック教会ではマリアに関する「無原罪の御宿り」という教義(宣言、カテキズム)があるのだが、プロテスタントからすれば聖書に「義人はいない、一人もいない」「すべての人は罪を犯した」と書いている以上、絶対に認められない教義であり、そのような聖書解釈を拒絶することであろう。

しかしながら、双方には「恵み」と「原罪」に対する理解と読み方に深い隔たりがあるのではないかと考えることができる。

神は、天使ガブリエルを通じて「おめでとう。恵まれた方」(=喜びなさい。恵まれた方)とマリアに伝えている。

私たちは恵みをどう理解しているだろうか。

[ペテロの手紙 第一 5:10]

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
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神からの恵みを一方的、且つ、不可抗力的なものと認識するのも間違いではないが、神の恵みは本来、創造論と関係がある。

[創世記 1:26,27,28,29,30,31]

 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」
 神は仰せられた。「見よ。わたしは、地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木を、今あなたがたに与える。あなたがたにとってそれは食物となる。
また、生きるいのちのある、地のすべての獣、空のすべての鳥、地の上を這うすべてのもののために、すべての緑の草を食物として与える。」すると、そのようになった。
神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

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三位一体の神は位格間で永遠の愛に満ちていた御方だが、主の満ち溢れる愛は人間を創造することになった。

[エレミヤ書 31:3,4,5,6]

  主は遠くから私に現れた。
  「永遠の愛をもって、
  わたしはあなたを愛した。
  それゆえ、わたしはあなたに
  真実の愛を尽くし続けた。
  おとめイスラエルよ。
  再びわたしはあなたを建て直し、
  あなたは建て直される。
  再びあなたはタンバリンで身を飾り、
  喜び踊る者たちの輪に入る。
  再びあなたはサマリアの山々に
  ぶどう畑を作り、
  植える者たちは植え、
  その初物を味わう。
  エフライムの山で、見張る者たちが
  『さあ、シオンに、
  私たちの神、主のもとに行こう』と
  呼びかける日が来るからだ。」
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しかしながら人間は、神から被造物の冠として造られた人間は神の言葉に逆らって堕落して、罪の故に死ぬ者となった。正統か異端かの識別として、原罪を自分自身がサタンの誘惑に屈して、妻の言葉を鵜呑みにするか、それとも、サタンの誘惑に責任転嫁するかという点が非常に重要になってくる。議論の余地なく、神の言葉に逆らった原罪の責任は自分自身に徹頭徹尾あるというのが正統教義である。そうでなければ、どうして主は荒野でサタンの誘惑に勝利しなければならなかったのか、解釈不可能になってしまう。

[創世記 3:16,17,18,19]

女にはこう言われた。
  「わたしは、あなたの苦しみとうめきを
  大いに増す。
  あなたは苦しんで子を産む。
  また、あなたは夫を恋い慕うが、
  彼はあなたを支配することになる。」
また、人に言われた。
  「あなたが妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  大地は、あなたのゆえにのろわれる。
  あなたは一生の間、
  苦しんでそこから食を得ることになる。
  大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、
  あなたは野の草を食べる。
  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついにはその大地に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたは土のちりだから、
  土のちりに帰るのだ。」
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同時に、神の形を堕落の結果、私たちは失ってしまい、神に似ても似つかない存在になってしまった。

しかしながらキリストは神の形として(コロサイ書1章15節)、私たちに神の形を回復してくださったのである。

[コロサイ人への手紙 1:15]

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
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神の形が回復するとは、キリストの似姿へと新しく創造されていくということだ。神の形の回復、これを神の恵みという。

マリアは人類史上、初めて、そのような意味で神からの恵みを受けて、神の形であるイエス・キリストを宿した女性なのである。

実際、エリサベツは「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです」
(ルカの福音書1章45節)と言っているが、これはエリサベツの夫ザカリヤという祭司の不信仰を嘆き、マリアに対して羨望の思いを持った嘘偽りのない称賛であろう。

エリサベツの称賛に対して、マリアは「ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」(ルカの福音書1章48節)と告白している。神からの祝福がエリサベツからマリアへと流れ溢れたのである。

公生涯において主イエスはある女性から「あなたを宿した胎は、あなたが吸った乳房は何と幸いでしょう」と言われたが、真っ向からこれを否定している(ルカ11:27-28)。「しかし、イエスは言われた。「幸いなのは、むしろ神のことばを聞いてそれを守る人たちです」(ルカの福音書11章28節)。

さて、主の母マリアは自分の息子イエスがキリストであると信じていなかった時は家に連れ戻そうとしたことがある。気が狂ったと思い込んでしまった。

[マルコの福音書 3:21]

これを聞いて、イエスの身内の者たちはイエスを連れ戻しに出かけた。人々が「イエスはおかしくなった」と言っていたからである。
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それなのに十字架上で、主イエスはマリアを「愛する弟子」に委ねたのである。

[ヨハネの福音書 19:27]

それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。
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イエスをキリストだと信じた後のマリアは使徒たちと一緒に祈っていた。

だからこそ、マリアの信仰はキリスト者の信仰の模範であり、教会の霊的母性の「原型」なのである。

使徒パウロはキリストを「女から生まれた者」として、教会は「あなたがたの母」としている。

①女から生まれた者。

[ガラテヤ人への手紙 4:4]

しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。
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②私たちの母なる教会。

[ガラテヤ人への手紙 4:26]

しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。
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使徒ヨハネは十二の冠を被った女性、即ち、教会として描写している。

[ヨハネの黙示録 12:1,2,3,4,5,6]

また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。
女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。
また、別のしるしが天に現れた。見よ、炎のように赤い大きな竜。それは、七つの頭と十本の角を持ち、その頭に七つの王冠をかぶっていた。
その尾は天の星の三分の一を引き寄せて、それらを地に投げ落とした。また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。
女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもってすべての国々の民を牧することになっていた。その子は神のみもとに、その御座に引き上げられた。
女は荒野に逃れた。そこには、千二百六十日の間、人々が彼女を養うようにと、神によって備えられた場所があった。
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使徒パウロの「女」「母」、使徒ヨハネの「一人の女」はマリアと教会を霊的に統合して語っている。マリアの信仰はロザリオの祈りとなって溢れ流れるものだが、キリストに向かわせるために教会へと導く横断性となっている。何故なら今でも、主の母マリアは私たちのために祈ってくれているからだ。

[使徒の働き 1:12,13,14]

 そこで、使徒たちはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムに近く、安息日に歩くことが許される道のりのところにあった。
彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた。
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