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勝山を発展させた高瀬舟。岡山県真庭市。グーグルマップをゆく㉖

 グーグルマップ上を適当にタップし、ピンが立った町を空想散策する、グーグルマップをゆく。今回も友人にタップしてもらってピンが立った、岡山県真庭市。

 1764年(明和元年)、三河国西尾城より譜代大名の三浦明次がこの地に移封された。当時は高田藩と呼ばれ、高田城が居城であった。

 元々、この地域は美作国高田荘として三浦氏が領主を務めていた地で、三浦氏は神奈川県三浦半島を本貫とする桓武平氏の末裔と言われており、室町期に三浦貞宗という人物が高田城と築城したと言われている。

 戦国期、毛利氏によって三浦氏は滅亡に追いやられる。その後、城主は幾度か代わり、江戸期には天領として長らく廃城になっていた。そこにやってきたのが三浦明次である。

 明次は高田城を築城した貞宗の遠縁にあたる子孫である。しかし、移封を命じた徳川家や明次が、元々三浦氏が領主だったことを知っていたかはわからない。

 勝山藩は明次の移封によって立藩された藩であった。明次は移封後すぐに高田城の改築にかかり、勝山城と名前を改め、藩名も勝山藩と改称した。城の麓は、旭川が北南から東に流路を変える箇所 であり、流路を変えた旭川が南に流れていた。城の麓に寺町と武家屋敷を配置し、旭川に沿って町人の町を形成した。

 元々この地は宿場町で商人で賑わった町であり、室町期より高瀬舟によって舟運の盛んな地域であった。さらに商業を発展させるために産物の輸送はすべて川を利用させ、勝山を発展させることに力を注いだ。最盛期には300隻もの船が勝山と岡山の間を往来したという。

 当時の城下町としてはかなり発展しており、白壁や連子格子の商家や土蔵などが美しい街並みであり、明治の廃藩置県に至るまで三浦氏によって勝山藩は栄えた。

 江戸期以降の藩について思いを巡らす時、関ヶ原までは戦に抜きん出たものだけが勝ち残れるという時代であり、武才以外を生かすことはなかなか難しかったが、江戸期では様々な能力で藩という都市形成が行われてきた。経済や文化、どのようにして人の生活を育ませるべきか。藩主とその側近によって様々である。

 三浦氏は戦国期においては突出した実力派持ち合わせていなかったかもしれない。しかしながら、明次以降の三浦氏においては、藩を運営するという能力においては一級であったことは間違いない。

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