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類い稀なる武将・武田勝頼。山梨県韮崎市。グーグルマップをゆく②

 グーグルマップにて適当にピンを打った。
本日は山梨県韮崎市。

 韮崎市は、山梨県の北部に位置する街である。
ほとんどが山に囲まれており、都市として機能しているのはほぼ中央にいちする市街地だけに見える。そして、まるで韮崎市の背骨のように真ん中を走るのが国道20号線で、これは江戸時代の五街道の一つ、甲州街道である。

 甲州街道を北上すると新府城跡なるものが見えてくる。グーグルマップ内で、韮山市の七里岩という台地に築かれた城だったらしい。四方が開かれ、山梨県を見通せるこの場所は、築城には打ってつけだろう。

 新府城を築城したのは、武田勝頼である。愚将として評価されている武田勝頼であるが、最近の研究では見直されているらしい。武田家の歴史は古い。平安後期、韮崎に甘利荘という荘園があり、文献に所見されるのは「東寺百合文書」という文書に出てくる「平治元年閏五月宝荘厳院領荘注文」という文字であり、このことから鳥羽上皇の御願寺であった京都は宝荘厳院の荘園領であったことが伺える。

 1131年に常陸国から源義清・清光という親子が配流され、清光の子が甲斐源氏の棟梁となり、武田信義と名乗り、韮山に館を構えたのが、武田家の祖である。その16代後が武田信玄であり、17代目が武田勝頼である。家格は高い。

 武田勝頼である。勝頼は信玄の庶子であったため、家督の権利は持たなかった。しかし、信玄の嫡男であった義信の死によって家督を相続することになる。勝頼の生涯については、他の詳しいところに譲りたい。筆者は、この数奇な運命に翻弄された勝頼の精神を労いたい。

 家督権がないものが、どのように扱われて育ったか。また、突然の相続にどのような気持ちだったか。織田信長という怪物が席巻する戦国期である。周囲から期待もされぬ勝頼が、周囲の猛敵たちと対峙したことを考えると、他に類を見ない優秀な武将であったと考えるべきだろう。
上杉謙信の子、景虎や織田信長の子、信忠の方がよほど愚鈍と見るべきではないだろうか。そんなことに思いを馳せると、胸が締め付けられる思いがするのである。

 グーグルマップ上にて、新府城を登ってみた。なかなかに長い石段である。すれ違う男性に挨拶をしながら、城址まで登ると祠がある。藤武神社といい。徳川家康によって勝頼が祀られているらしい。

 戦国期の武将の勝敗についていつも思うことは、武将個人の器量よりも、どこに生まれ落ちたかという立地的な運が大きいのではないだろうか。もちろん、豊臣秀吉や徳川家康を見るとそれに限らないことは重々承知であるが、少なくとも武田勝頼や上杉謙信についてはそのように思うのである。

そんなことを考えながら、今日の空想旅行を終えたい。

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